前回、ポール・ストラザーン著の本を五冊読書してから、残りの六冊(キルケゴール、サルトル、マキャヴェリ、ロック、フーコー、デリダ)を読んでしまっての感想なのですが、デリダ、フーコーの辺になると、哲学というものが一筋縄ではゆかないものであることを改めて思い知らされます。
「哲学とは何か?」というシンプルな問いに対して、「思索すること」と言えば、はずれではありませんが、それであれば科学でも科学者は哲学者に負けないくらい思索をしています。つまり、「何を思索するのか?」が、問題なのです。
古典におけるそうした思索行為の中では、心理学、数学、物理学、倫理学などがごっちゃ混ぜで扱われていたようですが、時代が進むにつれて、それぞれが分化して独立して行き、人間の思考における究極な難問の分野を哲学として研究するために取り残された感じがします。
日本では、哲学と言えば、西周によるフィロソフィーの訳語ネーミングとして、『希哲学』として紹介され、後に『哲学』とされたのを大学の教養課程で学びましたが、この場合の哲学は西洋哲学を指していたのではないでしょうか?現代では、中国哲学といっても違和感はありませんが、この言葉の経緯については、学者にお任せします。
さて、西洋哲学といえば年代順からいえば、ソクラテス、プラトンがすぐ頭に浮かびます。この哲人たちの考えは、現代の人々にとって、依然として大切なものの考え方を提供してくれます。そして、ヒューム、デカルト、ロック、カント、ヘーゲル、ショーペンハウアーなどによる思想で私達は、自己の発見と、プラトン以来の新哲学思考を知ることになります。
ところが、ニーチェやヴィットゲンシュタインなどが出現してくると哲学は、大きな騒ぎになってきます。やれ、「神は死んだ」とか、「哲学の終焉」といったことが叫ばれ、その後ハイデッガー、サルトル、フーコーそしてデリダと続く哲学者達は、次々に自説を唱えて新哲学を発表します。
今、哲学は科学と比べると明らかに迷走しているか、あるいは袋小路にまた突入したかのような感があります。それは、哲学で語られる言葉自体が、抽象である以上、疑わしいことになったからだということでしょうか?それで、言語哲学、或いは分析哲学といった方向に行ってしまったからでしょうか?
その言語哲学ですが、池田晶子さんの文献を読むと、どうも言語哲学を忌み嫌っておられますね。言葉の分析ばかりに哲学が進むのに不快感を抱いている気がします。また、サルトル以降の出現した哲学者たちにも関心を寄せていないようです。こうしたサルトル以降の哲学者たちに対するきちんとした見解があれば、是非読んでみたいところですが、無いでしょう?
池田さんは、プラトンからヘーゲルまでの哲学論理で、現代の風潮から、つまらない、ソフィストが書いたような書物と著者をズバリと切って逝かれましたが、サルトル以降の哲学者達に対する置き土産が無かったことは残念ですね。
ところで、翻訳者である浅見昇吾氏は、デカルトの言葉、「コギト・エルゴ・スム」を「私は考える。それゆえ、私は存在する」と、翻訳して、このイギリスのベストセラーになったというシリーズものに何度も紹介しています。これを読むとき、どうしても「我思う、ゆえに、我あり」という、昔からのデカルト紹介での名文句の方を記憶しているので、どうしても気になります。
つまり、『考える』という言葉と、『思う』のニュアンスが違うのです。『考える』と言う言葉には、論理性のみがイメージされ、感情がカットされているのです。それに対して、『思う』には、論理性と感情が同居可能なわけです。たとえば、「彼女を好きだと考える」と言うと、変ですが、「彼女を好きだと思う」は、変ではありません。
そして、次に、「この計算は正しいと考える」というのと、「この計算は正しいと思う」では、後者の方には、間違っているかもしれないという意味も含まれています。だから、ある意味では 『思う』には、逃げ道があります。あと、『私は存在する』と、『我あり』ですが、これは、私の受け止め方なのですが、前者は物事を客観的に捉えている感があり、後者は、主観的なイメージを受けます。
このデカルトが発見した考える自分の存在だけが、唯一確かなものである・・・という結論に対して、後の哲学者は、デカルトは自分が狂気になっているか否かの検証まではやっていない、それが手落ちだ!と、皮肉っていますが、テクストによるものは、すべてこうして受け止め方で、ひっくり返すことができるとなれば、先程の訳し方で、前者は、客観的な発見をしたことになり、後者は主観的な発見をしたことになりませんか?もし、主観的な発見だとしたら、本人が狂っているという条件が入ると、名哲学者といえども、お話になりません。つまり、訳し方としては、浅見氏の訳し方が、デカルトにとって狂人扱いにされず、救われると言うことになります。
デカルトの名誉の為にも、日本語訳は、「私は考える。それゆえ、私は存在する」が的確だと感じますが、長ったらしくて、一般受けしない・・・つまり、キャッチフレーズにならないわけです。こうしてみると、哲学は言語の性格からして、言葉遊びになりかねません。
それで言葉遊びは、テクストとしての哲学を破壊し、真理に対する解釈にも疑念を抱かせることになり、絶対的真理などありえない、ということになれば、人間が幻想してきた『あると思う真理』をリセットし、客観的真理というものを設定するとなれば、それは真理とはいえないという矛盾までになっていきます。
そうすると、絶対的真理もなく、相対的真理、主観的真理も無いという、この世界を認識している私達は、虚構の世界に住んでいるということでしょうか?いや、虚構ではなく、現実の世界・・・つまり、真理の無い現実の世界に実存している。ということだけでしょうか?
しかし、科学の場合は、古典力学と量子力学がお互いの真理としての棲み分けをしていますから、真理が二つや三つあっても世界は成り立っていますから、個々の絶対的真理と言う風に考えればよいのかもしれません。宇宙全体は、絶対的ひとつの真理と言う風に世界は、成り立っていないのかもしれません。
また、宇宙はひとつではないのかもしれません。でも、人間は統一理論などと、何故、何でもひとつにまとめることを好むのでしょうか?ひとつでないままであっては、何故気がすまないのでしょうか?
そして、ひとつでない宇宙の存在があると仮定すれば、それらの関係がどうなっているのか?いや、もともと、関係などはないということかもしれませんね。でも知りたいところです。
人間の知の欲求は止まるところがありません。
by 大藪光政