この本を手にした時、おや?と思いました。全体でわずか143ページしかない本なのに、冒頭から『パンセ』からの抜粋による25ページのテクストが、入っているのです。著者は「わたしはパスカルの専門家ではありません。」と、断りが巻末にありましたが、この本は、著者による『パンセ』からの抜粋をテクストとして、独自の授業を展開しています。
読み手にとっては、『パンセ』に関する脱線も交えた書評のような感じもするし、解説的な研究本みたいなところもあります。それにしても欲を言えば、やはり、最初は、著者の前書きぐらいは欲しいところですね。私にとって『パンセ』は、高校生の時に、「考える葦」という、キャッチフレーズを謳ったパスカル先生を思い起こしますし、「パスカルの原理」も、中学校のときから親しみがありますから親近感を今でも持っています。
偶然、図書館で見つけたこの本を持ち帰ったことで、『パンセ』の一部をあらためて垣間見ることができました。うわさには聞いていましたが、パスカルは当時としてかなりハイレベルな思考をもった人物だったのですね。まるで、レオナルド・ダビンチのようにマルチな才能を有していたことは、奇跡の人と言えます。
パスカルの時代(1623~1662年)と、現代の2009年とでは、およそ350年間の時間経過があります。その間に、科学は飛躍的な発達を遂げパスカルの当時からすれば、パスカルが卒倒するような科学の世界が現在にあるのです。それなのに多くの現代人ひとりひとりは、パスカルのように深く物事を考える姿勢を持ち合わせていないのには不思議な感じがします。
吉永氏は、時々脱線して面白い話を添えてくれますが、現代物理学に関する話の中で量子力学の不確定性原理について述べているところで、「・・・これをトンネル効果といい、この現象のおかげでみなさんはパソコンのゲームや携帯を楽しむことができるのです。」と、書かれていましたが、これは誤った飛躍した書き方ですね。
『トンネル効果』は、江崎玲於奈博士がソニー在職中に偶然、不良ダイオード(不純物の多い)を計測中に発見した現象であることは、みなさんご承知の通りです。(これで、ノーベル物理学賞をもらったのですから)、それで、この『トンネル効果』を活用したダイオードが 『エサキダイオード』 と言われるものですが、当時、大学生だった頃にこの『エサキダイオード』を用いた電子回路を組む時に、実際あまり役に立たないデバイスであることがわかったのです。
発信回路に使った事例が専門書にありましたが、あまり感心したものではありませんでした。つまり、『エサキダイオード』 は、その量子力学としての説明的意義は大いにありましたが、実用としては皆無だったのです。実用的なダイオードといえば、順方向ダイオードか、ツェナーダイオード(定電圧ダイオード)が主流でした。
その点、中村修二氏が発明された『青色発光ダイオード』は、とてつもなく電子機器業界のデバイスとして貢献しています。その生産金額は天井知らずですね。しかし、中村氏はノーベル賞を未だにもらえていません。何故でしょう?話がずれてきましたが、こうした内容ですので 『トンネル効果』 は、現代物理学においてはひとつの発見でしたが、電子機器産業には直接的影響を与えていませんし、そうした応用デバイスによる民生機器の開発には貢献をしていません。
ただ確かに、基礎科学の分野において貢献したことは間違いありませんので、強いて表現するなら「トンネル効果」の発見は、量子物理学に貢献し、よって応用科学技術の進歩につながった。というところでしょう。
書評を書くに当たって、専門外のことを書けば馬脚をあらわしますので、これは私も『他山の石』として肝に命じておかねばと思います。でも小生は、もともと素人ですから、逆に『馬脚』をお見せするのが売りかもしれません。
吉永氏は、パスカルを宗教人としてよりも数学者としてこの本で評価されています。それに対しては、まったく異議ありません。ただ 『パンセ』 の「無限と無、賭け」のところでは、神について神を信じるか否かは賭けである・・・といったところでは、当時と現代の相違があると思います。
この間、バラエティー番組で東大の宇宙物理学でもっともノーベル賞に近い人という紹介で出演された教授に、どこのバラエティーにもよくレギュラーで出演している磯野貴理さんが、「先生、人間は死んだらどうなるのでしょう?」といった素朴な質問をされました。するとその教授は冷ややかに「死んだら無くなるだけです。身体も単なる物質として自然に帰ります。」 と、答えられました。すると面白いことに、「それでは先生、魂はどうなるのです?」と、畳み掛けました。
先生曰く、「精神や心は単なる脳の中での化学反応ですから、無くなります。」と、笑って答えました。質問者は、「えぇー」と言ったため息をしました。もし、これを小林秀雄が聞いたら怒るだろうなと私自身、興味津々でテレビを見ていました。
現代の科学者は、量子力学を体得し、分子生物学などにも深く理解を持っています。ですから、こうした回答があっても当然なのかもしれません。しかし、現代の哲学者はまだその辺の決着がついていない方がおられるでしょう。あと、科学者でも未だにわからないことは、『サムシング・グレート』 が存在するか?だと思います。哲学では『神は死んだ』と、ニーチェが言っていますが、それは、人間が勝手に創り上げた宗教としての『神』であって、『サムシング・グレート』のことではないのです。
つまり、こうした精密な生物を誰が創ったのか?という疑問が科学者にはあります。ファイマンの著書を読めば、現代物理学者でさえ、そうした創造主に対する畏敬の念を抱いていることを知らされます。(ファイマンの著書は面白いですね)
知能制御を専攻している我が莫迦息子に対して、この謎について質問すると、「偶然な発生」という答えが返ってきます。それで、「こんな緻密な四値のDNAプログラミングでもって構成された遺伝子情報システムが、偶然として生まれてくるものか?そんな確率が成り立つのか?」と、疑問を投げ掛けると黙り込みます。
では、誰が創ったのか?ということになります。それが、人間には想像できない 『サムシング・グレート』 なのか?もし、 『サムシング・グレート』 であれば、宇宙の創造主としても掲げられるが、ひょっとして、宇宙の創造主まではいかないが、人間の能力をはるかに超える高度な技術を有したモノが、地球に飛来して生物を移植したというSFの世界に入っていきます。それか、莫迦息子の言うとおり、偶然の積み重ねが、人類の誕生であるというこの三つしかないですね。
みなさんは、どちらに賭けますか?
殆どの方は、自分たちの存在が、神による創造ではなくて、ダレカに生産されたもの的に捉えるのは厭でしょう。やはり人類は、偶然にも自然発生的に現れたと取るか?『サムシング・グレート』 という神的存在による創造されたものとして了解したいでしょう。しかし、そうだとしても、気の遠くなる時間を経て現代の人類が存在することを考えると、進化のプログラムと生命の転写(子孫の伝達)プログラムがないと、如何に偶然か?或いは創られたものであってもこれほどの生物の系譜を営む世界が連続するはずがありません。
『パンセ』を読むと、パスカルに無限大と無限小に関する想いがあったということと、現代のミクロ世界とマクロ世界に対するイマージュを抱く私の心とは若干の相違はあっても、心持は一つだなと感じます。
それは、何故か説明できない必然的好奇心から生まれる欲求です。吉永氏も、そのおひとりだと思います。ただし、私とは違って、学者としてもっと深いレベルと幅広い視野で思考されていますので比較にはなりません。こうしたことをお仕事として持たれていることは学者冥利に尽きるということですね。
吉永氏のわかりやすい著書で、好奇心の強い田舎カエルを今後も喜ばしてもらえば幸いです。
by 大藪光政