先日、眼科病院に入院していたので、入院先にて、片目でこの小説を読み終えることとなりました。看護師から、「なんて、患者(ヤツ)でしょう」と思われたに違いありません。しかし、入院先は、幸い、ホテルのような快適なところでした。これについては、いずれ、珍入院顛末を別ブログで書きます。
本当は、まだ目を酷使してはいけないのだけど、じっとしておれない性分ですから、退院するとすぐに、PCに向かい始めました。病院では、「安静に・・・」と言われていたのですが、それなら、なんで、病室にテレビなんぞ置いているのか?と云いたくなります。でも、まだ、なんとなく、本調子ではありません。
漱石の作品 『門』 は、漱石43歳前後 (詳しくは、漱石資料を調べてください) の作品のようです。その年代であれば、『四十にして惑わず』の齢ですから、人生の達人として活躍していたでしょう。
漱石は、家庭生活の描写が好きみたいですが、この 『門』 もなかなか市井の機微がよく描写できていますね。小説の話題の一部に、遺産相続での叔父の悪さがちらつきますが、またここでも 『叔父』 に対する怨念があるのだな・・・と思う次第です。(漱石はしっこいなあ・・・僕に似ているかも)
しかし、残念ながら、漱石の円熟した情景描写力とは裏腹に 『門』 は小説として、物語としての構築力に欠けると思います。この小説は、読者に対してそうした最大の欠点を露見させています。あらすじとしての展開として、御米を安井から奪っての家庭生活から、突然の安井の出現で、主人公である宗助を動揺させますが、これまた急に、己の苦悩を解消させようとして山門に足を運び、それも果たせず帰宅する話となっています。そこのつなぎが何故か不自然な運びとなっています。
最後の締め括りのところでは、鶯を交えたのどかな季節の変化を想像させる情景と、『爪きり』という現実世界とのコントラストなしゃれた終わり方で、ソフトライディングさせています。この辺は、流石は漱石と思う。
テーマとしては、そこまで悩ませた宗助の妻横取り行為が何故、罪悪であったのか?の哲学的な訴追展開が無い。そうした展開があっての山門入りであれば、進展が了解できる。山門での禅との対峙は、宗助の葛藤というより、禅に不慣れな者の戸惑いで終わっている。これは、漱石が、一見禅に関心を抱いているにかかわらず、距離をおいていると言う風に感じられる。
「漱石は、カラマーゾフの兄弟を読んだことがあるのだろうか?」と、私はふとこの小説を読み終えて思ってしまった。 『カラマーゾフの兄弟』が出版されたのが1880年、『門』 が発表された年が1910年であるから、恐らく漱石は、ドストエフスキーの本を手にして読んだと思うのだが、これは、漱石研究家に聞かないとわからない。
私は、 『カラマーゾフの兄弟』を読んで、もう三十二年も経つ。このときの衝撃はかなりのものだった。長老が語る話を聞いて、宗教人に対する不信を大いに抱かされたものだった。それは、宗教人だけでなく、権力者に対しても同じで、如何に己の考えを持つことが大切かを痛切に感じたものだった。
もし、漱石が『カラマーゾフの兄弟』を読んでいるとしたら、この作品『門』における『禅』に対する遠慮はなんだろう。恐らく、主人公宗助がそうであったように漱石は、『禅』に対して同様の戸惑いがあっての描写であったかもしれない。そうでなく、遠慮があったとすれば、それは、新聞連載小説が抱えている、そこまで理解出来ない世間への遠慮だったかもしれない。
であれば、漱石は逃げている。世間に対して処世術を心得ているのかもしれない。小説とはいえ、世間にそうした宗教が抱えている難問をあえて問うことで、ひんしゅくを買うのはナンセンスと考えているのか?それとも、宗教に対する漱石の考えがはっきりしないのか?ただ、そこまでのところに留まっていただけなのか?いずれでしょう。
日本人の美意識は、とても繊細です。だから、日本人が創る今日の家電製品も緻密です。通信機器もそうですね。携帯電話なんぞは、とても機能が多くて、メールの入力なども便利に構成されています。しかし、日本の携帯は端末機器として、世界戦略において、他国に対してシェア的にも負けています。
これは色々原因がありますが、ひとつには、通信方式の選択における迷い・・・それと携帯の拡張機能へのこだわり・・・が、他国では、電話は話せればよい、といったシンプルな目的志向が明確でしたので土俵外の勝負となりました。つまり、日本人のセンスが、かえってあだとなったのです。
こうしたことを考えると、漱石の小説を始めとした多くの日本文学は、目的志向に弱く、繊細さや、箱庭的なコンテンツばかりが売りで庶民に受け入れられていますから、海外での日本文学は評価としては、理解が得られていないと思います。その為か、ノーベル文学賞を、場違いな日本人がもらって、「ん?」と思ってしまうから、何だか変です。
この 『門』 にしても、繊細な描写に感心する反面、オブジェクトとしての構築の物足りなさにがっかりするのは、私だけでしょうか?この構築の物足りなさの原因が、漱石の執筆途中での病気による影響なのか、それとも構築におけるストレスによって倒れたものかはわかりません。
読者の私としては、禅老師の口から「実は、いくら修行をしても、悟りなんぞというものは、ないから悟れんのじゃ」という言葉を、宗助に浴びせて欲しかった。そして、「修行して、煩悩がとれるものなら、わしらの商売大繁盛じゃ・・・煩悩から抜け出せないから、当然、修行に終わりは無い。よって修行があるから、わしの存在は安泰だ。」という風に、宗助に悟らせて帰して欲しかった。
漱石に対してこんな失礼かつ、非常識な感想を述べると、叱られるかなあ・・・。ご本人の漱石は、死人に口無しで問題ないが、漱石ファンは怒るだろうな。漱石研究家は、ブログに書くこんな軽薄な私の文章を読めば、気分が悪くなるだろうな。漱石が嫌いな人は、「どうして、お前はそれでも、漱石を読むのか?」って、問うだろうな。
「それは、私の主観的世界に、漱石が何故か?今のところ、居座っているのです。そのうち退去されるかもしれませんが、居られる以上は、やはり、お付き合いをせねばと思っています。律儀で観察力のあるところを勉強させて頂いております。」と、申し上げるほか、ありません。
by 大藪光政