書物からの回帰-水仙


明治生まれの作家を読もうとして、有島武郎の文庫本に出会った。『小さき者へ』は、有島の我が子に対して伝言をしたためた形式が取られているが、それは、(妻の病死) 母を早くして無くした子供たちへのメッセージなのだが、これを作品として扱うことには、いささか気が引けると思う。


淡々と書かれた文面は、道徳的で?感心するものですが、有島の生真面目な人物像を自分で描いているようにも受け止められる。そういう意味で、これが非公開の文であれば、そうまで勘ぐりませんがこれを作品として世に出したというところには、『少し、生真面目さの気取りというものがあるのでは? 』 と感じるのは私だけでしょうか?


『小さき者へ』 を読んでも、第三者があまり感銘を受けるような立場ではなく、こうした内容を、子供たちだけにそっと読ませてあげるだけでよいのだと思う。もしそれが偶然にも、有島の死後に発見されて公開されたとすれば、美談にはなるとは思う。それであれば、親が思う子に対する愛情は本物だと信じてもいい。


有島が作家故に、こうした私的なところまで露見させなければならなかったとするなら、作家とはおぞましい職業だと思う。作家なんぞなるべきではない。でも、そうした作家に色々と教えられている読者は、作品をありがたく頂戴しているから感謝する心はもってあげないと作家は死んでも浮かばれない。


『生まれ出づる悩み』 は、読み始めるとよく言われる 「芸術の為の人生か?人生の為の芸術か?」を思い起こさせられる。ここでは、木本という名の絵を描くことが好きな男が、画家の道に進むことができずに、生計の為に猟師をしているところの葛藤を北国の厳しい真冬を背景として話を展開させて行った内容です。話はその風景描写と木本の心の葛藤を冷静に分析しつつ展開してゆく。ここでは、木本のことを 『君』 と呼びかける有島の一人芝居を鑑賞している気分に誰しもさせられる。


木本が漁に出て、悪天候により海上の荒波によって船が転覆し、危機一髪の状況を、有島の一人芝居活劇で中継する世界は、生計の為生死を掛けた男の世界を語っており、感心すべきできばえだと思う。こうした情景を読んで行くと、自ずと私の脳裏には画家ヴラマンクの激しいタッチの雪景色の絵を映写機で観る様に浮かんでくる。


芸術を仕事とするには、生計が保てぬ。しかし、芸術にあこがれる。芸術で生計が保たれる保証がどこにある?それは、先に才能があるか否か?の確証がつかめないと道を踏み出しては行けない。そんな芸術を志す者の悶々とした課題を提示している。それは、木本の立場を書いているようだが有島自身のことのようにも聞こえる。


有島の本を昔、買って読んだ記憶があったので、早速、私の書棚を探してみると・・・昭和48年の9月25日に『生まれ出づる悩み』を角川文庫本で購入していたのです。なんと、ざっと35年前に読んでいたはずなのですが、記憶が無い。記憶が無いということは、頭が悪いか?あまりにも印象が無いかどちらかだ。恐らく、前者であろう。


こうした有島の自然描写的な文章だと、すっと入ってすっと出てしまう感じがしますが、ただ、ここで芸術することと人が生きるというところでの選択というか、芸術を営む価値の問題と生計の課題について考えるところがあります。


芸術と言っても色々ありますが、ここでは木本が切望している画家としての道なのですが、現実問題として画家の道も音楽家の道も、そして小説作家、詩人、すべてにおいて厳しいものがあります。芸術で身を立てるなどということが実現できるのは、ほんの一握りの人だけなのです。


多くは、それに近い、絵を教えながら自身も作品に取り組む画家とか、ピアノのレッスンを指導しながら、コンサートも開く、といった演奏家のたぐい・・・そうした芸術関係の道は確かになんとか生計が成り立っています。中には、芸術でちゃっかり金儲けをしている連中もいます。そういう連中に限って、芸術家気取りを発揮している人が多いですね。


芸術家には、人にものを教えるといったことを嫌って、自身の心技とかを研鑽する日々を常としている人がいます。そうした方の中に卓越した芸術を完成させる方がおられる。本物と思われる芸術家はそうした方が多い。


生計のことを心配しても、それでためらってあきらめるようでは芸術に取り組むべき必然性が無いと思う。ためらってもあきらめないのが芸術家だ。有島の文学に触れるのは、この二つの小説が始めてで、(ひょっとしたら、他も何冊か読んでいたかもしれないが?) この二つの小説を読んだ限りでは、生活の疎ましさが感じられない。美しい曲線だけが目に付く。その点、漱石の小説は市井の生活の疎ましさがいたるところに挿入されている。


漱石も有島も博学な見識者であるが、文章は何故かまるで違う。漱石は、ねちねちしたところがあり、有島は、さらりとしたところがある。どちらに灰汁があるかといえば、漱石だろう。但し、一部の作品だけを読んだからといって即断するのは早合点かもしれないが、一事が万事であればそう解釈をせざるをえない。


有島は、恵まれた家庭環境で裕福な生活が出発点で、漱石は幼少から不遇なスタートであった。『生まれ出づる原点』が違うと、様々な立派な教養を後天的に身に着けても、まったく違った色彩タッチで描くのは作家の宿命なのかもしれない。


二人の作家の終着点は、意外な結末だったようだが、漱石は暗い過去から逃れるように、おそらく幸せな生活を求めて必死に生きる為に窮屈な生活と共に文筆に励んで倒れたように思う。有島が情死したのは、勝手な憶測ですが、姦通罪による脅迫に対する臆病からか?それともロマンの果てにか?としか今の私には考えられない。


そう思うと、漱石の方が有島よりも生きることにおいて強かったに違いないと想像するし、真摯に生活を大切にしていた気がするのは早計な推測だろうか?


作家と同世代の読書人と今の読書人との違いは、その作家の生涯を知って作品を読むか否かの予備知識有り無しで、作品の読み方が変わってきます。そこで小説全体が比喩として書かれている場合にそれが良いのかどうか?難しいところだと思います。


作家と深く関わりたければ、多くの作品に触れるしかないですが、色々な角度をもって作品に接すれば、ひょっとしたら何かを摑めることができるかもしれない。


それが読書人の楽しみと言えば楽しみだ。


by 大藪光政