書物からの回帰-水仙


現代の人々の多くは、この短編には馴染まないだろう。こうした文体では取っ付き難く、また殉死を扱った特殊な設定の内容のようなものでは、パタリと本を閉じてしまうだろう。でも、少し辛抱して読めば書かれてある課題が現代どこにでもある内容だと気付く。


時代は武士の時代であるからして、領主と家臣の関係が背景にまずある。これを現代で置き換えるなら、唯一その形態を留めているのが会社という組織であろう。企業対企業間は常に戦国時代とそんなに変わらない。戦略、戦術を駆使した戦いが日々繰り広げられている。企業間の戦いでは武器を使っての生死を掛けることは無いが、人、物、金を駆使しての熾烈な争いは絶えない。


今日では、企業間の合併などで巨大化した企業も出現して、国家と変わらない力を有している会社もある。だから、会社が傾けば国家に金を出せ、さもなくば膨大な失業者が出るぞと脅してすごむ会社もある。企業が大きければ大きいほど領主の意思決定は絶大であり、社員はこれに従わなければその会社を出るしかない。


だから、大企業の朝礼などを覗けば、そうした上下関係が厳しくなっていることに気付く。中にはユニークな上下関係の会社もあるにはあるが、意思決定に従わなければならないのはどこの会社でも同じだ。


この短編では、弥五右衛門のように主君の命は絶対であり、また主君を尊敬している以上、その言葉には己にはわからない深さがあり、主君の指示に従うことが己の勤めであるとかたくなに信じている者と、主君の命は絶対であるとは言っても、主君の考えにも誤りがあったり思慮遠謀に欠けたりしたところlがあれば、これを正すのが家臣の務めであると言い切る横田清兵衛が争いを起こしている。


結果的には、茶事の心得のない武辺者として扱われた横田がカッとなって刀を抜くが、弥五右衛門が反撃に出て横田を一太刀で切り捨てる。刀を先に抜いた武辺者が逆に切られてしまうところが逆説的で話を面白くしている。弥五右衛門は、このことを主君に報告して切腹を申し出るが、主君に慰留される。その後、主君が死去した後を追っての切腹による殉死となるのがこの短編のあらすじだが、これを現代的に捉えても異論百出であろう。


それは、いつの世もリーダーを信じて後に続くのが良いのか?常に己の自己判断でケース・バイ・ケースで行動すべきなのか?特に決まりが無いからです。どちらも、真でありその逆でもあるからです。


先程、会社のことを書いたのも実は、社長の言うことを忠実に実行する社員と、指示に対して常に色々な屁理屈を言って反論する社員がいて、この二つの存在が会社を大きく左右させるからです。


ここで、一番大切なことは、「知行合一」です。社長の指示に対して反論ばかりして、代案も出さず、何もしないでは、その反論はただの屁理屈で終わりますし、そういう人に限って言っていることと行いがともなわないことが多々あるのは皆さんよくご存知でしょう。


この話でもうひとつ大切なことが書かれています。それは、人の価値観だと思います。己の価値観でもってすべてを推し量る危険性とでも言いましょうか、主観的世界観から出てくる判断の誤り、これに注意する必要があります。これは、いつの世でも行動を取る時には、自戒すべきことでしょう。


さて、問題の殉死ですが、鴎外の経歴を手繰ると明治天皇崩御時に、乃木夫妻の殉死が鴎外にこの短編を書かせる動機となったとあります。そして、後に鴎外はこの短編を、手直ししたとあります。その経緯と理由について問うことをするのは、専門家に任せることにします。


鴎外とは面識だった乃木大将の殉死は様々な文献によると、日露戦争による旅順攻略の失策(戦略、戦術の不備)が自分の息子二人と多くの兵士を死なせた。そうした呵責の念を持っていながら己は、平然と生き延びている・・・そんな気持ちに対して、明治天皇崩御は、自身を自決させる唯一のチャンスであったと読み取れます。


主君の後追いである殉死は、武士道を美化させるところがあります。しかし、それを『美化』だと言ってしまうことにも少し疑問が残ります。己を恥じることを知っているだけでは、「知行合一」とはならない。ならば、その償いとして切腹が順当だと思えばその覚悟と行動が、「知行合一」というものであろう。己を死へと駆り立てる行動が、人として最後の決断的行動であるのは否定しづらい。そうした論理を大切にする心を持つことが日本人のあるべき姿であると三島由紀夫は思っただろう。


日本の歴史で、介錯を伴って切腹をした日本人最後の人物が三島由紀夫だったことはわかるが、三島の死が殉死であるという捉え方をすれば人に限らず、命を掛けて訴えるものも殉死と言っても過言ではないと思う。


そうした心を持つことが果たして過激であるかどうかをどう思うかは、人によりけりだろう。昨今は、「知行不一致」の人種ばかりが世を闊歩している。そんな人種に限って詭弁を吐き人を落としいれている。そうした出来事は、どこでも見かけることができる。段々、住みにくい日本になっていく。今回の不況が百年に一度の不況だと騒ぐのもいいが、三島が云う見失われた日本人の心をどう取り戻すかの方が大切だろう。


唯物的な思考はもういい。少しでも唯心的な大和魂になって欲しい。大和とは本当は、女性の心を指すそうだ。その心は母がしめす子への愛情心かもしれない。子供のためには、たとえ火の中でも、水の中でも飛び込むであろう。それは嘘偽りなき心だ。つまり、「知行合一」を母親は持ち合わせている。だから、土壇場では、女性は強い!


しかし、まだまだ、日本は男尊社会だ。女尊社会も、ちょっと困るが、理性あるすぐれた女性の出現で社会が変わるかも・・・池田晶子さんのような考えの持ち主が、まだこの世にも居ると思うし、そうした人たちがもっと社会で活躍されれば日本も大きく変るのにと思う。


出でよ!女傑さん。男はもう駄目だ!


by 大藪光政