私の為に設置されている図書庫に、図書委員が居る。その若い女性の委員に、ふとこんなことを聞いてみた。
「あなたが好きな日本文学の作者は誰ですか?または、好きな作品でもいいですけど・・・」と、すると少し首をかしげて、「そうですねえ・・・私は森鴎外が好きです。」と答えてきた。
幾人かいる図書委員のうち、この質問を投げかけた相手は、一重まぶたの日本的な落ち着いた聡明そうな顔をした方だった。本は自分で選ぶものとは思いつつ、こうした若い女性の嗜好を聞いてみるのも一見だと思った。
その答えを聞いて、そういえば高校生の頃、「高瀬舟」という、鴎外の作品本を買っていたのを思い出した。鴎外の作品は、面白いものがあるとは思っていたが、やたら漢字の多い文章を抱えた作品もあり、それを見るだけで辟易したこともあった。
若い図書委員のご紹介に預かって、帰宅した時には「「山椒大夫・高瀬舟」という比較的真新しい新潮文庫本を手にしていた。最後のページを見ると、平成十九年六月十五日八十一刷と記されている。なるほど、鴎外が生まれて、そろそろ百五十年経とうとしているが、なお根強く愛読者を呼び込んでいる作家だということがわかった。
目次に目を通すと、なんとタイトル以外の短編がこの本には12本入っていた。日本の作家は長編が苦手で、短編作家が多いのは承知のとおりです。題目を見廻すと面白くも無い題目ばかりであった。最初は 『杯』である。それで素直にそこから読むことにした。
この短編なんと、たったの八ページにすぎない短編である。ここで、ひとつ思ったのが、もし、鴎外が生きていたら、ブログ小説の寵児として大活躍したであろうと、ふと笑ってしまった。この作品が、『銀の杯』に、『自然』と書いてあると表記したのは、自然主義派に対する当て擦りか?その辺の真意は秘めたものがある。わかるのは鴎外がノンセクトであるということだけだ。
鴎外は、要するに徒党を組むのが厭だったのでしょう。でも本業で公的な長を務めるのには満更ではなかったようだ。だから裏方の文筆活動まで長になる気持ちがなかったのだろう。人間としての欲求は十分本業で収まっていたに違いない。
人間が徒党を組むということは、ごく自然なことだ。それは、人間が弱い生き物だからだ。ひとりで生きていくにはそれなりの苦労と勇気が居る。鴎外が文学活動で徒党を組まなかったのは、上記の人間としての欲求の問題だけでなく、彼の哲学的ポリシーでもあったと思う。
小林秀雄も、日本ペンクラブには入らず、そうした徒党を組むことに対して講演で批判していた。その理由も「ペンは剣よりも強し」と云うけど、徒党を組むのは己の弱さゆえだと。
だが多くの庶民は、徒党の中で暮らしている。そのひとつが会社だ。私も、『優良』と書かれた『銀の杯』を手に入れるために、真面目に勉強して会社に入る。そこで楽しく仕事をした。だが誰しも欲がある。次には『金の杯』が欲しいと思うようになる。当時の慣習では、『杯』を取り替えるのは、命取りだと言われていた。取り替えるとき、 『泉』 に滑り落としてしまう危険があるからだ。
今では、取り替えてチャレンジすることが普通になっているが、どんな職業でもリスクは決して変わらない。私は、決断して取り替えてみた。すると、『金の杯』は、持てばやはり気持ちがいい。自身のプライド向上に繋がった。だが飲む時、『銀の杯』、『金の杯』いずれも重いし、色々な心配事が出来て憂鬱になった。これは否めない。
飲む時は、手に持つと重くて疲れるし、『泉』の水を汲むとき、滑らせて落としはしないか?置き忘れて盗られはしないか?と気苦労が多いものだ。いらぬ気苦労で人生を送るのもバカバカしくなる。
すると、次の欲が働いて今度は、『土の杯』を求めた。『土の杯』だと、己の力で好きな形をした『杯』が創れるからだ。だが、そこで、『土の杯』を創りかけたが、焼き窯はいるし、手掛ければ手掛ける程、リスクが高くなることを知る。ましてや、落とすと、割れるし、『泉』で滑らせるとやはり、沈んでしまう。『銀の杯』、『金の杯』よりもリスクが高いことを思い知らされる。
自分はしぶとい人間だから、また、次の杯を求めた。それが、『木の杯』である。これは、とても便利が良い。地面に落としても割れないし、滑らせても、沈まずに 『泉』 に浮く。手に持った感触はかるくていい。創るのにナイフさえあれば出来る。ただ、朽ちる心配はあるが、己の余生は知れている。それ以上にもつであろう。
それで、『木の杯』で余生を送ることにした。毎日飲む晩酌にもこれを使った。にごり酒と相性がよく、格別だ。さてさて、辿り着いたのが、『木の杯』だったとは、お釈迦様でも知るまい。ところが、毎晩、晩酌をしていると、『木の杯』には、樹木の香りによって微妙な酒のうまみと香りがつくことを最近知った。
欲の深い我輩は、庭にあった樹木に飽き足らず、『杯』を創ること止まず、幻の杉、檜を求める日々が始まる。
鴎外の『杯』を読むと、こうした自身のたとえ話も浮かんできました。
by 大藪光政