書物からの回帰-都忘れ


無量育成塾の塾生に対する読書の勧めとしてどんな本が良いか?いろいろ考えていますが、それぞれレベル差があって、それに適した本を探すのもひと苦労です。


条件として、市立図書館にあるものでなければなりません。塾生には、なるべくお金を使わないで済むように心掛けていますから書籍の購入は考えていません。もちろん塾生が勝手に本を買うことは自由ですが、教材としての押し付けは一切しないことにしています。


さて、塾生が如何に学問に取り組んだり、社会に貢献したりすることをやってくれるかのモチベーションを上げることで、ひとつ思いついたのが偉人の伝記です。私は、父から仁保小学校 ( すでに廃校となっています。その後、すぐに大浦小学校に転校しました。 ) 三年生の一学期に学級委員長に選ばれた時、父は大変喜び、本屋さんに連れて行ってくれて、一冊の本を買ってくれました。そのとき手にした本が 『エブラハム・リンカーン』 だったのです。


当時は、まだまだ、そうした本をたやすく買ってくれる時代ではありませんでしたから、その本を幾度繰り返して読んだことか・・・それ程、当時の私は嬉しい出来事だつたのです。


『エブラハム・リンカーン』 の本を読んだからといって、政治家を志すことはありませんでしたが、その本から自分より弱き者に対して、暖かい手を差し延べる心を学んだことは事実です。


さて、そんな思い出を胸にして市の図書館に行きましたが、結構いろいろな偉人伝があります。良く知っている人ばかりです。その中に、漱石の名も入っていましたので、思わず借りて帰りました。


帰ってから本を広げて見ますと、この漱石の伝記を書いた著者である巌谷大四氏は、すでに故人となっておられ、ご子息の三男、巌谷純介氏がこの本のブックデザインナーとしてご活躍のご様子。私よりひとつ年上です。挿し絵は、本書が第一作だったようです。父子との合作がこの本だったのです。


この児童向けの書物は、今の私でもかなり参考になる内容でしたので、楽しく読むことができました。漱石の作品と生活、すなわち、漱石の経験から生まれる作品群の輪郭が別の視点から見えてきます。


率直に言いますと、この本を読むことで以前よりも増して漱石に親しみを感じ、漱石が好きになりました。「漱石も、苦労しているなあ~」という共感もありますが、色々な角度からの照射によって漱石像が浮き出された時、やはり、そこに出てくるのは、作家以前の夏目金之助というひとりの寂しがりやの・・ひとのやさしい・・・向上心ある人柄です。


『祝福されない子』 が、ここまで努力し、生きて後世までに文人として名を残したというこの人物の出現は、これからの世には、そうないことだと思います。明治初期の生活は、現代とは比べものにならないくらい、多くの人が貧しい生活を強いられた時代だったはずなのですが、何故そんな時代にこうした偉人が生まれたのかをよくよく考える必要があります。


現代は、資本主義世界が示すような唯物的な物の考えがすべてであると考える人が多いのですが、どうもそこらに起因している気がします。明治初期の人々の心と現代の人々の心とは、ちょうど、都会の人と自然に恵まれた田舎の人との違いと同じような気がします。


お金がすべての世の中。お金=物、ですから、人に怪我をさせたらお金で解決、それの代表的なのが交通事故の損害賠償金。お金で解決ということ。難病との闘いも金次第、そして挙句の果てが、『同情するなら金をくれ』 というフレーズまで現れて、金がすべてだという風潮がこの世を風靡してしまっている。


ところが明治生まれの漱石も、実際、お金には苦労している。それは、作品にも出てきているし、事実そうであり、朝日新聞社への入社動機とその条件には、しっかりと生活の安定を求めている。生きることにおいてそれは否めないことだと思うが、それでも現代の風潮とはかなりの落差がある。


そうした時代の違いの中で、漱石の大きな人生のきっかけは、この本でも書かれているように友人正岡子規との出合いだったと云えるようです。これは、現代でも通じるところがあります。すなわち、良き友と出会うことです。

( 私は、以前、鴎外の作品 『二人の友』 を読んでから、近いうちにこれについて、鴎外の人柄について書いてみたいと思っていました。)


漱石も人の子ということを示すのが、家族の中で演じる父だと思います。それは、漱石から見た妻に対する見方と、妻にとっての漱石の存在は、それぞれ観点が違うことはあきらかです。それぞれの立場から見て違うのが世の常だということから、漱石も、その妻もお互い様だということがわかるようになるのは、家庭を持って様々な経験を通して自ずとわかってくるものです。


漱石といえば、『則天去私』 という造語がありますが、これについては色々議論あるところだと思います。漱石を神格化させるところの言葉としても扱われやすいようです。しかし、漱石の作品 『門』 を読んでもわかるように、生身の人間が座禅を組んだところで悟りの境地などにありつけられるはずがありません。


『則天去私』 という造語は、立派な造語ではありますが、解釈も色々とこじつけて考えられます。ちょうどこの間書いた、『無為自然』 もその口でしょう。世知辛い世間から一歩前へ出て少しでも解脱したいと思うのは誰しも同じ気持ちでしょう。


漱石がこの言葉をどこまで本当に吐いたか否かはともかくとして、人生の後半、そうした気持ちをあたためながら、生きている間は俗世間とのつながりに悶え、辛抱して付き合っていくことに務めたと思います。それが生きることだから仕方ありません。 『則天去私』 の状態に辿り着く時とは、心がその境地に同期した状態を云うのでしょうが、己の死の予感を察して覚悟して初めて本当に出会うかもしれないし、人によってはそうしたことなど無縁なものかもしれません。


ですから、漱石が生前から文人としてそういう悟りめいた人であったわけではなく、生きている間は、我々凡人とまったく同じだったと思います。ただ、常々そうしたことに憧れていた傾向があったのかもしれません。


漱石は、五十歳でこの世を去っています。この私は、すでに漱石より長く生きています。長寿国日本では、男性の平均年齢が79歳ということですから、もう少しぐらい人生の残りがあるかもしれません。でも、喰って寝るだけで、ただ長生きしてもあまり意味がありません。長生きした分、何かに気付き、それを次世代に伝えられるような仕事ができたら面白いだろうと考えることもあります。


五月の連休はおとなしく自宅で過ごしましたが、連休明けに友人と二人旅行を企画しています。その行く先をネットで探していましたが、どうも観光ズレしたところが多く、それで 『老舗旅館』 をキーワードに検索したところ、小天温泉にある那古井館という宿に辿り着きました。


そこは、何と漱石が宿泊した縁ある旅館だったのです。 『草枕』 は、ここを舞台として書かれたという話です。熊本城の新しく出来た本丸御殿を見学して、宮本武蔵がこもって五輪の書を書いた霊巌洞に立ち寄ってから那古井館に宿泊しょうと思っています。近くには漱石の記念館もあるようですし、峠の茶屋や、漱石が散策したところをゆっくり味わってこようと思っています。


楽しみを倍増させるには、やはり、また 『草枕』 を読んで頭に入れてから出掛ける必要がありますね。


by 大藪光政