この書物を読むに当たっては、まるで間欠ワイパーみたいに、暇を見ては、少し読み・・・といった繰り返しで、それも、読む時間は、午前三時頃でした。誤解されてはいけないが、私は、早く、お寝んねをするタイプなので、その時間まで起きているというのではなく、途中で、トイレ休憩で目を覚ますのです。(疲れていて起きない場合の方が実は、多いですが)
そこで、寝静まった夜とも朝とも区別のつかない時に、この本を読み出しました。実は、この読後感想を述べる時には、すでに、この本は図書館に返却され、手元にはありません。つまり、返却がとっくに過ぎていたので、帰した次第です。だいたい、哲学書を社会人がたったの二週間以内で読めていうのは酷ですよ。読めない日もあるし、そんなに毎日、暇があるかいな!怒るよ!と叫びたい。
さて、先に進みましょう。前回の西研氏の『哲学のモノサシ』感想のところで、この『哲学的思考』について、{ あとがきに、「最初から一気に読み通すのはちょっと、という人のために・・・推薦する読み方として・・・序章と終章を読めばだいたいわかります」と書かれていました。それなら、それだけを本にして出せばと言いたくなりますが、それだと381ページが、84ページで終わってしまいます。でも、学者と素人向け会話を行き来しながらの面白い文章についつい、釣られて、半分まで読んじゃいました。 } と、書きましたが、まあ、真ん中近辺の方がとても面白かったのは事実ですが、読後に、また、序章を読んでみると、とても、頭が整理されてよかったですね。
西研氏の良いところは、この書物が哲学書として、学術的に書かれているだけでなく、一般社会人に対しても、氏の言葉で噛み砕いて解説されているところが良いですね。それがなかったらとても窮屈だったでしょう。
私は、この本を通して、哲学を仕事として・・・すなわち、学問として為されている方と、我々一般人との乖離を考えてみました。それは、哲学を仕事とされている方と、社会人とは、若干、相違があるからです。それは、多くの社会人がすぐにも、役立つことを前提として読書しますが、学者は、「何に役立つか?」とかを思って取り組むのではなく、純粋な知的探究心からの取り組みです。
でも、社会人の中には、真、善、美を求めての真理探究タイプの方もおられるから、学者と求めているものが一緒であることも否めません。私の場合は、真理を追い求めるというより、哲学をすることで、仕事とか、日常生活において、何か役立つという変な信頼があるから、係わっているだけです。
「この本から、どんな役立つことがあったのか?」という質問にも、私なりに答えられますし、それはとても、強烈なツールを確信した次第です。
私のブログを今読まれている読者の方は、「西研氏が書いたこの本のどこが、ツールとして役立つのか?」と、早速質問したいところでしょうが、そもそも、哲学が、『考えるツール』というのは、はしたない表現でしょうか?
哲学は、古代では、ごった煮の状態で、色々な学問が混じった状態でしたが、後の哲学の進化において、次の時代で大きく分けると近代哲学と現代哲学の流れに分けられますが、現代の分析哲学とか、言語哲学などになると、かなり違ってきていますね。現代においては、科学が定量的、定性的に物事を分析することで、帰納法で法則を発見したりして科学が大きく進歩したことは皆さんご承知の通りです。
それと同じ現象が現代では、哲学でも行われています。つまり、言葉の定性化ですね。定量化はできませんが、定性的な取り決めをすることで、ものの考え方を整理し、再構築するさいに、他者との同意を得ることや、共有化が可能になります。厳密なところでは、そうはいきませんが、「当たらずとも遠からず!」のところまで、ロジックを詰めることが可能となります。
例えば、三角形といっても、いろいろあり、そう、同じものが描けませんが、三角形という範疇では、納得してその言葉を共有できます。主観とはなんぞや・・・と言えば、「己が知覚で感じ取れるもの」と定義したり、或いは「己の知覚から経験を呼び起こしたりして、実感すること」 とかの意味の言葉として定性化をすることで、その『主観』という言葉を使った論理の展開でもって、他者との思考共有が出来ます。
つまり、そうした「哲学的思考」を試みるとき、言葉の定性化がツールとして役立つわけです。もちろん、言葉は 『うなぎ』 みたいなヤツで、強く摑めば摑むほど、手元から抜け出します。でも、しっかり摑んでいる内は、手中にありますから!まんざら捨てたものではありません。楽しめることが出来ます。
唯、絶対的な決め方というのは、危ういようです。例えば、『主観』は、誰しも自分の存在が認められる唯一のものである。と、思うでしょうが、その『主観』も、怪しいのです。先日、私は、西研氏の本を読むために片目の手術をしたのです。西研氏の本というのは、言い過ぎで、一般的な哲学書を読むために・・・と捉えてください。
術後、左片目は、ハイビジョン、そして手術をしていない右目は、旧式ブラウン管的な見え方となりました。実は、本当は、手術するほどの白内障ではなかったのですが、この若さでしたのは、やはり、やっかいな書物を楽に読書したかったからです。日常生活程度ですと、まだ、まったく問題なく、気付かないレベルです。(手術するのは、20年早過ぎたかな?若いうちから誰しも白内障が進行しているのに気付いていないのはレベル差の問題ですね)
そこで、大きな発見がありました。白い紙を片目ずつ見たときに、術後の左目で見ると、なるほど純白の紙!ところが、右眼で見ると、なんと、その紙が日焼けして見えるではありませんか?それで、思わず、新聞を見てみました。すると、右眼で見ると、よく見かける日焼けした新聞紙に見えるのです。
これは、今まで思ってもみなかった出来事です。つまり、右眼も、かすかに、白内障気味なのですが、左目と対比させた為に、その差がわかって、日焼けしているのがわかるのです。でも、手術前には、新聞紙が日焼けしている風には、今までまったく見えなかったのです。
これは、何を意味するかと言うと、知覚で感じられたものが、恐らく過去の経験知から補正されて、いつものように白く見えていたのでしょう。実感するとは、「知覚+経験=実感」ということが言えます。これは、私だけではなく、実は白内障の入院患者さんの間でも、両目を手術した高齢者の方などは、鏡を見て、「これは、私の顔ではない!」と叫ばれています。
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(補足1)
但し、白い無地の紙と、新聞紙の場合、少し違いがあります。確かに左目は、白い新聞紙、右眼は日焼けした新聞紙と色彩の違いはありますが、『新聞紙』であるところの共通認識は変わりません。それは、『新聞紙』というものが、如何なるものであるかを、経験知でもって記憶しているからでしょう。もし、『朝日新聞』であることが書かれていれば、「ああ、毎日新聞ではなく、朝日新聞だな。」とさらに、詳しく、了解できます。これが、ドイツの新聞だったらどうでしょうか?恐らく、ドイツ語が何語かまったくわからない人にとっては、その記事のレイアウトから、新聞みたいだとは、感づきますが、たとえ、その新聞社の名前が記載してあっても、どこの新聞社なのか、わかるはずはありませんから、どこか外国の新聞だろうという判断しかつきません。そうしてみる、やはり、主観と言うものは、相対的な知覚でもって、過去の経験知からの推論で成り立っていることに気付きます。これは、しごく当たり前なことです。
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白内障で見えにくくなったにもかかわらず、ちゃんと若い頃の美しい顔の記憶に基づいて補正されて、それが、真の自分の顔だと実感していたのです。しかし、手術によって、その虚像が暴かれて、良く見えるのは良いことだけど、自分のしわが沢山入った現実の顔を鏡でみたとき、その人にとっては、納得のできない、気持ちだったと思います。人間の身体はよく出来たもので、白内障とは、万人の現実回避の心地よい体内システムだったということに、気付いたのは私だけだったのでしょうか?
これは、哲学的には何を意味するかと言うと、「主観」も、ある意味で危うい見地にあるということでしょう。となると、何をもって物事を考えたり、信じたりすればいいのか?と、自己の存在すらぐらつきそうですね。「我思う、故に我あり」では、考えている自分の存在だけは確かであるとはいっても、どのような存在であるのか?そこのところが、疑問になってきます。
もうひとつ思うことには、誰しもが加齢にて白内障になる症状が、実は、画家にとっては、大切な機能だったのではないか?と、ひそかに、思うのであります。それは、どういうことかと云いますと、画境の世界で、老画家が悟りの境地のような達観した境地の画を描く時には、必ずと言っていいほど、無駄なもの・・・細かい枝葉を省いた、本質を描き出します。
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(補足2)
板画家(版画家)の棟方志功は、ど近眼でしたが実は近視は、とても便利な利点があるのです。それは、近距離で遠景を摑むことが出来るのです。つまり、細かいところよりも、大きなところでの描写把握が、眼鏡をはずした肉眼で摑めるのです。これは、とても便利です。よく、大きな絵を鑑賞するときは、距離をとって観なさいといわれるでしょう?近視の人は、近距離でメガネを外すだけでそれが可能になります。棟方志功さんは、ど近眼だったからこそ、あのような、荒々しい板の削りで、本質に迫る画境を切り開いたのだと思います。晩年は、かなり目が見えなかったそうですが、恐らく、白内障の影響ではと思います。
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それは、己の白内障の目で見る世界が、おぼろげに写る世界を、脳裏にある過去のイマージュでもって、昇華された本質の世界だけを結びつけるような脳の仕業があって、その修正ビジョンの再現から、芸術的な純化された画境に到達されるという筋道ではないのかと思います。
極論ですが、もし、老画家が、自分の目が良く見えると思っていても、医者から白内障だと言われて、いきなり、白内障の手術をしたとすると、必ず、その今までとの違いに驚き、戸惑うでしょう。そして、良く見えるということが、その画家にとって幸せであるか否か?つまり、芸術活動に対してプラスであるかどうか?はっきりいって、わからないところだと思います。
話は変わりますが、西研氏は欲張りだから、科学と数学、そしてヘーゲルやマルクスに至るまで、幅広く展開していっています。意欲満々ですね。そして、経済学においては、資本主義と共産主義についての見解まで突いておりますが、資本主義と共産主義は、思想を云々言う前に所詮、兄弟みたいなものでしょう。それは、どちらも唯物的な発想の展開ですから。
最初は、小さな企業が、自由に競争して頑張っているが、段々、競争が激化すると合併や買収を繰り返して、大企業が生まれ、ついには、巨大企業での寡占化が進みます。そして、それでも、景気の波でどうにもやっていけない状況になると、政府に金を出せ、さもないと大量の失業者が出るぞと脅して、国家の税が注入される。気が付くと、国家と企業が一心同体になっている。これって、共産主義ですよね。これが、今のアメリカの姿かな?
四十年前に、倫理の辻先生から、「資本主義が発展すると共産主義になり、それらは、繰り返す・・・メビウスの輪のように・・・」と言われていましたのが、本当だなあと今、実感しています。でも、これも、不老長寿で無い限り、繰り返される最後までを確かめないと本当のことは確認できませんね。
話が脱線しましたが、こうした哲学的思考における定性化は、実は重要な作業であり、取り組みだと思うのです。それは、AI思考に寄与すると思います。『人工知能』は、よく科学で取りざたされますが、殆どは、データベース活用のものが多いのです。それは人間の思考とは程遠い仕組みです。本物の『人工知能』を開発するに当たっては、多様性を持った人間の思考を定性化してゆく作業なしには、ロジックは組めないと思います。言語哲学や分析哲学などの現代哲学がこうした分野に役立つということです。現象学もそういう意味では、必須でしょう。共有という思考システムについては、特に大切な意味合いをもっていると思います。
この書物をよく読むと当たり前のことが、多く書かれているのです。しかし、その当たり前を哲学的思考で整理して、言葉の定性化を図りつつ、論理を纏め上げていっています。
そして、その当たり前のことを哲学的思考で吟味することで、共有的真理に近づくことができるのでは?と言う、かすかな嬉しい願望があります。古典哲学においては、絶対的真理があり、それを、夢見るように追い求めていた人類が、宗教で失望したのと同じように、真理においても、絶対的真理なんぞ、存在しない!という次元に陥った時、そこで、共有的真理という存在を見出したような気がします。
共有的真理とは、枝葉を省いた、本質の姿であり、それは、議論を積み重ねていくことで、自ずと、誰もが、すなわち、人種や、生活環境すら越えて、そうだなあと合点することだと思います。それに近づくには、やはり、知覚と経験と、常に素直な懐疑的思考をもって立ち向かうことからの出発が必要だと思います。
哲学的思考とは、ある意味で謙虚な懐疑的思考の結果、共有すべき存在を発見する作業のことを意味するのかもしれません。その、共有すべき存在の発見が本質或いは、真理であったとしたら、世界で、これ以上の素敵な楽しみが本当にあるのでしょうか?そういう意味では、哲学を楽しむことを生き甲斐とするといっても、嘘にはならないでしょう。
人によって、生きる目的や、生きる意味がそれぞれですが、一見無意味と思われるところに、生き甲斐を見出すことが、思わぬ発見や、喜びを見出すという結果に結びつくことを念じてやみません。
by 大藪光政