『妄想』は、鴎外の思考回想記みたいなものだ。最初に登場する白髪の老人をして、鴎外の心境を語らせている。留学時における学識を交えた内容で色々と自問自答している。 二十二歳から二十六歳の約四年間で、当時の哲学など貪欲に学んでいたことがのちに鴎外の文学作品に反映していくのがわかる。
現代と鴎外の時代とでは、人の寿命が大きく違う。少なく見積もっても、十歳、現代人が長生きしている。鴎外がこの作品を発表したのが、四十九歳の時だ。それを考えるとこの作品の書き出しは、当時の年齢にふさわしい老境の域での描写なのかなと思わないでもないが、わざと背伸びをした達観の文章かもしれないし、それだけ勉学に励んだ結果かもしれない。
のっけから、ショウペンハウエルの言葉を引用して、『生』 と 『死』 に対する問いかけを始める。『死』 を考えるに至るときは、『生』 を失おうとしている時だという。当たり前だ。人は老いる頃になって 『死』 が身近なものになる。これも当たり前だ。そうした当たり前のことを捉えて、あえて自分はそういう人とは少し違うと気付いている。それを打ち明け、話を続ける。
次に、日々勉学に追われた己を振り返ると、それがとてもではないが本当の生きている証とは思えないと考える。何かに憑かれたような気がするというのである。己を急き立てるものは何か?その背後にあるものこそ真の生ではないかとさえ思ってしまう。そして、友人のチフスによる死でまた 『死』 の詮索を始める。
死ぬことで自我が無くなるということが、平気ではない理由として自我というものが有る間に、それがどんなものか?考えたり見たりしないで知らずに自我を無くしてしまうのが口惜しい。と、鴎外は呟く。つまり、一般人とすこし違うところは、そこのところである。こうしてある夜に思い立って、ハルトマンの無意識哲学の書を明け方に買いに行ったという。留学時は、己の『存在』について考えつくす、若さあふれる行動をもった青年だったのが窺える。
ハルトマンから無意識哲学全体の淵源であるショウペンハウエルまでを読んだということだが、それでも決着はつかない。その辺のところで面白いと思ったのが、ハルトマン・ミヌス進化論の引用だろうか?「世界は有るよりは無いほうが好いばかりではない。出来るだけ悪く造られている。世界が出来たのは失錯である。・・・」 と、続く。考えてみるとなるほどと面白く感じた。
世の中で生きていることに満足している人は、果たしているだろうか?それは、一瞬、或いは一時的には幸福感や満足感を持つことはあるだろうが、ずっと満足しているという状態が死ぬまで続くはずがない。人の幸福とは何を指すのか?池田晶子さんは 『幸福論』 については避けられた。確か本人の記述の中で避けたことを書かれていた記憶がある。
『幸福』とは何か?を問うことは、『不幸』とは何か?を問うことと同じである。それは、『死』と、『生』を問うことと或る意味で同じだと思う。決着がつかない。唯、違うのが、主観的世界においては、『生』 しか存在しないが、しあわせと不幸は常に混沌とした中で渦巻いている。しかも、たちが悪く、己が幸せか否か?すら気付かないこともある。また、逆に、しあわせと不幸を入れ違いで勘違いをしていることもある。
鴎外は、色々哲学書を読んで考えることはしても、己の思想を強く打ち出すことをここではしていない。そういうところでは、『傍観者』 である。これは、次の 『百物語』 でも、内容は違うが本人は 『傍観者』 を自認している。文学界でも、俺が々の行動派ではなく、紳士的なおとなしい聞き手で、かつ世話焼きの社交家であったというから、温和で卓越した 『傍観者』 であったかもしれない。
この作品で、少しむきになった箇所がある。「自慢でもなんでもないが、『業績』とか『学問の推挽』とか云うような造語を、自分が自然科学界に置き土産にして来たが、まだForschungという意味の簡短(簡単とは違う)で明確な日本語は無い。研究なんというぼんやりした語(ことば)は、実際に役に立たない。載籍調べも研究ではないか。」と、書き記してある。これを読んで、笑ってしまった。漱石に対抗してむきになっているのではという、勝手な詮索と、最後の糞真面目な皮肉を足して想像すると可笑しくてたまらない。でも、『業績』 という新漢語が鴎外の造語とは知らなかった。
この作品の後半には、次のボヤキが有る。「自然科学で大発明をするとか、哲学や芸術で大きい思想、大きい作品を生み出すとか云う境地に立ったら、自分も現在に満足したのではあるまいか。自分にはそれが出来なかった。」と、げろしている。つまり、自身の文学活動に対してもつたないことだと言いたげだ。それと、科学に対しては、「凡ての人為のものの無常の中で、最も大きい未来を有しているものの一つは、やはり科学であろう。」と、言い切っており、鴎外の予見は的中している。
なんだか、『妄想』の解説ばかりになってつまらなくなりました。鴎外の話を聞くと、どうも、高校生の時に感じた鴎外像と今とではかなり違ったものになってきたのは事実です。己の 『存在』 を、傍観者として気付くというところでは、鴎外も 『目覚めた人』 だといえる。この世に生を受けて、己の 『存在』 を問う人が現代科学が明治よりはるかに進歩した平成の世でも数少ない。何千年経っても 『目覚めた人』 が一向に増えないのは何故だろう。
殆どの人は、その日々を生きるだけで精一杯であり、それに対しての満足、不満をやれ、『幸福』だとか、『不幸』だとか、勝手に定義して、歳をとると、「ああ、もうすぐ、お迎えが来る」と死に対する不安や戸惑いを感じ、気が付けば、この世を去っている。ここで注意すべきは、 『気が付けば』 は、客観的世界の人が気付くのである。決して主観的世界の本人は気付かない。己が去ったことを認識することはできない。
生きているということは、死んでいないという確信から起きることだが、死んでいるということは、生きていないという確信からは見出せない。逆は成り立たない。それは、主観的世界が死後には存在しないからだ。もし、逆が成り立つとしたら、死後も 『魂』 が存在し、その 『魂』 をして、主観的世界が存在し、その確信を得ることになる。
そう思うと自分はこの作品の主人公のように、ますます頭を掉った。
家の外では、今朝から雪が降り続き、久し振りに大雪だ。と、云っても雪国と比較したら小雪程度で、福岡の雪景色は可愛いものだろう。玄関先の階段側に、赤い実が沢山ついている木がある。この木は我が家の大リフォーム時に家内が邪魔だから切れといったが、反対して切らせなかった。
この木を当てにしている野鳥がいるからだ。真冬の時期になると、山の木の実も少なくなり、人の気配がする民家の木の実を当てに飛んでくる。玄関のドアを開けると、メジロが五羽も木の枝をうろうろしている。赤い実をつついているのだ。私が出てきても逃げはしない。距離は、3~4mしかない。木の葉には、しっかりと雪が綿のように乗っかっている。
なかなか、情緒があっていい。それに、メジロは大好きだ。目の周りが白いから目白というらしいが、とてもチャーミングな鳥だ。泣き声は「つゅー」と啼く。冬景色にふさわしい鳴き声だと思う。この来訪者を観る度に、子供時分に飼っていたメジロを思い出す。よく懐いたメジロで手や肩に乗ってよく一緒に遊んだものだ。
我が愛犬ショルティと散歩に出る時、この玄関先の階段を通らなければならない。それは、すぐ木の真下を通ることになる。いつも、メジロがお食事に来ている時は、静かにショルティと共に、「君らに気付いていないよ」と、いう気持ちで、知らぬ顔をして通り抜ける。だから、あまり驚いて逃げたりしない。
それは、メジロに度胸があるからではなく、殺気を感じないからだと思う。鳥を意識すると、鳥も不思議と感づいて恐れて逃げる。無意識に通り過ぎるのが一番である。そう思っている。
人間同士が索漠としているのは、人の心が意識過剰になっているその所為かもしれない。だが、鴎外が意識しているところは、その 『意識』 ではない。 『目覚めた人』 の意識である。
そんな厄介なことを考えないで赤い実をせっせと突くメジロは自然でいい。
by 大藪光政