書物からの回帰-ローテンブルグ公園

[ ドイツ /  ローテンブルグ城壁内の公園にて撮影 ]

室生犀星の小説に、半自叙伝的な長編『杏っ子』があり、昔、それを読んだことがありますが、現在ではその小説がどんな内容だったのか?まったく記憶にありません。

あとで調べてみると、「舌を噛み切った女」、「随筆 女ひと」といった文庫本も昔読んでいたのか、日焼けした文庫本がまだ書棚に残っています。

小説を読めばひとつなりとも記憶があるものですがどういうわけかありません。ただ、室生犀星が若い頃不遇な人生を送っていたのはなんとなく感じていたくらいです。

詩人としては、「ふるさとは遠きにありて思ふもの/そして悲しくうたふもの」の詩があまりに有名であり、これを今の小中学生に朗読させてみると、裕福な生活を送っているのに不思議にも意外とすんなりと受け入れて暗誦してくれます。

しかし、時代と共に生活形態も変わっていく中でこうした感傷的な詩を受け止めていく時、恐らく、微妙にもそうした受け止め方の認識がその時代の人によって違ってくると思います。

それは、今読んでいる野矢茂樹氏の「語りえぬものを語る」の本を読んでいるときに、やはり、そうだろうなあ~と思います。言葉は生活と密着していますから、生活が変わればその言葉の意味も変わってくるものです。

でも、それでも変わらぬ言葉に尽くせぬものが感じられるとすれば、それは詩人とそれを鑑賞する者との交流でしょう。

室生犀星のような不遇な人生は今の殆どの子供たちにはまったく縁のない生き方でしょうが、なんとなく『論理空間』においては想像が可能な情景だと思います。

室生犀星は感傷的な詩人としてはとても素敵な詩人ですね。

そこでたまたま図書館で見つけたこの改版文庫本を手にしてみると、読んでみたい気になりました。それも、タイトルが「或る少女の死まで」というなんとなく感傷的な小説を連想させられたからです。

でも、いざ読んでみるとガッカリしました。とても小説としては不満足な内容です。どうも私小説として創作しているようですが何を目的として書いているのかわからない。わかるのは作家の私生活だけですね。

最初、「或る少女の死まで」というタイトルだったので、或る少女に当然関心を抱きますが、前半は、酒場での自分の喧嘩トラブル事件を取り上げつつ、最初に登場した酒場の結核をわずらった少女みたいな女の子に関心を抱いたのでその子が主人公なのか?と思いきや、なんのことはない、間借りしている同居人の少女であるふじ子についての話が後半に出てくるだけで拍子抜けしてしまいます。

ただ田舎から東京に出てきて四苦八苦している貧乏暮らしの作家である程度の紹介めいた内容小説だったのです。この程度ではお金を払って読むような小説とまではいかないと思います。

福田恆存のきついお言葉の中に、「川端の文学は子供の文学だ!」と、講演中にありましたが、福田恆存に言わせれば、大人の作文かもしれません。

どうもこの小説は画家で言えばデッサンの習作みたいな作品ですね。

でも、少女、ふじ子の死は室生犀星にとってはとても身近な人の死であったし、夭折した少女の人生をとても悼んだのでしょう。最後には、悼詩としてボンタンの詩を付け加えています。

ちょっとがっかりして、この文庫本に収録されている残りの「幼年時代」と「性に目覚める頃」を読んでみましたが、デッサン習作として読めば、「幼年時代」の方が納得できます。つまり、タイトルと内容がきちんと一致していますし、書き方に迷いがありません。

しかし、室生犀星のこうした私小説を読めば詩人の生い立ちがよくわかって詩集を理解するうえでとても参考になります。

そういう意味ではとても勉強になりました。

今でもそうでしょうが、当時として、詩人として生活を築くのはとても厳しいものがあり、敢えてそれに取り組んで行ったのは何故だろう?とふと考えました。

室生犀星の場合は、幼い頃からそうした創作活動が唯一の楽しみであり生きる喜びだったこと、そして、それが大人になっても自分の仕事として継続していったことが一番大きな動機だったようですが、現代のようにいろいろな選択肢が溢れていて生活における楽しみの多様性が広がっている状況下で果たして秀でた詩人があらわれるのかしらん?と思ってしまいます。

当時の生活レベルと現代のような飽食の時代を比較すると、確かに室生犀星の時代で、創作芸術活動をやるのはとてつもない挑戦だったと思います。

しかし、人間にとって何が大切か?を考える時、やはり、己の意志をつらぬける生き方が出来るというのがもっとも素敵な人生でしょう。

室生犀星は苦闘しながらそれが出来たのですから、やはり、人としてとても尊敬するに値します。そうした人は本当にごく稀なのですから。

また、室生犀星という人間を育んだものは何か?と言えば、室生犀星をお寺に引き取った和尚さんの存在はとても大きいですね。

犀星の感性は、故郷の自然が育んだものでしょうが、同じ郷土に住んでいてもそうした風に感化されなかった人々も大勢いますから、誠に不思議なものです。

そうしてみれば、犀星という人の出現は、偶発的なきっかけがあって、それを支えた人々がいて、室生犀星という詩人の必然性を時代が求めたことになります。

また、犀星の詩には今の飽食の時代であってもやはり胸を打つ内容を含蓄している限り、そうしたことに触発される現代人が必ず何処か存在することも事実です。

そうした室生犀星の詩に共感を覚えられる方は、恐らく、己の生き方に強い意志を持って何事も挑戦されている方でしょう。

確かに、この小説ではガッカリしましたが、作家のひとつの作品だけを断片的に評価しても意味のないことがわかります。その作家の生き方にもっと目を向ける必要があります。

室生犀星と己の生き方と照らし合わせれば、如何に己の生き方がまだまだ拙いかを反省するきっかけにもなりました。

by 大藪光政