書物からの回帰

[ 洞窟タブラオ / フラメンコを踊る刹那なひととき ]


スペインでのことですが、とても印象に残ったことがあります。スケジュールと実際の行程で、ずれが生じて地方の田舎のホテルに早く到着することになりました。

もちろん、そのことは添乗員さんがVIPバスから携帯でホテルに事前に知らせしています。それで、夕食を一時間早めてほしいと、バスの中からお願いされたようです。そして交渉の末、30分ぐらいなら良いとの返事でした。

そして、実際にホテルに到着して食事と一緒にということで飲み物を事前に注文したら、注文後、いくら待っても飲み物を持ってきません。もちろん食事もなかなか出てきません。

30分以上待たされたのです!結局、食事は当初の予定時間後になってしまいました。

あまり遅かったので、理由を聞いたら注文した飲み物が一部揃わないので買いに行っているなんてことを平気で言うのです。

間に合わないのは仕方ないとは思いましたが、連中が平然としているのですからその態度には驚きました。

日本では、考えられないことですね。(笑)

日本人は、一度約束した時間は守るとか、人をあまり待たせないというのは礼儀であって、特にビジネスだと信用問題につながります。

また、公共の乗り物などは余程の自然災害を除いて、時間を守るというのが常識ですね。
約束が守れなかったら深く陳謝するというのが当たり前なのですが、スペイン人にとってはそうした時間に対する態度が日本人とはどうも違うようです。

スペインに行くとそうした規則正しいタイムスケジュールに追われている日本人とは違って彼らスペイン人はまったく別な時間感覚を持っているようです。

だからそんなに悪いとは思っていないのです。

この感覚は芸術にも通じている気がしてきました。

スペインで最初に見たのは、聖家族教会のアントニオ・ガウディの建造物です。ガウディは自然回帰派だなと直感しました。

そして、帰国前に最後に見たザ・アントニオ・デラ・フロリダ聖堂の中に描かれてあるゴヤ作のフレスコ画で驚かされました。

なんと今まで見たヨーロッパ中の聖堂内のフレスコ画と違って、そこには生き生きとした人物描写があったのです。つまり、ゴヤは宮廷肖像画や宗教絵画から抜け出して自然回帰としての人物描写を成し遂げたのです。

このことがとても印象に残ったのですが、先程のスペイン人の時間感覚と、これらの芸術が結びつくことに関して、帰国してから「瞬間を生きる哲学」を読むまでひとつの謎でした。

この本の著者は、実は僕と同じ歳です。

まあ、そういう意味では親近感を抱きますね。同年齢というだけでそういう思いが起きるのは、やはり、ここまで生きてきたという連帯感が湧くからでしょうか?(笑)

この本を図書館の書棚から手にしたとき、面白いタイトルだなと思いました。

この本の冒頭に、「なぜ瞬間なのか」という見出しがあって、こう書かれています。

「いまこの瞬間のなかにすべてがある。少なくとも、大切なものは全部そろっている。人生の意味も、美も生命も愛も永遠も、なんなら神さえも。だから瞬間を生きよう、先のことを想わず、今ここのかがやきのなかにいよう。」

と書かれてあり、その次に、こう書かれています。

「この本で明らかにしたいのは、たったこれだけのことです。」

そして、少しあとのところでこうしたためられています。

「・・・・・・・・その意味で、宗教や芸術や哲学とはじつはなんなのかということを、瞬間を生きるという簡素な糸口から、具体的にありありと体得していただくことも、この本の隠れた野心です。・・・・」

そうですね。著者のネライはまさにそこでしょう。

特に、この本を読み始めてから真ん中ぐらいから、とても興味津々になり、考えさせられました。

その引用文の説明はよしましょう。この本を読まれた方がよいでしょう。

この本の最後にエピローグとして、「ルーナの告白」と題したインドで出会った貧困街の少女の話が載っています。

この本は、学術書籍としてはわかりやすく書かれていますが、それにしても最後の「ルーナの告白」は、まったく違った手法で書かれています。

その棲み分けを印字フォントでも区別しています。

しかし、ルーナと言う少女と著者との出会いとその対話は、著者のインドでの体験と著者の「瞬間の哲学」と「実際に生きる」と言うことに関しての方向性を読者に示したものだと言えます。

もちろん、これは著者のデフォルメした文章でしょう。そして一般の人を意識したサービスかもしれません。

あまりにも経済優先で突き進む現代人に対して、「もっと刹那を大切にしなさい。」という著者の呼びかけに対しての警句として、資本主義的産業構造の正体を『前望構造』と看破したジョルジュ・バタイユの言葉からそこに結びつくまでの最後の説明としてどうしても著者は、「ルーナの告白」を付け加えることで、「・・・そうは言っても、より良い生活、そして食べる為にはどうしても、前望構造を現代人はもたねばやっていけない・・・」という、テーゼとアンチ・テーゼをどうアウフヘーベンさせるか?という課題があったからでしょう。

さて、芸術を味合うことが何故感動を呼ぶのか?という解に対して、それは、生命のプシューケーを見出すからだと言うのですが、そうかもしれません。

芸術家は刹那においてその『生命のプシューケー』を感じ、それを切り取る技を持っているのですね。

芸術的行為による刹那の切り取りで生まれた作品は、その真の現実を表微することで人が感動する。それはつまり『生命のプシューケー』があるからだということですが、では、何故、『生命のプシューケー』を感じると人は感動するのか?については、著者は言及していません。

人は誰しも『生命のプシューケー』においては、感動するものです。それは、別に芸術作品でなくても、赤ちゃんが生まれる瞬間、愛の告白を受けた瞬間、花が開花した瞬間、一度しかありえない『生命のプシューケー』は誰しも感動します。

ただわからないのは、人間以外の動物はどうなのでしょう?おそらくそれは、当たり前のこととして、受け止めているでしょう。

人以外の動物は、『生命のプシューケー』そのものかもしれません。つまり、意識する必要が無いのでしょう。

むしろ、人間だからこそそれを強く感じるのでしょう。

それは、恐らく人間が前望構造に取り込まれていくようになる段階になってからだと思います。資本主義的産業構造になる以前から、古代の食糧を蓄えるという初期の前望構造を取り始めたころからかもしれません。

ごく自然な真の現実で日常を過ごすことが前望構造によって失われる。しかし、それをなんとか呼び起こす活動が人類にとっての芸術として生み出されたということでしょう。

人は、ものを考えるようになってから、残念ながら『生命のプシューケー』と一体で日常を生きることが出来なくなったのだと思います。

それは人が単なる生命体以上の存在になっていっているという証でしょう。

人が芸術で感動するのは、はるかな故郷の母体への回帰かもしれません。それは、生命というものが 畢竟なんであるのか?そして何故、生命が宇宙に出現したのか?それがまったく謎なのですが。。。しかし、その回帰的行為によってなんとなくなつかしく感じるのです。

この本を読み終えて、しばらくして。。。

今、コンコーネ50番を習い始めているのですが、笑わないでください。

あの隼君で有名になった小惑星イトカワの名は、僕が高校生の頃から尊敬していた日本のロケット工学の父、糸川英夫博士の名前を取ったものですが、糸川博士は、なんと還暦を迎えてからバレエを習い始めたくらいです。

そのことについて書かれた古い本を僕は未だに大切にして読み返しています。

それで、第三番を今習っているところです。(笑)

このコンコーネには歌詞はなく声楽の練習曲なのです。

でも、歌謡曲など及びもつかない美しい旋律があります。

それで、この本を読み終えて、「よし、これに歌詞を付けよう!」という気になりました。そして、それが下記の歌詞です。

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

第三番の曲の為に。。。

「不滅なあなたへ」

あなたの心は ゆりのように

白い清楚な 刹那の永遠(とわ)の星

あなたの想いを心に留めて

現在(いま)を生きることがよろこびです

ああ~心やさしい あ~いつもの声

♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪♪

この詩の「刹那の永遠(とわ)の星」というところは、この本を読んで、刹那と永遠との結びつきを強調する為に、星は瞬きしていながら(刹那)、はるかな宇宙の果て(永遠)をイメージしますからこの言葉を挿入しました。

古東哲明氏のこの本を読まなければ、即興でこんな詩は出来なかったと思います。そういう意味ではこの本に出合えてよかったと思います。

by 大藪光政