この小説は、鴎外の行き掛かり的な自伝物語ですが、『飾磨屋』 という遊び人と鴎外との両極間を描いたもので、鴎外本人は、お互い『傍観者』としての立場であることを語っている。それは、文中に、「僕は生まれながらの傍観者である。・・・・以下中略、今飾磨屋という男を見ているうちに、僕はなんだか他郷で故人 (ここでは古くからの友だちという意味) に逢うような心持がして来た。傍観者が傍観者を認めたような心持がして来た。」 というくだりがあります。
しかし、読者は鴎外の言うことに騙されてはいけない。 『飾磨屋』 は、確かにある意味では傍観者だとは思うが、鴎外は違う。彼は、鋭い観察者なのだ。『傍観』とは、かたわらで見ていてそのことに関係しないという意味で、『観察』 とは、そのものがどういう状態にあるか、ありのままの姿を注意してみることである。つまり、鴎外は表向き 『傍観者』 という立場をとりつつ、鋭利な感覚を働かして、しっかりと深く関与しているのである。
『飾磨屋』 は、主催者であり係わりを持ってはいるが、実際には集まった者たちに関心を持つこともなく心そこにあらずの行動を取っている。鴎外は、鳥合の衆をよく観察し、かつ、その主催者である 『飾磨屋』 をじっと見つめて考察している。そして、自分との比較までしている。おそらく、『飾磨屋』 は、鳥合の衆の中に居る鋭い観察者の鴎外にも気付くことなく、物思いに耽っているに違いない。主催者としての変な傍観者だ。ひょっとすると、鴎外を単なる傍観者だと思う読者がいたとしたら、鴎外は、その読者も鳥合の衆の範疇として捉えてこれを書いたかもしれない。(そう考えると面白い)
鴎外の云う 『傍観者』 を起点に、様々な想いが巡った。それは色々な集会に出る機会があるとき、その会合出席者に、共通目的がある場合でも、ふと、その会合の雰囲気と乖離してしまうことがある。その時は、集まっている連中の発言に莫迦らしさを感じたときだ。そうした発言をしている連中の目を見ると、実に情けない目をしている。 『目は口ほどにものを云う』 と、云うが本当にそうだと思う。
情けない発言をする連中の目は、思考と直結していない。どこか間違ったところに繋がっている。そうした時、対立してもバカバカしくなる。論争するだけ無駄だ。そうして黙っていると、いつかは、連中を観察して考察することさえバカバカしくなり、己が単なる 『傍観者』 になっていることに気付く。そのときは、なんとなく、虚しさを感じる。そうだ、『傍観者』 とは、実に虚しい存在だと思う。
如何につまらない 『衆愚』 と云えどもひとつの群れだ、その群れと無縁の存在であることを知らされることは実に寂しいものだ。己と同じ考えの持ち主がいないのか?と、探し回ってもその場にいないことに気付いた時、実に孤独である。ある時は、己に対して自信を無くす時もあるだろう。でも、それは若い時だけである。歳をとれば頑固になり、自分が正しいと信じ、わが道を行く。だから、歳を盗るのも悪くは無い。
さて、もうひとつ思うことは、『飾磨屋』 を為政者として捉え、『鳥合の衆』 を民衆として比喩したイメージがある。たとえば、小学校の卒業式に、代理が市長の祝辞を読み、生徒はポカンと聞き入り、父母は真摯に市長の言葉を拝聴する。 (実際には耳半分かもしれない) セレモニーが厳粛に成立する。
式場では、先生と生徒が別れを惜しみ、父母と共に、泣き哀しんでいる時 (今の時代はそうでもないようだ)、市長は別のところで妾と一緒に、しっかり酒を飲んでいる。こういう例えは失礼で、昨今の市長にはそういった非常識な方はおられないでしょうが、為政者は、往々にして内容は違っても、民衆の悲しみとは掛け離れた歓喜を持ち合わせている。
為政者が 『傍観者』 であるとき、民衆に対して立派な独裁者に成り切ることが出来ると思えた。そう思うと、傍観者とは、先程の虚しい存在とは両極端ですが、怖い存在だと思えるし、傍観者も色々あるものだと思った。
鴎外が、単なる 『傍観者』 ではない証に、こうした小説を書き、世に問うていると気付いた時、鴎外も、『人が悪い』 男だと思った。
by 大藪光政