書物からの回帰


[ スペイン / アルハンブラ宮殿からの展望]

はじめに・・・先日、こんなメールが届きました。

「森鴎外の短編小説「普請中」のあなたの解説を読みました。
なにしろ大昔の話ですから、何処まで本当か嘘か、出鱈目か
分かりません。私もふとしたことで鴎外の『舞姫』と『普請中』
をみました。 私も感想を書いていますので、お暇があれば見てください。」
と言った内容です。

私のブログはすべて、コメントなどコミュニケーションに関することは出来ないように設定してあります。理由は、ブログを沢山持っていますので、コメントに対するお返事が遅滞すると失礼と思っているからです。

しかし、このアメーバはメール形式でも私とコンタクトが取れるようになっています。

そうしたメールが送られると、私のWebメール宛にアメーバから「届いていますよ」という案内が届きます。これだとすぐに読まれた方からのメールが来たとわかりますから、それはそれでよいことだと思います。

ただ、メールにつきましては、実名のみ直接にご返事させて頂きます。

さて、そうは言っても頂いたメールを読んで、内容が真摯であれば匿名でも、ご返事しないわけには行きません。

それで、メールされた方の森鴎外とエリスに関する来日事件についての調査記事を読みました。すると、こうした意外な事実というのがあるのか?と感心しました。

ただ、出典が明記されていませんでしたので気になるところでした。

しかし、お調べになっていた事柄が事実だとすると森鴎外のエリスに対する日本での応対に関して冷淡なものだと決め付けられない・・・確かに、何かほっとする一面を感じさせられます。

歴史における真偽というものはとても難しいものであることは、この方も述べられています。

例えば、歴史上の事件において、場所とか物についてはのちにそうした証拠が出てくれば真偽ははっきりしますが、人の心の表裏は摑みがたいものがあります。

仮に、手紙や何かでその人の想いが綴られていたとしても、それはつくろいの詭弁かもしれません。それに騙されてはかないません。

従って、何を信じるか?は、人によって様々でしょう。ただ、前向きな明るい受け止め方をする方が健康的でよい気分になると思います。

そういう意味では、鴎外という人物を良い方向に見直せたと思います。

ありがとうございました。

紙面にてお礼申しあげます。

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さて、西垣 通 氏の 「秘術としてのAI思考」を22年ぶりに再読しました。

それというのも、昨今、やれ、スーパーコンピューターだの人工知能型のコンピューターだのとNHKが特番で取り上げていて、それでこの本のことを思い出して、書棚から探して読み返すことにしました。

この本を書かれた時、西垣氏は明治大学の助教授でした。当時、42歳でしたので、とても驚きでした。あとでわかったのですが今は東大の教授をされていますね。

これを最初に読んだ当時、自分より二つ年上なのにこんなに勉強されているのか?と感嘆しました。

何せ、理工系なのに文系の豊富な叡智と思索を持ち合わせておられるのですから、世の中にはすごい方がおられるものだというのが当時の感想です。

人工知能を研究するに当っては、人間の歴史、文化、芸術といったさまざまな視野から光を当てていかねばならないというのをこの本から学ばせられるところですが、当時、なんとなく知りたいことが知りえない物足りなさを感じたのもです。

それは、人工知能そのものの具体的なこと、すなわち、技術的な解説とか、それに付随した用途などについての詳しい展開を殆んどされていません。

だから、この本は人工知能という科学分野系なのにあれから22年経っても、少しも陳腐化していません。

もし、仮に、大胆なこれから人工知能が発展していく仮説などを掲げていたら、科学技術の進歩の具合によって今読めば陳腐化した内容が混じっていたかもしれません。

西垣氏は、そうした科学的な書物の欠点も想定されて、数十年後の読書に耐えられる構成で望まれたのかもしれません。

まず、一般の人とこれらを仕事として取り組まれている方とは、人工知能が意味するところの解釈が大きく違います。

NHKにて紹介されたものは、エキスパートシステム系のものですね。クイズ番組で人間と競って人間を負かせてしまったAIはクイズのエキスパートシステムの勝利だったようです。

だから、例えば、クイズの課題が何でも良いということになれば、人間の方が勝つに決まっています。

限定された範疇の出題に関して答えられるのがエキスパートシステムの限界範疇なのですね。

遊び以外に医学において、医者の代わりに患者の病名を当てるとか、治療方法や投薬の最適なお勧めを示すことができる仕事にもAIは適しています。

それは、膨大な医療データを瞬時に検索して、簡単に言えばIF構文などで解析していけば、下手な不勉強の医者より精度ある医療が行えるからです。

現在、医療現場においてはこうした医療エキスパートシステムが、患者の検査内容や病状データをパソコンで入力すれば、Web経由で大型のAI搭載コンピュータで、瞬時に想定される病名の絞込みと、それを最終的に選択し、決定した医師の診断をさらに入力すると今度は、その患者に合った最適な治療法や投薬の薬の種類とか量まで教えてもらえるでしょう。

しかし、最終的にはたとえ藪医者であっても医師の判断によって治療がなされるのです。(笑)

このシステムは名医でも、セカンドオピニオンとしてに活用できるシステムだと思います。だからすばらしい技術には違いありません。

ただ、患者に関するデータや検査結果のデータの入力が間違っていると、このエキスパートシステムのAIといえども誤診をしてしまうのは当たり前のことですね。

でも、高度なAIであれば、「患者のデータや検査の結果に疑問があります。再度、調査願います。」といった答えが返ってくるかもしれません。

そして、それがまさにそうだったとすれば、それはかなり完成度の高いエキスパートシステムでしょう。

チェスや将棋や囲碁もエキスパートシステムの動作と似ていますが、相手の打つ手を読み込んで膨大な指し手のパターンデータを検索してもっとも有利な指し手を選択して対戦するシステムなので形態は違うようです。

この世界は、閉回路のような世界ですからかなり行き着いていて、プロも負けてしまいます。それは、医療に比べて論理回路が構築しやすく、データもシンプルだからでしょう。

しかし、株価予測というのは、そう簡単にはいきませんね。シンプルなものであれば過去のデータで精度を上げて確率的に判断することになります。

これも、IF構文と条件式で構築することが可能です。高値、安値といった日々のデータに基づいての予測システムを簡単に作ることができますが、しかし、株価の場合は過去のデータを使ってのシミュレーションというのには問題があります。

それは、過去のデータが古ければ古いほど現在の予測を占うことにおいて意味がなくなるからです。

つまり、10年前と現在とではその企業自体が変貌しているし、社会も当然変わっています。だから、同条件が成り立たないのです。

逆に、直近のデータであっても役に立たなくなることもありえます。それは、突発的な事件が起きて、株価が暴落したときのデータは一週間後にそのデータが入っているとまずい場合があります。

それは、事件後、すぐに市場が回復した場合株価が元に回復するからです。

つまり、突発的な予測できない出来事に対して、まったく、システムは無能なのです。それは、人間の判断すらそうでしょう。天災は誰にも予測できないものです。

つまり、混沌としたものに対してのエキスパートシステムは構築できないのです。

ただ、そうしたことを承知で電卓を使うような軽い運用で精度をあげるとか、判断材料のひとつとして見るというのにはよいかもしれません。

さて、こうしたシステムを一般の方はAIだと思われているでしょうか?AIと言えば、そうです鉄腕アトムには人工頭脳が入っていましたね。

それに対抗するかのように、鉄人28号の後半には、ロビーという名のロボットに人工知能?人工頭脳?横山光輝氏はどちらの言葉を用いられたか?記憶にありませんが、そうした知能が暴走したロボットを描いていました。

一般人の描くSF的なAIは、学習能力があるということと合わせて意志があるということですね。アトムの場合は感情すらあります。

これらを読んだ多くの読者は、そうしたことが未来に実現できるのでは?と夢を膨らませたことでしょう。

実際、産業用ロボットに至っては、ティーチング機能でもって容易に作業を覚えてくれる狭義の学習機能があり、大いに役立つシステムです。

しかし、産業用ロボットのティーチング機能は、基本的に動作のコピー&ペーストと同じで本当の学習機能とは言えませんね。

本当の学習機能が人工知能に備わっていれば、データを入力するだけで、あとは、どんどん勝手に学習してくれて手が掛からず、自ら能力を高めてくれると思われるのが一般人の思いでしょう。

でも、そう簡単には行かないようです。広義の意味での学習能力というものには、どうしても意志というものが潜在していなければなりません。

さて、もうひとつ、身近なことは、SF映画にあった「2011年宇宙の旅」に出てくる、人工知能が人間に立ち向かう話ですが、なんだかぞっとしますね。

でも、今は2012年なのに、とてもとても、人工知能との会話どころか翻訳すら満足にできません。(笑)

だから、科学技術においては未来という設定も慎重にやらないと進捗の前後が大きく狂ってしまいます。

会話だけでなく、翻訳することにおいては日英翻訳やその他の国の言葉においてもそうですね。ネット上の無料翻訳に至っては、大変お粗末なものです。和英で訳したものをコピーして、それをペーストして英和で翻訳させるととんでもないことになります。

ほんの短い文章でもそうですね。これは、日本語の言語の繊細さによるボキャブラリーの多さに対して英語にはそれに対応した言葉が用意されていないというのもあります。

つまり、言語の世界も表現力の差が各国で違います。日本語は高水準、ハイレベルの言語ですね。

ワードを使うときも、そうですね。文章を入力するととんでもない文字変換になりますね。マイクロソフトは頻繁なOSのつまらぬ作り代えで商売しないで、もっとちゃんとした文章変換機能を開発しろと言いたくなります。

翻訳には、もうひとつ、生活形態の違いから来る解釈もありますし、国民感情も大きく違うので、潜在的な意味を知りえた上での翻訳が必要になります。

この間、ケセラセラの歌を合唱でやろうという話になった時、歌詞を見ていたら、笑ってしまいました。自分が描く曲のイメージと歌詞が合わなくてがっかりでした。やはり、原語で歌った方がかえっていいなあ~と思いました。

翻訳の難しさは、英詩や多国語で書かれた詩を翻訳させるのが一番ですね。
きっと、とんでもない翻訳が出てきます。

そうそう、カーペンターズのSingを翻訳機で翻訳させたら、なかなか、困難を要しました。あんな簡単な歌詞すら難しいようです。

つまり、感情、即ち感性まで理解できないとムリなのです。

人工知能が意志をもっこと事態がムリなはなしですね。それは、機械と人間とはハード的にボディーが違いますから、意志や感情が宿るはずがありません。

そして、人工知能というものが受動的なプログラミングで構成されている以上、狭義の運用しか能力を持つことは出来ないでしょう。

しかも、論理的に構築できる世界だけ有効でしょう。不確かな世界においては、やはり、優秀な人間の方がまだましというものですね。

高度な意識や高度な感情というものがいつの時代から、そしてどのようにして、人間が勝ち得たのかは謎ですが、心と肉体、そして、人間社会によって形成されたのには間違いないですね。

そして、それらを辿るように研究して新しい高度な人工知能が生まれたとしても、果たして、どこまで行き着くのかわかりませんね。

まあ、恐らく幅広い能力としては、決して人間を超えることはできないですね。

それを超えようとしたら、やはり、ハード的にも人間のような人造生物に近い造りになっていくに違いありません。

人工知能が、高度な意志を持つということになると、究極的には「自分が何者なのか?」と自問することになります。

一般の人でもそこまで深く思索することはありませんね。自己の存在の摩訶不思議さというものを考えている人は地球上の人口比率ではわずかでしょう。

でも、人間の構築元のDNAのセッティングにおいて人間にそこまで強い意識を持たせる可能性まで備えていたのか?それとも、勝手に自走しながら勝ち得たものなのか?わかりません。

どうも、考えるに人間は自然物ですから単体で考えるよりこうした地球や宇宙全体の一体とした生成物と考えるべきなのでしょう。

つまり、つながっているということですね。

でも、不思議なことに人間自身が自然物を模倣してどんどんコピーを作っていきます。「一体人類とは何者なのか?」と、思わずにはいられません。

しかし、限りなく自然の創造物に挑み、かつ自然そのものすら操ろうとするとき、果たして科学がそこまでに辿り着くだけの時間を人類が持ちえるか?疑問です。

人類全体の寿命というものがありそうですからね・・・いやありますから。

ましてや、今生きてこれを読まれている皆さんは、少なくとも、二十歳以上でしたら、たったの100年後にはすでに誰も生きていませんからね。(笑)

そう思うと、人工知能といった研究もむなしい気がしてきますね。

でも、意欲ある若い方にとっては楽しみな研究の一つだと思います。

若い皆さん頑張ってください。



by 大藪光政