[スペイン / サン・アントニオ・デラ・フロリダ聖堂の近隣にてゴヤの銅像]
この本を最初に読んだのが、1980年頃です。
今から、32年前ですね。
だけど初めてな気分で読みました。
宗教と言うのは、非科学的な存在ですが、まだまだ人類にとっては大切な存在のようです。その証拠に星の数まではいかないにしても多くの教団が存在しています。
その中でも、東洋でひと際大きい存在が仏教でしょう。
日本ではすでに仏教はセレモニーとしての存在で庶民に定着しているだけですね。用があるのは葬儀と法要のときだけのようです。
母を亡くしたとき、葬儀が済み続いて初七日を執り行なおうとしたのですが、お寺の若いお坊さんが、自分の友人の結婚式に出なきゃならないから、後にして欲しいなどと、言われた時、その発言が公私混同になっていてみんな唖然としましたね。
兄弟で相談して、結局、僕がその坊さんを説き伏せ、しぶしぶ、初七日をしてもらいましたが、お経を唱えている間、みなさんが焼香している最中、時々後ろを振り返って、あとどれくらいで終るのか推し量っていました。つまり、これが終ると結婚披露宴に駆けつけたいからです。
わからないではありませんが、宗教人として、まあ、なんと世知辛いお坊さんなのだろうと思いました。
スポーツカーなど車好きな若いお坊さんと亡くなった前の和尚さんとはまったく違った性根ですね。
お寺における世襲制がそうさせてしまったのでしょう。
さて、仏教はインドから中国を経て日本にやってきたのですが、今でも思い出すのが、中国共産党が始めて使節団を日本に送り出したとき、僕は石橋美術館で人民服を着た中国の人たちと漢字で筆談をしたことがあります。
そのとき、とても友好的に筆談が進んで中国製の煙草まで勧められましたが、僕が、「佛教」の文字を書いて問うた時、急に態度が変わってわざとわからない振りをしたのを覚えています。
中国共産党の国では、宗教はご法度だったのですね。共産主義にとって宗教は麻薬とまで言っているくらいですからそうなのでしょう。
宗教とは無関係の孔子の論語さえ当時は禁止されていたようです。
そうしてみると、宗教と権力とが無関係でないこともよくわかります。そうした事柄にもこの本は触れてあります。
さて、僕は、もともと宗教とは距離をおいています。しかし、日本人としての生活の習慣の中に溶け込んでいる神仏への従順はみなさんと同じでしょう。
先程、申しあげたように宗教と権力がもつれ合っているのは、宗教が組織として活動することから必然的にそうなるのでしょう。
そうした意味で僕にとっては組織的な宗教というものが信じられないのです。
個人のみに帰依する宗教であればそれはそれでその人の姿勢だと感服しますが、組織の為の宗教になってしまうとなんだかおかしいと思うのです。
宗教というのはつまるところ心の問題を扱うものだと思っていますが、今、僕が取り組んでいる教育もつまるところ心の問題のようです。
能動的に心に働きかけるのが宗教で、他動的に働きかけるのが教育だなとも思いますね。
この本の対談者である中村 元という方は、約十年前にお亡くなりになられた哲学・仏教学界の重鎮だったようです。
そして、相手方の小説家である水上 勉は、ちょうど二十年前に亡くなられていますね。 時の経つのは早いものです。
この本の構成は、「愚者のごとく」から始まり、「人間道元」そして、最後の「わが寝台となせ」で締め括られています。
道元については有名であり名は存じていますが、道元の書かれた名著にはまだ目を通していません。
しかし、対談の中で道元が只管打座をひたすら通されていたというのを知ると、そのようなことだけであのような難解な本が書けるのだろうか?まさか、一日中、只管打座の生活ではあるまいと、思ったりします。
道元がかなり粗末な衣を着ていたという話を信じれば、道元という人はかなり、己に厳しい人だというのがわかりますね。
そういう人は、権力に擦り寄らないし、依存もしないでしょう。
『お釈迦様』という言葉は、誰しも知っていますが、別名、『仏陀』と言いいますね。これも殆どの日本人は周知されていることです。
しかし、中村 元によると真理を悟った人という意味で、仏教だけに限らず、ほかの宗教でもその言葉を使っていたと言うのです。そして、ジャイナの書物にも当時の偉い仙人みたいな修行者のことをみんな『仏陀』と呼んでいるそうです。なんだか、インドのそうした宗教の坩堝は深いですね。
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ジャイナ教 (注釈) {仏教と異なりインド以外の地にはほとんど伝わらなかったが、その国内に深く根を下ろして、およそ2500年の長い期間にわたりインド文化の諸方面に影響を与え続け、今日もなおわずかだが無視できない信徒数を保って いる。}
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そのお釈迦さん自身は、どうも、教団をつくる意識がなかったそうですが、そのことについては、釈迦に臨終が迫ってきたとき、弟子のアーナンダが最後の説法を願うのに対して、「泣くな、悲しむな、もしもみなが私を頼っていたのであるならば、嘆き悲しむのは当然であろう。けれども、自分は教団を指導してきたという意識は全然ない」と、釈迦が本当にそう言ったか言わなかったかの真実はともかくとして、そうした伝えがあるということです。
そうしてみると、親鸞の「弟子一人持たず候」と、同じ考えだと中村 元は言っています。
付け加えますと釈迦は、「自分はただ、人が如何に生きるべきかという正しい道を説いただけなんだ。ただ、自分の残した法というものがある。嘆き悲しまず、『ダルマ(生きた真理)』に頼れ。」という話があり、その言葉を道元がはたして読んだかどうかは定かではないが、精神においては通じるものがあると、独断だがそう感じていると述べられています。
どうも、そうしたことを知ると現在の仏教界というのがだんだん怪しくなってきますね。
また思うに、意外と釈迦が現代に存在している仏典を読むとびっくり仰天するかもしれませんね。
「俺は、こんなに難しいことを説いていないよ。一体誰がこんな立派な法を書いたのだ?」とね。
どうも僕は、疑い深い性質なので2500年前の釈迦だとか、キリストだとかの言ったことがそのままそっくり伝えられているとは信じません。大きく間違ってはいないにしても、表現や内容が変わっていると思います。
長い歴史の中で無名の支持者によって誇張されたり、削られたり、そして、付け加えられたりして現代に至っているのではと思っています。
それが証拠に、いつの間にか、釈迦が思うところの教えが、組織としての仏教団体化してしまっているからです。つまり、宗教人の職業化ですね。
職業となれば、しっかり働いてしっかり稼いで出世して良い生活をしたいのは世の常ですね。これには、釈迦も想定外だったことでしょう。
現在のお寺の役割と云えば、葬儀と法要と最初に言いましたが、お寺によっては悩み事相談をされているところもあるでしょう。しかし、科学が発達するにしたがって悩みも複雑になり、そうしたことに対処できる和尚さんがだんだん少なくなってきているのも事実ですね。医療としての『心療内科』で受診した方が適切だと思われる方が多いでしょう。
純粋な心の悩みでなければ、たとえば経済的なことや諸々なトラブルだとそれなりのアドバイザーとして、弁護士、税理士、司法書士、行政書士、果ては消費者相談まで、多くのサポートビジネスが現在では構築されており、和尚さんの出る幕ではなくなっているのが今日ですね。
書の最後のところで、面白い書き出しがあります。
「すなわち慈悲の気持ちを持って人々を助けるということ、これが必要だと思います。この点では、仏教者よりも、インドのラーマクリシュナ・ミッションのほうが進んでいると思います。ヴィヴェーカーナンダは、『宗教の本質はどこにあるのか、教義の中にはない。それは人々に対する奉仕の中にある、教義なんていうものはどうでもいい』と、言う。それは、非常に禅的な言葉でもありますね。万巻の書も何もいらない、釈迦もいらないという禅の言葉がありますね。悩んでいる人に向かって教義を説くのは、『飢えている人に向かってパンを与えないで石を与えているようなものだ』その気持ちでヴィヴェーカーナンダは実行したわけです。だから、インドで社会救済事業を一番やっているのは、ラーマクリシュナ・ミッションですね。」
つまり、「宗教の本質は奉仕にある」ということですね。
それが真実なら、僕も少しは宗教人になりつつあるということですか?
だって、『教育』を奉仕としてやっていますからね。(笑)
「宗教の本質は奉仕にある」は、見返りを要求しない無償かつ無私の奉仕精神ということのようです。
それは、ある意味で神に近い行為ですね。
まったくの無私というのはとても難しいものです。
『塩鉄論・利議』に「言う者は必ずしも徳有らず。何となれば、これを言うは易くして、これを行うは難ければなり」から来ているという、「言うは易く行うは難し」ですね。
どんなに素晴らしい哲学や宗教を、勉強、研究、思索などしていても、そこでとどまって終わるのではなく、それに基づいて行動の中で具現化していく、この本にもある『身現者』というのがそれに当たるのではなかろうかと思います。
「無私での奉仕」もそうなのでしょう。
宗教人もそうでなくてはお話になりませんね。
石原慎太郎は、東京都知事を辞めてあの歳で国政に復帰するという決断を見ていると、過去のライバル三島由紀夫に対する・・・『あの行動』・・・良きライバル意識なのか?それとも、お国の為に最後の「無私での奉仕」なのかしらんと、思ったりします。
みなさんも各自、大小に拘わらず、『身現者』になって「無私での奉仕」を行うことで、神に近づいてください。
ひょっとしたら神様になれるかもしれませんよ。
by 大藪光政