書物からの回帰-お見舞いの花

[ お見舞いの花 ]

この小説は、若い頃に読んだ本です。

たまたま、図書館に岩波文庫のワイド版を見つけて手にしたところ、再読してみたくなりました。それは、国立病院に入院することになった時、退屈しのぎに読む本を丁度探しており、再読もまた勉強になるだろうと思ったからです。

この本は、全部で文庫本として全三巻あり、そのうちの二冊は入院中に読むことが出来ました。読むとなると病室は夜九時半から朝の六時半まで消灯ですから病室内ではこの時間帯は無理です。

そこで、病棟の一階にある急患家族用と兼用の手術家族の待合ロビーには煌々とした明かりがありましたから、そのオープンな応接のソファーに座って読み耽りました。

まあ、こんな時間帯には誰もいないわけで、たまに、急患が運ばれてくるぐらいです。とても静かで快適でした。ときどき、交代勤務の看護婦さんが終業時に通られるので挨拶する程度なのと、たまに守衛さんが覗きに来られるぐらいです。

術後、四日目からこうした日々を送ることができました。といっても入院は、わずか九日間のことでしたから本を読んだのは五日間ということになります。

さて、この本を読んでいるとドストエフスキーのあの独特な性格が臭ってきます。彼独特な病的とも思われそうな混沌とした情景です。

ドストエフスキーってとても繊細な小説家だなと改めて感じました。とはいえ、多くの作家は繊細なところを持ち合わせているのは当たり前なことですが、彼独特な繊細さは読者にとって色々と好き嫌いもあるでしょう。

この本を読み進めて行くとすぐに疑問が湧いてきました。何故、主人公のロジオンがあの金貸しの老婆を殺そうと企てたのか?です。その妹、リザヴェータは、確かにその現場に入ってきた為、ロジオンが衝動的に殺害したことは頷けます。

つまり、殺害の動機がお金目的でもなく、ただ彼の思想所以であるといっても、どうも脆弱です。その思想とは、「全人類の利益の為にはしらみのような金貸し老婆など殺してもかまわない」という考えですがただそれだけの考えで老婆殺しに出向くのには作家の想定としてもかなりこじつけなところがあります。

ただ、ドストエフスキーの小説は彼の独特な考えを読者にアピールせんがために、社会、思想、宗教、法律、道徳と様々な角度から考えあぐねて構築したところがあって、この老婆殺しはあくまで彼の新しい発見のアピールに必要な例え話ですね。しかし、例え話というものには必ず矛盾を孕んでいます。そこを気にしなければ納得のいくところでしょう。

この小説は、彼の作品である「カラマーゾフの兄弟」を発表する前の余震みたいなものだなあ~と思いました。エピローグがついているところなんか近似的な構成ですね。

翻訳者である(本名馬場 宏)江川 卓(ペンネームだったんですね)氏は、解説の最後のところで、「これは、読者の好みに応じて、社会小説としても、推理小説としても、恋愛小説としても、思想小説としても、いかようにも読むことができる、世界文学史上でもめずらしい作品である。私自身、たしか中学三年生のころ、はじめてこの小説を読んだときには、むろん作中の哲学論議など半分もわからぬまま、ただ、もう場面場面のサスペンス、筋の意外な展開にふりまわされ、いつかそこにみなぎる異常な雰囲気のとりことなって、息もつげず読み終わったことを覚えている。おそらくそれでよいのだろう。これを読み終わった段階で、自分がある種の熱気を感染させられ、なにか未知の漠とした不安にとりつかれていることに気づいたら、もう一度、いや、二度でも三度でも読み直したらいいと思う。」と、解説の最後を結んでいます。

江川 卓氏は、中三のときにこの本に触れたのですから、やはり、そこには父親の薫陶というものがあったと思います。父親はロシア文学者の馬場哲哉氏ですから、カエルの子はカエルですね。

読んでいくうちに、登場人物のややこしい名前が出てきて、しかも、同一人物でも、愛称で書かれたりするので名前が色々と変わり、最初はちょっと戸惑います。でも、別に登場人物リストを見ればすぐにわかるし、読んでいくうちに話のストーリーからその人物が誰であるかは判断できます。

最初はちょっとややこしいですが、登場人物は限られていますから読んでいくうちにそれもだんだん慣れてきます。たとえば、主人公の場合、「ロジオン」と「ラスコーリニコフ」そして、「ロジャー」と場面場面で呼ばれますから惑わされます。

この小説を楽に読むコツは、登場人物の呼び名が色々変わって行くというのを最初に了解しておけば、話が混乱しないでしょう。

さて主人公だけでなく他の登場人物の発言によっても著者の考えを反映させるのはごく当たり前のことですが、スヴィドリガイロフという人物はドストエフスキーの父と似た風貌があるとのことですが、確かに主人公ラスコーリニコフ (ロジオン)と、近似的なところを匂わせています。

例えば、スヴィドリガイロフの奥さんは彼が殺したのでは?といった疑惑があり、その罪の償いをするために自殺したのでは?と想像させられます。彼がラスコーリニコフの妹ドゥーニャに心を抱いていたというところの展開が最初の好色漢イメージから掛け離れています。

ひょつとしたら、スヴィドリガイロフもドゥーニャに告白したいところがあったのではと、想像します。彼にとってドゥーニャから永遠に愛してもらえないということは、絶望的なことだったのでしょう。だから死を選んだのでしょう。

それに対して、ラスコーリニコフ (ロジオン)には、ソーニャがどこまでも彼を愛し生涯を共にする覚悟でいることが、躊躇しつつもソーニャのまなざしに従ってラスコーリニコフが罪の償いをなした結末と言えます。

生きている以上、愛する相手がまったくいないということ、言い換えると自分が愛している相手から愛してもらえないということが、人間にとってどんなに辛いことかをこの二人を対比させながらドストエフスキーは語り掛けたかったのだろうと思います。

ラスコーリニコフは、最後の場面で警察署内の雰囲気からして逃げ切れると思って、告白を思い留まり警察署を立ち去ろうとしたけれども、警察署の中庭の入り口から遠くないところで真っ青な顔をしたソーニャが祈るような厳しいまなざしでラスコーリニコフを咎めるように見つめていたので、ここで逃げるとソーニャの愛を失うという気持ちが大きく働いたのでしょう。

くどいようですが、彼にとっては逃げようと思えば逃げ切れる状況の中で、良心の呵責があるなしにかかわらず、どうも、愛するソーニャを失いたくないが為に彼女の心に従ったようですね。

「人を殺すことが何故いけないのか?」という疑問よりも、「何故、しらみ同然のような人間を殺してはいけないのか?そうした人間を殺す権利をもつ人間もいるのだ」という具体的課題を持ちかけて主人公を殺人者にしてしまっています。

しかし、ドストエフスキーは、ラスコーリニコフの理論の是非をそのままにして、罰を分かち合うことができる相手がいるということは、人間にとってはとっても幸せなことだという風に感じさせるようエピローグを読めば伝わってきます。

確かに、愛する相手が犯した殺人罪に対しての罰を共に分かち合うことが出来るそんなカップルなんて、そうこの世にいないでしょう。殺人を犯した段階で、恋人同士なら別れてしまうし、夫婦なら離婚も免れないでしょう。(笑)

人殺しの問題は、宗教や法律そして道徳だけでは収まらないものがあります。国家が特定の個人を殺害した場合、不思議にも罪にならないのですから国家の場合は人を殺す権利を有していると言えます。

その国家にとって不利益又は有害な人物は、国家の機関によって超法規的手段でその個人を殺害することが出来ます。

それはマフィアの組織と同じ行動ですね。自分達にとって不都合な相手を抹殺するというあの行為とまったく同じです。ただ、国家の場合は、「正義」という言葉を立て看板にしています。しかし、何が正義かが問題でしょう。

国家が教育で倫理というものを学ばせる時、それが露見してかなりややこしくなります。

ドストエフスキーは当時の国家や権力者が為す個人に対する殺人を含めた弾圧と、個人による論理的な等価行為との違いについて興味深い想いを馳せたに違いありません。

それはさておき、ドゥーニャもソーニャも、まるで同一人物のように思えてならないのは、ドストエフスキーの理想な女性として美しい心をもった女性を彼は望んでいるからでしょう。そういう意味でドストエフスキーはロマンチストですね。

そんな女性はめったにお目に掛かりませんから、まあ、もし、そんな女性がいたら・・・そんな方と一緒になれたら一生幸せというものでしょう。(笑)

ドストエフスキーのひとつの課題である、「しらみ同然の人間は殺されてもいいのだ」と言う、世の中に利益にならないむしろ悪影響を及ぼす人間を殺してもそれは、犯罪とはならないことが、・・・人を殺す正当性として倫理的にどうなのか?という事になってきます。

ドストエフスキーを読む多くの読者の中から、彼に影響された新進作家が小説を発表する時、彼の小説から得たエッセンスの焼き直しみたいな本を後に沢山出しています。

ですから、最近の若い人はドストエフスキーのような熱をもった混沌とした小説よりももっと身近なそして明快な焼き直しの小説を手にしているようです。

そうした類似本がこの世に沢山出ているから、もう、古典は入らないみたいになっています。古典本を読んでいるのは、本当にごく小数民族ですね。(笑)

でも、この本を読み直して改めて考えさせられたのは、「殺人の正当性」ではなく、「相思相愛が生きる意義として強い」ということでした。

この場合の相思相愛は、現世利益を超えたものとして、唯一、人間らしい理想の生き方であると、ドストエフスキーは思ったのだろうか?

逆に考えれば、何故、相思相愛は現世利益を超えることができるのか?それが不思議ですね。

たとえば、夫婦仲にしても相思相愛だとどんなに経済的に苦しい状況に追い詰められても結構辛抱し、苦を共にできるものです。

ところが、そうでなければ経済的理由でいとも簡単に二人は別れるでしょう。それは苦を共にできない理由が単なる経済的要因で押し潰れてしまったからでしょう。

「苦を共にできる」ということは、お互いの信頼感がとても強くなければ出来ない話です。その信頼感というものは突き詰めれば、ただ相手を信じているということで、それは、ある意味で信仰そのものだと思います。

主人公のラスコーリニコフは幸いにも信ずるべき相手がいて、その彼女もまた彼を信じてやまなかったということですね。そんな風に思いました。信じるということがどんなに強いものであるのかを神がいなくても充分に人間同士でそれがあれば生きていくことが出来るということが言いたかったのでしょうか?

現在の日本は経済的危機と言われつつ、一方、庶民はグルメの番組をテレビで見たり健康番組で食べ過ぎによる病気対策を真剣に見たりすることで日々を過ごしています。、そんな優雅な生活では、お互いをそれほど真剣に信じなくても充分生きていけれると思っていたら、大きな自然災害で突然突きつけられるものがあります。それがこのことなのですね。

人間にとっての生き方とは本当に難しいものがあります。

でも、人生においてそうしたことを考えてみることは意味があることでしょう。

自分にそうした信じるべき人間がいるのか?

そして、その相手も自分を信じているのか?

現世利益を超えてお互い、そう信じて行くことができるのか?

そう思うと、ハッとしませんか?

By 大藪光政