書物からの回帰-世界遺産-ヴィース巡礼教会


[ ドイツ/ 世界遺産/ ヴィース巡礼教会 /2011.04.28撮影 ]

七月の終わりに、この本が新書として図書館に入っていたので目に留まりました。

今年の六月に発刊されていたので、ごく最近ですね。

そして、この著者は、2009年に逝去されていますから、二年前です。

もちろん、般若心経を読むのも、松原泰道氏を知るのも初めてです。

夏休みの読書として、ドストエフスキーの「罪と罰」を再読しょうと思って図書館に行ったついでにこの本を手にしたわけですが、こちらの方がすぐに読み終えると判断して「罪と罰」を後回しにしました。

この本の最後には、般若心経の英訳版が載っており、それを読むととてもわかりやすい内容でしたので、難解というイメージがすぐに外れました。

また、著者の松原氏がお書きになった解説は、具体事例を上げての内容でしたのでなおさらわかりやすい。

そして、読めば読むほど池田晶子さんの著書「あたりまえのことばかり」のタイトルではありませんが、本当に当たり前のことが書かれてあるなあ~と思いました。

ところで、この般若心経の呪文がご近所で二軒のところから時々聞こえてくるのに出くわします。

もちろん、お坊さんがお経を唱えに来られているのではありません。定年退職されたそれぞれのご年配方々が唱えられているのです。

最初は、すごいなあ~と思いました。お経を唱えている声が素人としては、様になっていて、そこらの生臭坊主よりも上手いからです。

人も、高齢になると段々達観してあのように救済の道を歩まれるのか?とも思いました。しかし、この本を読んで少し疑念が湧きました。

どうもわからんのです。

この本を読めば般若心経というものは、もっと、若い時に接して学び、かつ、実行しなければならないというのを感じたからです。

人様がやることに対して色々と言うのは余計なことですが、棺おけに片足を突っ込む年頃になって、般若心経を熱唱しても意味がないのでは?と思ったわけです。

つまり、実行しないと意味がないということですね。呪文ばかりを唱えてどうする?と考えてしまいます。

夏盛り、般若心経を唱えているすぐ傍の公園には、日照りが続いてひまわりがぐったりして枯れそうです。夏に強いと思ったひまわりも、一滴の雨も降らなければ生命がもたないですね。

呪文を唱える暇があったら、公園の花に水を掛けてやればよいのに・・・と、勝手に思います。花が水を欲している声が蝉の声とその呪文でかき消されてしまうのかな?とも想像します。

何故、黙々と呪文を唱えるのか?唱えることで何かありがたい事が得れるのか?それを期待するのであれば、現世利益ですね。

無我の境地に入らんとするのか?それであれば、目の前に渇水状態の花をほったらかしての修行になんの意味があるのだろう?

そんなことを思うととても面白くて、ひとりクスクス笑ってしまいました。

嘗て、般若心経ブームがあったみたいですが、般若心経の写経とか、暗誦朗読など老若男女これに嵌った人が多くおられたそうですね。

でも、それを実行した人は果たして何人いたのでしょうか?

さて、この解説本を少し拾い読みして考えて見ます。

「一切の存在はすべて無常・無我で、永遠に不滅なものはなく、また個立できるものもなく、すべて縁によって生滅します。また、事物の中心に核のような不滅なものも存在しない、とするのが、仏教の無実体論の内容です。そして、実体がないという思想が、そのまま空思想でもあるのです。そこで空の内容は、無常・無我・無実体で、その底をつらぬくのが縁起です。縁起と空とは同じ意味になります。空が一切の存在の原理である、と申すゆえんもここにあります。」

と、松原氏は述べておられます。

この辺は、科学の目で考えてみると面白いと思います。

仮説として、「すべての物質は常に変移してその存在が変わらないということはありえない。」と言うことになります。

すると物質自体を、分子、原子と細分化し素粒子まで、現代の科学は追及していますが、そうした究極の素粒子ですら永遠不滅ではなく、変移していくということになります。変移するということは、「作用」という現象を言うのですが、上記の言葉で言えば、「縁起」というところでしょう。

『事物の中心に核のような不滅なものも存在しない』という解釈をどうとるか?

物質は、原子核という中心核で構成されている。これだと科学の目と一見矛盾している。但し、その原子核も分裂は可能だからその核そのものも、確かに不滅ではなく必ず変移しうる。

一時的に、中心核として存在はするが、永遠、絶対的な存在ではない。なんでもそうですが、この世に存在するもので中心たる存在があって安定しているという原理は存在する。それは、物質だけでなく人間社会の世界においても必然的です。

しかし、その中心が永遠かといえば、それはありえないと考えた方が正しいと思えます。

前に書いた、「~本当に当たり前のことが書かれてある~」は、部分的な意味で言ったわけではなく、ひとつひとつを突き詰めようとすると、なかなか難しいものです。(笑)

個々を読んで考えると難しいのですが、全体を読み終えるとなんだか当たり前のことを言っている気がするのです。ホント!

ここで言う仏教の、『無実体論』は、物質が無い!と言うのではなく、物質は存在するが、常に変移していくものであると考えるべきでしょう。変移させる力は「縁起」ですから、作用ですね。そして、ここからが難しいのですが、その作用はどこから来るのか?ということになります。それは、物と物との連関の中で発生すると考えられますが、例えば、マクロ的なところでは重力などがありますし、素粒子間でもそうした力が発生しています。人間社会でいえば、人と人との間での人間関係で発生します。

『無実体論』は、実体はあるが変移すると解釈した方がわかりやすいと思います。これを、物質そのものまで実体がないと言うならば、すべての世界は存在しないことになります。そうだとすれば、この般若心経も存在しないことになり、この般若心経を考えている『私』がいるのは?と変な矛盾が起きますね。

この般若心経の原本があるとすれば、現在の般若心経は、原本とは違ったものに変移していると言っても不思議ではなく、もともと伝えようとした人の考えとは違ったものであったと言っても過言ではないですね。

恐らく、こうしたものを伝えようとした人々の意志作用があって、今日の般若心経が残ったと言えるでしょう。それが縁起というものでしょう。

「~縁起と空とは同じ意味になります~」との解釈についてですが、先程から「縁起」を「作用」と置き換えて考えておりますが、作用というのは決して眼で見ることは出来ません。もちろん、人間の目だけでなく、電子顕微鏡でもみることはできません。つまり、物質としての実体がないということです。しかし、物に影響を与えることが出来るのです。「空」と言うのは、俗に言う「カラ」を指すのではなく、見えないけど在る存在を指すから、同じ意味として捉えられますが、しかし、私としては、ちょっとどうかな?と言ったところがあります。

それは、「~そこで空の内容は、無常・無我・無実体で、その底をつらぬくのが縁起です~」と、言っているので、論理的矛盾があります。

ここでは、空と縁起を分けて説明しています。そして、あとで、『縁起と空とは同じ意味になります』と、言い切っています。つまり、"空=縁起"と言っているのです。何故、同じ意味になるのか?その辺の説明が欠落しています。

あえて、松原氏の言わんとするところを理解するならば、空の内容で最も重要なのが縁起である。つまり、空とは縁起そのものを指していると言っているのでしょうか?

すると縁起とは、人間が例えば、公園の誰のものでもないひまわりに自然体で水をやる行為ではなかろうか?無我の境地に入る為に念仏を唱えることではなく、自然体で愛しい花に水を掛けてあげる行為そのものを縁起といい、人としての為せる作用ではなかろうか?

文中には、後半で『扇子』の話が出てきます。扇子は扇子でないものから出来ている。という話です。これは、面白いと思いました。また、扇子の素材のバランスが整っているからこそ扇子としての存在が成り立つとも言っています。

これは、とても当たり前なことですが、改めてそう言われてみると、身の回りにある日用品だけでも、そうした素材から完成された製品に至るまでの縁起(作用)が、眼には見えませんが存在します。

素材だけを辿ってみても様々な経緯があり、その素材から加工に至っても人の仕事として、巧な技の流れがあり、その扇子のデザインひとつをとっても人の想いが入っています。そして、どんなに立派にパーツが仕上がっても、肝心要の『要』が無いと扇子として使えません。

扇子で般若心経の思想を説明するにはもってこいの譬え話でしょう。そして、松原氏は、『般若の思想とは、この出来上がった扇子ではなくて、扇子にまで出来上がっていくプロセスを重視するのです』と言われています。

過程を重視するのであれば、なおさら、若い時にこの般若思想を学んでおかねばなりません。死ぬ間際に学んでも、プロセスを積んで行く事はできません。

この般若心経の最後には、本当の呪文が出てきます。この部分の英訳は、音だけの表示で済まされています。

「 GATE GATE PARAGATE

PARASAMGATE BODHI SVAHA

PRAJNA PARAMITA-HRDAYA SUTRA 」


無理して翻訳すると解釈で誤解を生じる為だと思います。

だから、日本語訳でも同じことが言えますね。この呪文はやはり、音の響きだけの方がベストでしょう。意味不明の呪文があるのと、そうでないのとは不思議にも重みが違ってきます。

日本人にとっては、すべてがわかるよりもわからない部分を少し残しておいた方が、余韻があって神秘的になります。

その神秘さが人の心を惹きつけるのですね。

余談ですが、システム開発でVBA言語を使ってプログラムを組んでいる時に、難しいオペレーションを実行したい時、事前に、前置きみたいなものを書き込んでおく必要があります。その内容はわからないのですが、それを前置きしておけば、あら不思議!と、素晴らしい動きをしてくれます。

それを、ネットで紹介している人に聞いてみたら、その人もその内容の意味がわからないそうです。それで、その人が、「呪文を唱えればうまく行くのと同じで、呪文だと思えば良いのでは?」と、言われていました。それで成る程なあ~と、妙に感心しました。

般若心経の最後は、最初の人にはわかっていたはずですが・・・あまり難しくて音だけの響きが残ってしまったということでしょうか?(笑)

私のご近所の方は、般若心経を全部呪文として唱えているのかもしれませんね。(笑)

呪文を唱えていればご利益があるということですね。
そして、救われるということですね。

でも、他を救うのなら理解できますが、己を救うのは理解できないですね。何故なら、『救う』と言う言葉は、他人に対して発せられる言葉ですから能動的です。救われるだと、今度は受身ですから誰かに救われるということになりますが、他人は誰しもそう簡単には救ってくれません。(笑)

鶴の恩返しみたいに事前にそうしたおこないをしておけば、救いのお返しはあるでしょう。しかし、他人を一度も救ったことの無い人が晩秋を迎えたころに念仏を唱えて、救って欲しいなんて思うのは厚かましい事です。

これは、今、ご近所の方のことを言っているのではありません。念のため。ご近所の方は、恐らく、若い頃から熱心に人助けをされて、今は無我の境地に入ろうとされて般若心経を唱えられているのだと想像されます。

しかし、世の中、奇特な方もおられて、自分勝手な人に対しても救いの手を差し延べられる方もおられます。

まるで仏様のような方が稀におられますね。

人に対して思いやりの心を持つという仏の教えを知っていても、それが実行できなければ、本当に知っているとは言えないというのは当たり前なことです。

それが、人だけでなくすべてに対して同じように自然に為せるという人は、すでに人間を超えた存在ですね。

そうした超越的精神を持ち、それでもって行動を起こしたら一体どんなに素敵なことが待っているのでしょう。

しかし、素敵なことがあるのを期待するのが、そもそも、現世利益的な心になっているから、本当に生身の人間には出来ない話です。

でも、そうしたことを実験して見るのも面白いことだと思いませんか?

すべてに対して慈しみを持って生きるということを!

すなわち、『縁起(作用)』をすべてにもたらすことを!

己が縁起そのものに生りきるということを!

by 大藪光政