書物からの回帰-ローテンブルグの市庁舎屋上から

[ドイツ / ローテンブルグ城内 市庁舎屋上からの展望]


福沢諭吉が身近に感じられたのは、以前、旅行中に中津の旧家に立ち寄ってからです。 諭吉の屋根裏部屋を見学した時にとても郷愁を覚えました。

「学問のすすめ」は、高校の倫理や日本史でも出てきますが、「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」といった名言で、諭吉と言う人は平等精神をもった人物という認識をもたされました。

あとは、慶応義塾を創設した人物として教えられましたが、よくよく調べると慶応義塾に対する諭吉の貢献度として捉えた方が正しいようです。

「学問のすすめ」というタイトルを聞くと、「勉強しなさい」といった感で受け止めてしまいます。今の小中学生に、『学問』という言葉の意味を伝えるのは難しいですね。

文字通り訳せば、「問うて学ぶ」ということになります。これを生徒が先生に問うて学ぶのか?学ぶべき者が自問自答して独学で学ぶのか?という二つの解釈が出来てしまいます。いずれでも学ぶという行為には違いありません。

では、何を学ぶのか?何の為に学ぶのか?何故、そうしたことを諭吉は勧めるのか?ということになりますね。

そうした見解がこの本に書いてあるわけです。

だから、そういうことに関心のある方はこの本を読めば諭吉の示すところの考えがわかります。

遊びたい人は、「遊びのすすめ」という本があればそれを読めばいいのです。(笑)

でも、そう言ったタイトルの本は無いようですね。

つまり、何故遊ぶのか?何の為に遊ぶのか?何故そうしたことを勧めるのか?と、同様に自問した時、バカバカしくなりますから。(笑)

それは、何故でしょう。

遊ぶということには格別な努力も苦労もないでしょうし、必要なのはそれに応じたお金ぐらいです。

それに対して、学問をやるといった場合は、かなりの努力と苦労、そして、経済的な支えも必要です。だから、誰にでもカンタンにやれるものではありません。それなりの覚悟が要ります。

そうした、大きな負荷が掛かるものに取組むには、それだけのやる気がないと出来ません。"やる気"は、当然モチベーションがないと湧いてきません。

そのモチベーションを決定付けるには、先程の「何を学ぶのか?何の為に学ぶのか?何故、そうしたことを諭吉は勧めるのか?」が、明確になってそれを知ったとき、自分もそうありたいと考えるに至ることが大切です。

それらが不明確な方に、この本の一読を岬龍一郎氏はお勧めなのでしょう。

しかし、すでに学問に励んでおられる方や、諭吉の言う「独立自尊」が出来上がっている方も一度読んでみる価値があります。

僕も独立自尊が出来上がっていると思い込んでいますが・・・(笑)、この本を読んでみると、「なるほど、当時としてはとても革新的な考えを持たれた人物だったのだな」と、改めて、諭吉の斬新さに気付かされます。

この本は、初編からはじまり、第17編までに至っている。しかし、全体を読み終えてみると、後半は悪くはないのですが魅力をあまり感じません。

初編の端書には、「・・・大分県中津に学校を開くにあたり、学問の目的を書いて、同郷の旧い友人にみせるためにこの一冊を編んだ。・・・」と書かれていて、小幡篤次郎との連名で明治四年に記されています。いまから百四十年前のことですね。

小幡篤次郎という人は、同じ中津出身で諭吉の誘いで上京し、慶応義塾長までなられた教育者のようです。

さて、この初編にはいきなり、「身分貧富の差がつくのは学問をしたかどうかにかかっている」という見出しがついています。

つまり、「貧富の差があるのは致し方ない、学問をしたか?しなかったか?の結果がそうだから。」と、言い切っているのです。そうすると、「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」という名言とはまったく矛盾しているように見えますね。

それを何とか論理としてまとめてみると、「天は人の上に人を造り、人の下に人を造る。その振り分けは、人それぞれの学問に対する取り組みの度合いで行われる。」となります。

従って、天は初期設定として「天は人の上に人を造らず、人の下に人を造らず」なのだけれども、人々の学問の取り組み次第によってそういう階差が生じる。だから人々の営みにおいて総和的には平等なのである。ということになりますね。

でも、反論として学問が出来るような経済的家庭に生まれれば、本人次第でしょうがそうでない極貧の家庭だと無理な話ですし、ましてや、犯罪人の子供として生まれれば、学問どころか悪事を学ぶ方に傾きますから、一人の人間としてはやはり天は無常であると思いますね。

諭吉は、人と仕事の関係にも触れています。つまり、役人が偉いのではなく、その公の仕事が尊いのだと。これは、今はそんなことはありませんが、五十年前、僕の父が
歩いていたら、通る人は皆頭を下げていました。

それで、そのことを見て父がとても偉い人だと思って、そのことを尋ねると、父が、にっこり笑って、「いや、お父さんが偉いのではなく、この警察官の制服に皆は頭を下げているのだよ。」言っていたのを今でもしっかりと覚えています。

初編の最後の文章はとても大切なことを述べています。

無学であることが本人とってだけでなく国家の利益を損なうことになると言っているのです。これは本当にそうだと思います。国民が愚民であればあるほど、国家が破滅に向うということは歴史が物語っています。

多くの国民が賢人ばかりだと、法律も緩やかで少なくて済みます。それは、中国の諺の通り、「罪人の数だけ法律がいる。」というのが当てはまりますね。

それから諭吉は、金を貯めることは知っても子孫に教育を残すことを知らないような者、そんな愚民になるなとも言っていますから、かなり教育を鳥瞰的に捉えているのがよくわかります。

つまり、教育は継承が大切と言うことですね。

第二編は、『学問こそ生きる力の源泉である』というタイトルのあとに、『知識の問屋になるな』といった見出しがついています。

初編から、すべての編にはこうしたわかりやすい看板が掲げられていますが、これは諭吉がつけた見出しではなく、岬龍一郎氏がこの現代語訳本を作られる時につけられたのでしょう。つまり、中身の要約を見出しにという計らいでしょう。

こうすればタイトルを見て具体的な諭吉の意見を読もうとする意欲が湧くし、理解度も高まると言うものです。ただ、このタイトルも、How to 的になっていくと段々、諭吉の意見が安っぽくなってしまうものです。

第二編の『知識の問屋になるな』という内容をつかんだ抜書きのような見出しは、諭吉が理論よりも実践を大切にするところから来ているのですが、こうした知識ばかりを詰め込んで実際の行動でそうした知識が生かされていない人というのは、いつの世でもいるものです。

ところで、諭吉の家は裕福ではなかったので、諭吉の教育までは手が届かなかったということが他の伝記の本に書かれています。

諭吉が十二、三歳までは本も読まなければ手習いもしたことが無かったようです。つまり、字が読めなかったということですから、初めて塾に通わせてもらったときは年下の者と一緒にやさしい本から習い始めたと記されています。

でも、負けん気はとても強かったみたいで、そのせいで学力がどんどん伸びたようです。やはり、「負けん気」というのは、大切ですね。

旧家の屋根裏部屋を見学した時は、幼少の頃から勉学に励んでいたと錯覚したのですが、彼がそんなに勉学が遅かったとは驚きです。

そして、貧しい家庭で育っていたから、やはり、貧富の差から起きる不平等な扱いに敏感だったのでしよう。

しかし、その「平等」という言葉の意味を取り違えている人が多いのですが、この本には、ちゃんと「生活が等しい」ということではなく、「人間としての権利」が等しいという意味で説明されています。

さて、肝心の「学問のすすめ」のタイトルに対して、学問に対する具体的な取組み方とかいったことにはまったく触れていないようです。

本居宣長は、学問をやる上において、今風に言えば『効率の良い学びかた』は、特になく、日々こつこつとやるしかないみたいなことを書いていましたね。

だから、諭吉もそうしたことは書かなかったのですね。

諭吉が言いたかったのは、多くの国民が学問をすることでいろいろな考えが発生し、郷土のこと、国のことをしっかりと考えてくれる人が生まれるということでしょう。

そうしたことで、郷土や国が立派に繁栄するという確信があったと思います。

国民ひとりひとりが学問を通して「独立自尊」の精神を養い、ひいては国を守るということの重要性に気付いたのは当時として驚くべき先見性だったと思います。

これを万民に訴える行為に出ただけでも大したものです。

そうした先見性の目を持った諭吉が孔子批判をこの本の中で書いていますが、誤読してはいけないことは、孔子の考えを極小的に捉える当時の世間の学識の貧しさに注意を促したとだけだと思ったほうがいいでしょう。

それは、江戸時代から続いた儒学による硬直した日本人の考えを叱咤する心から発したものです。

孔子の考えは大きな観点から捉えると、そんなに間違ってはないと思います。諭吉は、孔子の「女と小人は扱いがたし」と言ったことを批判しているようですが、これも、その一つでしょう。僕も孔子の意見に同感なのですが・・・(笑)

諭吉は、ちゃんと教えない孔子が悪いみたいなことを言っていたようですが、これも、孔子の時代背景も考えないといけないし・・・でも、今の時代でも、そう言えることが多々ありますね。つまり、女性は「論理」よりも「情」ですから、いろいろな会合で議論した時に、どうしても堂々巡りをしてしまいます。

本人は、「論理」がわかっていても、「でもね」と、「情」が出てきます。

でも、それが女性のいいところかもしれません。

女性が、「論理」よりも「情」を優先したがるのは、母性本能から来るものかもしれません。子育てには論理よりも情が必要ですからそうなるのでしょう。

最近の女性は、結構、勉強されている方もおられますから、「論理」と「情」の両刀遣いだと、とても男は歯が立たないでしょう。

だって、論理は学問すれば身に付きますが、情は学問では身に付きませんからね。

ところで、諭吉さんの考えで、あれっ?思うことがひとつあります。

例の最初の名文句です。「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」です。
よく考えてみるとおかしいですね。何処がおかしいのかといいますと、学問を勧めている諭吉さんが、『天は』という言葉を使っているのです。『天は』の意味は、『神様』を指します。これだけの学識をもってしても、神の存在を持ち出すのです。

孔子や儒学そのものを古い考えだとして、批判した諭吉さんが何故、神の存在を前面に出して、万民にこうしたおふれを説いたのでしょう。

孔子ですら、神と死に関しては決して触れる事はなかったのですから、諭吉さんはちょっとずるいなあ~と思いますね。

恐らく、万民を説得するには、「天は・・・」と言うキャッチフレーズが一番愚民に対して効果があると思っていたのではないでしょうか?

それとも、海外留学でのキリスト教の影響でも受けたのでしょうか?その辺がわかりませんね。そうして考えると諭吉は探求する学者というよりも、先見性をもった上級指導者的存在なのかもしれません。

それにしても立派なのは民間人の身分でそれを広め続けたというのはすごいことですね。政府の役人になることなく、自分のスタンスでそうした活動に取組んだというのは、今の時代でも難しいし、そうした発想自体はとても自由度が高いですね。

やはり大物です。

こうした大物教育者が現在日本にいたら、今の日本の教育と国家を見て何と言うでしょうか?

恐らく、「学校という箱物は沢山あるが、中身が空ではないか!学問をやっていないではないか!」と、怒鳴るに違いありません。

そうです。

日本の教育界には、諭吉の指すところの学問というものがほとんど消滅しているのです。只の腰掛け的なお勉強となってしまっています。


by 大藪光政