[ パリ / ルーブル美術館の庭園にて撮影 ]
建物の中央にトライアングル・ガラスの建物が見えます。
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福津市の図書館における新書購入選定はどのようになっているのだろうか?とふと思ってしまった。
この本を手にしたとき、まだ誰も読んだ形跡の無いきれいな本であった。これは哲学書の書棚にありました。書棚の前で本を手にして最後のページを捲ると昨年の夏に刊行された本でした。
僕は、新刊本を手にするとき大体、前書きとかあとがき、そして著者の略歴と刊行状況をさらっと目を通します。それで本を借りるか否かを最終的に決めます。
もちろん、目次で内容を眺めますが、それだけでは不十分です。せっかく借りたのにはずれだと、いくらただといっても無駄な労力は厭ですからそうします。
塩川徹也氏の経歴を調べてみると、福岡生まれと記載されていました。福岡の何処だろうとふと思いました。歳は僕より丁度五つ上ぐらいですね。こんなことがわかってくると親近感が湧きます。
それで、よし、この本を読んでみようという気になります。(笑)
でも、塩川氏は序章でいきなり『ディシプリン』という言葉を使って述べているので戸惑います。
そこで?となるのです。「-それがディシプリンであろう-」と書いてあるから、『それが』のそれを指すものが前に書いてあるので、『それが』がそれなのでしょうけど(笑)、ちょっとわかりにくい。
念の為、『それが』を書き出してみますと、『学問を修得するために必要な基礎知識とそれを運用する技能』と『目的達成のための手段である方法の複合体』の二つが『ディシプリン』なのですね。
この長たらしい内容をひとつの言葉で表すのだからなんだかわかったようでわかりませんね。不親切な学者だなあ~と思う次第です。
学術論文ならそれでもいいのですが、一般の人に読ませるには無理なところがあります。一般向けに刊行本を出したのならもう少しわかりやすくして欲しいと思うところです。読者をどの程度のレベルの人に合わせるか?によりますがあまり敷居が高いと誰も買ってくれません。(笑)
『ディシプリン』は、英語でdisciplineということであれば、訓練,鍛練,修養; 教練.或いは、訓練法,修業法ということになります。
ここでは、私流に捉えると、学業、学業術と言ったところでしょうか?
別に英語を使わなくて適切な日本語を使えばよいのにと思う気持ちです。
日本語の方が語彙は豊富ですから的確な言葉が選べます。それを英語で言うと著者がどの語彙を指しているのか?時々ボケてわからなくなるときがあります。
そんな調子でしたから、序章を読んでからというものは、この本を後にして、もう一冊借りていた室生犀星の小説でも先に読もうかなと思いました。(笑)
ところが、ここで辛抱して次の第一章を読み始めると途端に面白くなってきました。
序章とは打って変わってわかりやすく興味津々の内容です。
そういうことに気付くと、塩川氏はもっと学者肌を脱ぎ捨てて序章を面白おかしくわかりやすく書けばよかったのに・・・ちょっといかめしすぎる内容だったと感じました。
そうすれば最後まで読めなくても本を買う人がいたのにと思います。でも、そう出来ないところが塩川氏の持ち味かもしれません。
第一章においては、ヨーロッパの伝統的考え方を紹介しています。それは、人間の生活を『活動的生活』と、『観想的生活』に区別する考えがあるとあります。
なるほど、そういう分け方もあるなあ~と思いました。そして、その説明を展開していくのですが、その内容を読むとフランス思想の学者としての狭義の人ではなく、『活動的生活』の意味を実に具体的に説明が出来る方なので感心しました。
たとえば、「仕事の基本的特徴は合目的性にあり、仕事に意味と価値を与えるのは目標なのです。」のところを読めばなんだか、企業における仕事の意味を知り尽くした方の発言みたいですね。
また、その『活動的生活』が孕んでいる第一の問題点として、人間存在の有限性を挙げています。そして次のように畳み込みます。
「人間は、個体としても人類としても、誕生してからある期間生きた後、否応なしに死を迎えます。人生を目的と手段の連関の中で捉え、その意味と価値の根拠を目的の中に求める限り、総体としての人生は、死によって意味を剥奪され、価値を失います。そこから現世を超えるもの、たとえば魂の不死や神の存在への関心と憧憬、つまりは宗教的欲求が生じます。」と続いていきます。
こうなるとワクワクしながら読み続けることが出来ますね。
第二の問題点は、現在と未来の関係を掲げています。その説明においては、次のように現在と未来の関係を述べています。
「活動的生活で人生に意味を与えるのは未来です。こうして受験勉強であれ、老後に備えての貯金であれ、あるいは事業の拡大と利潤の増大を目指す設備投資であれ、目前にあるももの享受を先送りにして、よりよい未来を目指します。未来のために現在を犠牲にする、というのが強すぎれば、担保に入れるのです。そして、これは、自然状態から離脱して社会状態に移行し、文化的生活を営む人類にとっては、事の必然です。」と、現在の切なさというか未来に対する現在のつらい立場を言われています。
なんだか、そう言われると人間は賢くなった為に、逆に己自身を精神的に追い詰めることになっていくのが予感されます。
でもよく考えてみると、未来とは畢竟、現在における仮想の実現構想ですから、現在よりもより良い状況を求めることとか、或いは、このよい状況をずっと維持したいという欲求から未来を想定するのは当たり前です。
元々、未来は仮想ですから実経験の出来ない世界です。仮に、ベストな現在を構築したからといって、必ずしも未来がベストになるという保障はどこにもありません。
それが顕著にあらわれるのが、自然災害による想定外の未来でしょう。どんなに現在を立派に生きていても気が付いたら津波にさらわれてしまった。という未来は想定不可能なことですね。
でも、基本的には現代人はそうしたところがあってもやはり未来に対してビジョンをもって生きていく習性があるから面白いですね。
最後の第三番目は、『他者との交わり』の問題です。
活動的生活においては、当然、社会において組織に組み込まれることもあります。一番良い例がサラリーマンでしょう。つまり、組織の中の歯車になるのですが、ただの歯車ではなく人格をもった歯車だから色々とあるのですね。
その組織の頂点に立つ権力者とその頂点から指示を受ける者との立場の相違における葛藤です。この辺を読んでいくと、人は誰しも他者との交流の中で他者に認められることで生きている甲斐を感じられるということと、もし、指示する立場としての絶対者であっても、その相手がロボットであるとしたら、なんとなくつまらないものになるみたいなことを述べています。
これは指示を受ける相手が生身の人間だからこそ権力者は快感が得られるということでしょう。生身と言う意味は人格を具えているということに他なりませんね。
こんな調子で第二章に入って行ったのですが、どうもこの本は書き下しではなく、今までのお仕事の寄せ集めみたいな内容ですので、話が色々とあって本としてのまとまりはありません。
つまり、分散しているのです。これは読む側にとっては読みづらい感じがします。でも、新聞記事を読む感覚で拾い読みする気楽さで読めばこれもまた楽しいものとなります。
塩川氏のお話を読んでいると、日本人がフランス語を翻訳してパスカルを研究することと、母国語のフランス人がパスカルの思想を研究するとでは、微妙に違ったものになるようですね。それは言葉のもつ本質がお国柄として違うからでしょう。
文中に、「読んだことのない本について考える」というタイトルの記事は面白いですね。題名だけで想像を試みることは読者の皆さんも為されているでしょう。
僕も、本を借りる前にやはり題名に対してのイメージを描きつつ楽しみに本に向かいます。でも、「読んでいない本について堂々と語る方法」という本を紹介してそのことに触れていましたが、まあ、人生のうち出版された本は星の数だけあるのに、読んだ本は手と足の指の数ぐらいですから、それも、ひとつの手法だなあ~と笑って読みました。
この本は、大きくⅠとⅡに分かれているのに後で気付きました。Ⅰの最後は、「自己充足の夢」と題して、ユートピアについて触れています。
無いものねだりの桃源郷の世界ですが、現代のように科学が発達して情報化社会になると、そうしたものは現実的に存在しないものであることがはっきりとしてきます。
しかし、無制限にお金を使うことができれば、それに限りなく近づけることが可能であることを誰しも理解できています。どうしても望み得ないことは己の生命に対する不死でしょう。
ただ本当に自分の思いのままになることが果たして欲望を満たすことになるのか?とても疑問であることに気付きます。そこには自分の思いのままになるということは、安息であり、それが倦怠となりうることが最後のところで説明されています。
この最後のところを読んでいて、ハタと当たり前のことに気付きました。それは、万物がすべて収斂と分散を繰り返しているということです。
たとえば、先程のユートピアは、人間の欲望に対する収斂みたいなところがあって、それが満たされた瞬間、何も無かったかのような・・・つまり、あるべきものが当然あるというところでの欲望の対象と無なりえないものになる。
それを空虚という言葉では適切ではないにしても・・・そうして分散していき、新たに収斂していくものが現れそれがまた分散する。その繰り返しだということですね。従って、私たちの現在の生身は、収斂されたものですが死ぬことによって分解されて分散されていきます。
脳の病である認知症というのも、厳密に言えば心身ともに分散していく症状と捉えることが出来ますね。
こうした例は、他にも色々とあります。例えば、志を抱いた人が集って企業が出来上がり、膨張していく。この膨張はある意味で収斂なのです。そして、企業の倒産つまり、崩壊は分散となっていきます。しかし、分散ではなく、整理倒産、吸収合併、業務提携、といった存続もあります。でも、いずれ分散していくのです。
そうは言っても、現在も尚、倒産せずに長年存続している企業があるではないか?と言われるかもしれませんが、資本主義の世界になってまだ人類の歴史上わずかな時間しか経っていません。
植物の世界でも、微生物の世界でも収斂と分散が繰り広げられて行きますし、この宇宙全体もそういうことの繰り返し現象が起きています。
では、何故分散と収斂を繰り返すのか?という大きな謎が見えてきます。
分散は収斂があっての分散ですし、収斂は分散があるから収斂する目的を立てることが出来ます。分散から収斂に向かう方向性が目的であるとすれば、収斂が終った時点でその目的を達成したことになりますから、あとは、分散するしかないということになります。
では、収斂から分散に移行するときは方向性がなく目的が無いといえるのでしょうか?確かに分散には方向性がなく破局的な無目的性を帯びていますが目的を持って収斂したものが無目的に分散するというのは、あまりに刹那さ過ぎます。
もし、分散というものが無目的に起きるものであれば、何故、そうなるのか?それは、やはり、なんらかの影響を受けての分散であるから収斂したものには必ず何かとの連関があり、その作用を受けての分散なのですから、目的を持った作用の存在があるのでしょう。こうしたことの繰り返しは「縁起」という言葉で表わすことになるのかもしれません。
つまり、この世の存在は「縁起」によって現象が出現しているということになりますね。
さて、話を本に戻しますとパスカルは、今から約400年ぐらい前の人ですが、過去と現在と未来に関して思索を深めた人のようですが、一般の現代人は普段の生活に埋没してそうした思索を試みる人は殆んどいませんね。
そうした課題は、解けるはずが無いのです。人類の歴史が過去であり、これから過去を作るために、今があるのですが、その今も刻々と過去になっていき、常に未来に向かって時間と共に人類は突き進んでいます。そして、それもまたひとつの収斂であって、いつの日か分散する日が必ずやってくるでしょう。
でも、現在の中に過去と未来が表裏として存在している気がします。
過去にとって現在は未来であり、未来にとって現在は過去でもありますから、とても、時間と言うものは面白い存在ですね。本当に時間と言うものが定量的に存在するものでしょうか?これも疑問のひとつです。
体積というのは三次元ですが体積を圧縮することが出来ます。つまり、体積内の物質を分散から収斂させるということですが、それをある程度行うとその体積は小さくなり、その密度は逆に大きくなります。結果として体積比と質量の相関が保たれます。
では、もし、時間を圧縮することができれば、何が起きるのか?
宇宙は、ビッグバンつまり、宇宙の始まりがあって現在なお膨張し続けているというのが最近の宇宙科学の定説になっていますが、この場合の膨張は一見、分散しているみたいですね。
そうであれば宇宙の始まりはすでに収斂したものが分散を始めたということになります。
そうだとすれば、無目的に広がっていく感じです。そうではなく、この膨張を分散とは考えず収斂して行っていると考えると、今度は、最初が分散していたということになり、ひとつの点から発生したとは考えられません。これも不思議なことです。
時間を圧縮するということは、ビッグバンの初期設定に戻すということでしょうか?
「時間を圧縮するとは、どういうことを指すのか?」が、わかっていないと、先に進めませんね。(笑)
なんだか支離滅裂になりましたが、録画したものを早送りするという問題ではありません。
時間そのものを圧縮する話ですからとても想像を絶する世界です。
時間が定量的に計れるという人類の持つ科学は、本当は人類の錯覚なのかもしれません。
by 大藪光政