[ 別府鉄輪温泉 湯煙の立つ 夜明け 遠方に杵築城 ]
この本が出版されたのを知ったのは、10月末頃でしたか?そのタイトルに関心を抱いたのは、 『池田晶子』 さんの名前が入っていたのと、池田さんの書物 (人生は愉快だ) におけるシュタイナー批判を知っていたからだ。
池田さんの名前をタイトルに入れることで、本の売り上げを狙う意図もあるのでは?という、いらぬ詮索もあり、この本が偽物か本物か?の真偽も確認したいという野次馬的な気持ちがあったことは否めない。
それで、早速、この本を図書館に依頼して手にして読み終えた後、この書評を書くべきか?少し迷った。その迷いは、シュタイナーについてはわからないことが多々あるということだ。かといって、今まで書いた作家についても、 『わからない』 部分が沢山あるのはみな同じである。
では、同じ 『わからない人』 で、どうして躊躇してしまうのか?と言うと、彼の感覚が我々のような凡人の感覚を超越しているからだ。つまり、彼は神 (或いはサムシング・グレート) の領域を知ってしまったかのように『霊』 に対する認識があるからだ。
私事であるが、実は、私の一番上の兄は、この 『霊』 を深く信じていた。私が三十歳の頃、この 『霊』 を固く信じている兄を科学的論法で罵倒したことがある。その歳(四十歳頃)になって、まだそんな阿呆なことを言っているのかと批判したことがあります。
しかし、兄は何も宗教心から言っているのではなく、兄の超越した感覚から言っていたのだと言うことが、ようやく、最近になってわかって来た。兄は、とても、感覚が鋭く、絵を描かせるととてつもない才能を有していたことは、兄弟のお世辞を抜いてもそうだったと思う。それは、絵画という芸術に限らず、柔道、空手、棒術、あらゆる武道に取り組んでも、それをひとつの美学に仕立て上げていく人だった。それができる人は稀だと思う。
そして、友人には年齢を問わず兄を慕う人がおり、その慕われ方はかなりのものだったと思います。つまり、人を惹きつける何かを持っていたのでしょう。兄の葬儀のときは、小学校時代の幼友達から小さな門下生まで幅広い人が立ち会ったのは、まさしく、それを物語っていました。
あるとき、中国人の姿をした人形を、二人で鉛筆デッサンをしたとき、私が描いたのは忠実な人形でしたが、兄が描いたものは、不思議にも魂を有した人間だったので、かなわないなあ~とつくづく思ったことがあります。
さて、この本について読んでいくと、最初の驚きとして、これは、文献コレクターが蒐集した作品であることに気付かされたことです。なんと、多くの本を丁寧に読んで、引用文をきちんと引っ張り出して並べてあるのだろう!とつくづく感心致しました。
塚田氏のお仕事が学業とは、一見掛け離れていたので、面白い方だなあ~とは思いましたが、流石は、翻訳業をされている方は、読書量が違うなあ~と感じ入った次第です。塚田氏のこうしたご自身の経緯を知りませんので、なんとも言えませんが、こうした道に入ったのもそれなりの大きな思いがあったからでしょう。
池田さんをはじめとした各著名人の引用文には、かなり教えてもらうところが多々あり、とても参考になりました。そして、私の無学さが益々わかって来た次第で、少し、ため息をつきました。
ただ、最初の頃の読み出だしでは、やや不満はありました。それは、引用が多くて、塚田氏の考えが見えなかったからです。それと、どちらかというと、難解さは感じられないが、なんとなく、こわかりがしないというところが気に入りませんでした。池田晶子さんに敬意を払うのであれば、池田流の明快さでもって読者に訴えるべきだと思ったりして、その点が気になるところでした。
教えるということには、相手にわからしめるという目的がありますが、その手法としては、とことんわかりやすく説明する方法と、わざと、難しく言って相手に深く考えさせるという二つの手法がありますが、前者の場合、己自身が、深く理解していないと平たい言葉で説明するのは不可能です。後者の場合は、相手のレベルを見極めて、しかも、相手がそれだけ熟慮するタイプなのかを知っていないといけません。だから、一般的、不特定の読者に対しては、やはり、前者をとるべきではないかと思います。何と言っても、読者はお金を払って本を買っているのだから、親切にするべきでしょう。私は払っていませんので後者になりますけど。(笑)
この本の半ばからは、塚田氏の言わんとすることが前面に出てきたので面白かったですが、塚田氏は何故か?多くの池田さんの文章を引用しつつも、池田さんが 『人生は愉快だ』 で語った「・・・『違反』だ・・・それは、ズルイじゃないかという感じに、どうしてもなるであろう」と、シュタイナー批判をしているとても大事なところをどうして取り上げて、それについての塚田氏の見解を述べないのだろうか?と疑問を抱いた。
池田さんの本を私よりずっと精読された塚田氏の姿勢からすると、それは不自然で、むしろ、それを避けているかのように思えてならない。
この本は、池田さんだけでなく、巻末に掲げてある膨大な引用・参考文献を見ればわかるように、これだけの引用文の濃縮エキスを読まされると、お腹の調子も変になる。でも、私の知らなかった上田閑照やとくに西谷啓治の言っていることには、大変興味を持ち勉強になりました。
中学校の頃、友達が蝶のコレクションを持っていると言っていたので、どうせ、夏休みの昆虫採集より、ちょっと毛の生えた程度だろうと、高を括って友人宅へ行ったら、圧倒されて驚いてしまった。なんと、そこには見たこともない無数の日本だけでなく、世界の蝶が針に刺されてきちんと分類されてあったのだ。それは、この世に存在する蝶のすべてがそこに凝縮されているかのような凄みが感じられました。もちろん、親子で蒐集していたのですが、それは大学の研究者レベルでした。そこで、初めて収集家の執念というものを知りました。
塚田氏の本を読んでいる時、何故か、ふと、そんな過去の回想をしてしまいました。
だから、困ったことには、シュタイナーから読む池田晶子というタイトルなのに、この本を読んでも池田晶子さんに関する新しい発見はなく、( 池田発言の想い出が、そこにあったので、懐かしかったけれども・・・) むしろ、他のコレクションに目が行ってしまった気がします。これは、不満と言えば不満なことですね。
さて、話は、シュタイナーに戻りますが、この本の117ページに、人間の構成要素という分類と言ってよいのか?分析と言ってよいのか? 『体』、『魂』、『霊』という横のカテゴリーと肉体という縦のキーワード展開をしたひとつの表があります。これを見て、おや?と思ってしまった。
こうした区分による分析は、ある意味で科学で言う、定性分析みたいなもので、シュタイナーが説くところのものが、こんな風に、意図も簡単にスパッと区分されるものだろうか?という疑問であった。
もちろん、説く側にとっては、わからせるための用意されたひと苦労の図式かもしれませんが、哲学者や、禅の賢者であれば、絶句の世界でしょう。
こうしたことが腑に落ちないのです。こんな表を出すから、誤解されるのだと。手法は、科学的だが、出てきたのは、非科学的な内容だからです。122ページの構成要素の比較表も、しかり、ですね。
それから、もうひとつ気付いたのは、『心』 という言葉がないのです。ここでは、『魂』 と、『心』 は、同じ扱いとなっているようです。これも、いささか問題です。塚田氏が言うように、池田さんの文章の中において 『魂』 と 『心』 の言葉の運用において揺らぎがあることは、私もどこかで述べた記憶があります。そうした、指摘があるのに同一にしてしまうのはおかしいのではと思います。私のブログ 『考えて考える人』 (怠けて殆んど書いていませんが・・・笑い) に措いても、その問題を考えたことがあります。これを書くと長くなりますから、ここでは、割愛させていただきます。
ここで、もうひとつ再確認したことがあります。それは、以前、シュタイナーの本を読んだ時、『エーテル体』 という言葉に違和感を抱いていました。しかし、この表を眺めていて、今回、うまく言葉に言い表せないですが、この意味がなんとなくわかってきました。( エーテルとは光<電磁波>の媒質として考えられた、空想上の物質的存在で、アインシュタインが相対性理論を発表するときに、エーテルの存在を抹殺した・・つまり、エーテル体という言葉がまずかったのですね。) 大変なことをシュタイナーは、感づいているのだと言うことがおもむろにわかってきました。このことを説明するのは大変なので省きます。
あと、一番問題なのが、やはり、『霊』 の意味するところでしょう。塚田氏には、この『霊』 の意味するところの解説が欠落しています。そして、いきなり、『霊』 が現れています。『霊』 とは何か?この定義付けが厳格になされていません。そこが問題なのです。わからないことをさておいてそれがあるかのようにして次々と論理を組んでいくのは、非科学というものです。 わからものをわかるように追求するのが科学であり、わからないものをわからないものとして、達観するのが宗教や東洋哲学なのでしょうから、ここで、さも、わかったように分析表を出すから、科学者に突っ込まれるのです。
だから、難しい言葉、すなわち記号で表せばよかったのにと思います。それがわかる方だけの記号にすれば!よかったのに・・・そこがまずかったのでは?と思います。
このブログを書いている時、朝刊で連載されている漢字の語源の記事で 『障害者』 を 『障碍者』 として欲しいという意見を言われている方の話を読みました。なるほど、身体に不自由されている方が、害を及ぼすとか、害されているといった加害者か被害者みたいなものの見方をされてはたまらないというお気持ちなのが良くわかります。これは、身体的に苦労されている方のお気持ちとしては、その方しかわからないことです。
また、その日、偶然にもテレビを見ていると、顔面の半分に大きな痣が出来ている女性の方が出演されていて、自分の罪でもない自分の背負った運命に対して、社会と向き合う姿勢を持った生き方をされている話を聞きました。
目を背けたくなるような顔をしているその人が、その顔をわざわざ学校を訪問して生徒の前にさらけ出すことで、生徒に理解と共感を得ようとして前向きなのを聞くと、人は、見かけで判断してはいけないと思いつつも、実際は、やはり、身体の問題が如何に世の中で重要視されているかがわかります。
そして、その夜、今度はNHKで 『ジストニア』 という脳神経の難病に罹ったピアニスト/レオン・フライシャーという人の話を聞きました。その方も、日常は何でもないのですが、ピアノを弾こうとすると指の筋肉が引き攣って、ピアノが弾けなくなってしまって、それを克服することにおいて音楽家としてかなりの遠回りをされたということです。
何故か?同じ日に、身体と人生、つまり、『肉体と人の生き方』 について気付かされたのは、私にとって何らかの啓示を受けたかのような気がしました。健康な人にとって肉体に不自由がないのは、ごく当たり前なのですが、そうした身体に運命的にも問題が生じてしまった人にとっては、大変なことなのですね。
そういう方にとっては、『魂』 とか 『霊』 とかそんなこと以前の切実な問題が 『肉体』 なのですね。そう思うと、今までのブログを書く私がなんと贅沢な想いに耽っているのだろうと気付かされると同時に、問題解決には、やはり、心の持ち具合が大切だということを再認識しました。
話を元に戻しますとシュタイナーが、超越した直覚で科学では解明できそうもない世界に気付いた時、それは、シュタイナーにしか感づけない世界だったと思います。しかし、それを、やはり、他の人にも分かち合えたいという願望を持つのは人間の性でしょう。
この 『霊』 というものが、存在するとした時、“ある人”の霊は、“ある人”が死んでも、“ある人”の霊は不滅なのだろうか?でも、それは矛盾を含んでいる。、人類が現れる前は、人類の霊は少なくとも存在しなかったはずだ。それでも、人類が出現してから霊が存在したのだと言っても、人類が滅亡したら、少なくともその霊も消えてなくなるはずだ。これをどう説明する?
宇宙が誕生する以前から存在しているなんて言う人もいるかもしれない。
霊って変容しやすい物質と同様なのだろうか?
そうした謎が次々に湧き起こる。
こうしたことを、うまく説明するには、エネルギー保存の法則みたいなものでもって説明するしかない。つまり、すべては・・・物質も心も魂も霊も、変容したり平衡したりしていくだけで、宇宙のトータルは常に一定で普遍であると想定することだ。そう考えないとやりきれません。
『霊』 というものが何であるかはわかりませんが、それがあるとしても、それもいつかは変容していくものであることを否定することはできないようです。何故、すべての世界は変容していくのか?と、問われると、それはもう、絶句の世界でしょう。
シュタイナーしかわかりえないことを伝承していくこと、或いは継承していくことも、すなわち、色々とそのときの人々の行動の中で変容していくに違いありません。それは、イエスキリスト、仏陀がそうであったように、今日の宗教界が、聖人の教えとは掛け離れていっているとしか思えない今日を見ても言えることです。
だから、大切なのは、そうした超感覚を持った人を蔑視するのは、間違いですね。また、そうしたことに気付かされたら、その時は素直に受け入れたらよいのだと思います。ただ、自分が知ったからと言って、他のわからない人に押し売りするのはよくありませんね。
それを体得したら、黙ってそれを生活において実践すればよいのだと思います。
シュタイナーの思想を踏まえて、さらに彼を超えた新しい世界を発見すれば、それは、考えてみただけでも楽しいことでしょう。
あの世に行った?・・・ 『霊』 に関心を抱いた兄へ!
「兄さん、僕って、少しは兄さんのことがわかるようになったでしょう?」
by 大藪光政