トルストイの 『復活』 を読み終えようとした頃、図書館の哲学書の書棚にてこの本を見つけた。巻末の竹内整一氏による後記の説明では、西村氏は平成十二年に肝不全にて他界されたとのことです。西村氏は、昭和21年生まれのようですから、お亡くなりになったのは五十四歳ぐらいですね。私の父もその齢で他界しました。今の時代では、まだまだこれからご活躍されることだったと思います。
この本のタイトルが、『日本人の知』 ということだったので、どういったことが書いてあるのか興味津々で手にしましたが、最初が、いきなり 『道元の知の位相』 と題した内容だったので面食らいました。道元の 『正法眼蔵』 は、読んだことがまだ一度もありません。
以前、東芝の西田厚聡社長が、この 『正法眼蔵』 を読み親しんでいるということを知ったことがあります。西田氏は、東芝で半導体部門や原子力発電の分野を重視して経営資源をかなり注がれたようですが、HD―DVD事業ではソニーや松下のブルーレイ陣営に負け、撤退を余儀なくされて、佐々木則夫副社長へとバトンタッチされている。『正法眼蔵』 を愛読された方でも、時流に乗ることは難しいようだ。
この 『道元の知の位相』 は、西村氏が二十九歳のときに書かれているから、驚きだ。人生経験がまだまだこれからだという状況でよくもこうした難解な書物を相手にできるものだと感心する。道元に関することでは、後の 『正法眼蔵は、行じなければわからないか』 の方が、なんとなく文章に魅力を感じた。そもそも、こうした道元のいわんとすることを理解するには、禅宗としての修行がいるのではと思ってみないわけではないが、哲学として道元の言質を捉えて行くのか、宗教として受け止めていくのか?その辺がどうも妙である。
この本が、哲学のジャンルに図書館で分類されているところを見ると、宗教読本ではないというのが一般的な捉え方なのかもしれないが、非論理的なものを論理的に納得させるような解説本でもないようで、道元の 『正法眼蔵』 を読んでもいない浅学の私にとっては、まったくお話にはなりませんから、ただぼんやりと受け止めるしかないようだ。
愚痴を言わせて貰うとすれば、どれだけの人々が、こうした道元の 『正法眼蔵』 を正面きって理解されているのか、その数を知りたくもなる。でも、この福間のちっぽけな田舎町の図書館にも、こうした道元に関する論文集の本が書棚に飾ってあるのだから、恐らく、わかる方がこの本を取り寄せたのだと思われる。だから全国レベルでは結構理解者がおられるに違いない。
物事はかならずしも言葉では言い尽くせない。それを言葉で書くということは、リスクとして読む相手によって受け止め方も当然違ってくる。ましてや、今日使われていない言語の文章を、現代の人が知ろうとしたとき日本人でありながら翻訳がいる。しかし、その翻訳者の受け止め方次第で、また原書の意味も変わってくるからやっかいだ。
だが、一番大切なこととして、我々は生きている存在の進行形であるから、もし、道元のいわんとするところが、今日、我々のこれからの生き方になんらかの影響を与えるような暗示させるものがあるとすれば、それをよく汲み取り、それを糧にすべきか?否か?の機会を持つような心掛けは必要かも知れない。それが生活の知恵というものだろう。
道元が開いたと言う曹洞宗に、永平寺というお寺があるが、その第78世貫首に昨年お亡くなりになられた宮崎 奕保という方がおられて、たまたまこの間NHKの収録番組を観る機会があった。百歳を越えてかくしゃくとした発言には驚かされたが、その中で、おおっ!と思うことがあった。
それは、正岡子規の 「病牀六尺」 という本から 「人間はいつ死んでもいいと思うのが悟りだと思っておった。ところがそれは間違いやった。平気で生きておることが悟りやった。」 と、悟りについて触れておられる。確かにいつ死んでもいいという心境は、大病の経験を持つ人には、結構そうした心構えができている。
でも、日常を平気で生きていくというのは、誰にとっても大変難しい。ところが、大物政治家は、他の政党又は、他の派閥からの突っ込みや色々な世間の批判、そして司直の追及にも、平然とした顔をしている。決して動じず、平気な顔で生きている。だから、すぐれた政治家こそ悟りの境地になっているのかもしれない。だが、顔と心が裏腹だとすれば、きっと悪人こそ救われるのだと嘯いているに違いない。
もうひとつ、面白い発言が、「道元禅師様の坐禅ということはすべてがみな禅だ。禅というたら、何か殊更にあるように思っておるそうではなくて、そのものと一つになっていくことが禅だから、歩いたら歩いた禅、しゃべったらしゃべったで、しゃべることが禅だスリッパを脱ぐのも坐禅の姿や・・・」 と、行為そのものに迫ることが禅である。という話はなかなか面白い。
同世代の中では、今の私は結構、自由な身だと思う。( 時間に限って ) だから、自分で都合のつく自由な時間を使って、色々と、町内会で関わりを持つ。最近、何故そうした身近な人たちと関わりを持つのかといえば、齢を考えると、身近だと体力的にも動くのに楽だし便宜性もよいからである。
日本人は、世界的な長寿国だから、この先、ひょっとすると、あと40年は、生きるかもしれない。だのに、もう、世間並みの人生経験は済ませている。このあと40年間も生きるとなると、その長い時間をどう過ごすか?大きな課題である。そこで、丁度、自分が最長寿を迎えることを想定して、自分よりも若い諸君と自分よりもご年配の方々とをそれぞれ均等にお付き合いしながら、本ばかり読まずに、そうした人たちと接することで教えを乞うのも面白いなと思った。
だから手始めとして、まだ、年齢的に早すぎる五十代でのシニアクラブへの入会 ( これは、二年前で、諸先輩方は、皆、ひとまわり以上の大先輩) 苦手なソフトボールの練習参加。(これは、三十代の方とのお付き合い) 次に、一見そう面白くもないようで、やってみると難しいシニアがやるグランドゴルフ。(これも入ってみると、超高齢の方々ですが、なかなかお元気な方ばかり。コンペと、飲食を楽しむ) 公園をきれいにするための会の設立。(これは、ご近所との交流) そして、非営利としての塾の開設。(かなり若い世代との対話ができる場所です) そうそう、この間は私が紹介したソプラノ歌手の先生が指導するコーラス同好会の見学。( これは、音楽家とのお付き合い)・・・そしたら、一緒に腹式呼吸の発声練習をさせられてしました。(笑)
しかし、このようなことを書くと、「大藪はついに陸沈したか!」 と、思われるに違いない。だが、陸沈して市井の人びとの中に溶け込むのは、意外とカンタンなようで難しいことにも気付くし、頭でっかちにはならないからそれはそれで大切だと思う。
こうして我を振り返ってみると、昨今如何に自分が多くの禅を修行しているかと思ってしまう。お付き合いする人と、どこまで、一体となれるか?これは、とても大変です。だが、 『行』 を難しいとか、大変だと思うこと自体が未熟なのかもしれない。平気な心構えで過ごすことが出来ればしめたものだ。
ところが、小学校二年生の子供から、八十歳を超える長老の方までの幅広い人たちと正面切って付き合うと、必ず一筋縄では行かずに色々とある。自由な気持ちで取り組んだはずなのに、自分の想い描くような結果には決してならない。むしろ、平気でいられないことが多いい。こちらが良かれと思っていたことも、それは、自分だけがそう思っているだけで、他者はそうではないのである。
こうして、私の日々の活動をそれぞれ一つ一つ禅としての修行と捉えれば、成程、理屈だけではわからないものだと合点がいく。しかし、損得を抜きにしても平気で生きていくことは難しいから困ったものだ。子供の些細なことでも、気が滅入るし、理不尽なことを言う相手とぶつかっても気が滅入る。とてもとても、平気で生きてはおれないものだ。
お寺にこもってひたすら坐禅することは、俗世界とのわずらわしさがなくて、そちらの方が、カンタンなのではと、逆に思うところですが、じっとしておれない私にとっては、まだまだ、頻繁に俗世間の中で色々な形を変えた禅との格闘をした方がまだましではないか。
信仰というものが、布教活動や宗門の組織づくりにあらず、ひたすら 『只管打坐』 することという道元の教えには好感が持てるが、はて、この世に生まれて、寺にこもり、ひたすら、坐禅三昧をして一生を終えるというのも、非情な世界ではないか?とも思ってしまいます。
日本の 『知』 を西村氏が書き貫く次の相手は、親鸞だった。親鸞は、誰でも知っているように、善人が往生出来るのであれば、ましては、悪人はなおさらであるという捨て台詞が有名だ。しかし、これには、解釈が色々あるようだが、まっすぐ受け止めればそのようになる。
親鸞という人は、結構、わがままな僧侶だと思う。言い換えれば、形式にとらわれず自分に素直に生きた人物のようだ。その為か、為政者には快く思われず、かなり嫌われたようだ。しかるに、相当なプレッシャーとストレスがあったに違いない。だから、僧侶にしては短命だったのか?著者は、親鸞と釈迦との相似性を書き出しているが、要は、宗教における組織悪と、つまらぬ布教活動に専念することを戒めている根拠を書き記しているように受け止められる。そうしたところは、昨今の宗教団体にとっては耳の痛いところであろう。
次の 『日本人の良心論』 においては、「往生者と慈悲をめぐって」と、付け加えられてあるが、ここの章は、著者の思うところがよく書かれている。
『日本人の良心』 というものは、こうした神仏のような宗教による教えの以前から、日本人の良心はあったはずである。いや、人類が誕生した時から備わっていたものだと考えるべきだろう。そして、人類に限らず、動物にも備わっているものだと考えた方が自然である。 それは、『良心』 という言葉の解釈を言葉で表現しょうとすると、うなぎのように逃げてしまう。 『慈悲』 と 『良心』 この違いは何か?現代の私たちから見た視点では、人の 『おもいやり』 機能には、生まれ持った不思議な機軸がある。人生の都度において善悪の判断や行為で心が迷った時の帰還機能、それが 『良心』 だと思う。
だが、人はこう言うであろう。「いや、良心など持たない人間がこの世には沢山いる。」と、反論される。そうなると、人間性善説か、性悪説か?となるところであるが、人間が生まれたときには、動物と同じく、自然が用意した 『良心』 という機能を具えていると思う。それが、喪失してしまうのは、あまりにも酷な環境にさらされた時、その機能が破壊され欠落してしまった人間になると考えた方が納得できる。
酷な環境とは、おそらく、 『良心』 という機能を外さないと生きていけない環境を指す。しかし、それでも、「普通の家庭で育っても、大変な事件を引き起こす子供がいる。」と、人は言うであろう。その反論として、生まれたとき身体が奇形で生まれて来る赤ちゃんがいるのと同じで、心が奇形のまま生まれて来ることがあっても不思議ではないといえる。
『慈悲』 は、自他を同一化する行為である。他人を慈しむという行為は、他人を愛するということでもあるし、裏返すと、自己愛にも通じる。他人=自己である境地に立てばそうなる。こうした行為は無意識に出てきたものが、真実の 『慈悲』 だろう。意図的にでれば、必ず駆け引き的な打算が先走る。
だから、無意識に出てくる 『慈悲』 とは、潜在的な 『おもいやり』 機能であるから 『良心』 に他ならない。これは、何故、そういう機能があるのかといえば、やはり、種の保存と言う意味で自分だけでなく他も守ることが種族の防衛に繋がるから、最終的には個としてではなく、集団としての防衛本能から来ているのかもしれない。
やはり、有機物の自然は、生き残る戦略の中で、強かにも 『良心』 というコアを埋め込んでいるからすごい。ということは、 『良心』 というコアを喪失してしまったものは滅びるしかないのだろう。だから、人類から 『良心』 を喪失させたらもう滅びるしかない。
世の中には、そうしたコアを持ち合わせながら、上手に偽装して一事を凌いだりする者がいるのだが、結末は、哀れなことになっているのが世の常だと思う。
この本のⅣ章「知と風土」には、東歌・防人の歌の世界というのが中ごろに出てくる。この本を最初にパラパラとめくった時に、おやと思ったのがこの章である。なんとなくピンと来ないものがあった。ついでに言わせて貰うと、『常陸国風土記』 論もそうである。でも、著者が東大を出て茨城大学の教授としてそこに居住されていたことを思うと合点がいく。そして、この本が 「日本人にとってのひとつの 『知』 の民俗学」であることに後で気付いた。
ここでは、中国から漢字や思想などが輸入される前後における日本人の知の変貌を垣間見ることができるが、防人の歌とかいったものは、日本人古来の心模様として今の我々にも何故か心に響くものがある。今日で言えば、父親の単身赴任であろう。こうした文章に触れると、若い頃と違って妙に受け入れやすくなっている自分に気付く。やはり、年の功というものか?ここに掲載されている万葉集も実に、懐かしいものとして身に迫る。不思議である。いつか、こうした歌集をじっくり眺める時間を持ちたいという気持ちにさせられた。理屈ではない 『情』 の世界を楽しみたい。
最後の章は、「Ⅴ知と死」 である。武士道としての 『葉隠』 を取り上げてある。『葉隠』 は、三島由紀夫が取り上げた書物であったので、学生の頃からその存在は知っている。鍋島藩は、現在の佐賀県であるから隣町的な感じがするから親しみが湧きそうだが、この書物は毒がありそうで距離をおいていた。実際は、そうでもないらしいが、やや、偏ったイメージから抜けることができずそのままでいる。
武士という立場が如何なるものかを極めようとしたものであるのには間違いない。武士もひとつの職業であるが、人を切り殺すか切り殺されるかの極限値に遭遇する非情な世界を抱えている。むろん、平安な時代と戦国時代とでは武士の心構えも随分と違っていたであろう。が、しかし、いざとなるとそうした覚悟がいる職業である。
こうした特殊な職業における人間形成に、『葉隠』 という思想が生まれたのは、果たして喜ばしいことなのであろうか?また、こうした非情な世界での 『知』 も、日本人が持つべき 『知』 であろうか?思想には、普遍性がなければいずれ消滅するはずであるが、今日まだ、取り上げられるところを見ると、武士という職業を飛び越えた普遍的なものの考え方が魅力として残っているのであろう。
しかし、主従関係にも必ず現世利益が働いている。どんなに純粋な武士道の理論が出来上がっていたとしても、生身の人間がどこまで、そうしたものに従って生きていくかは甚だ疑問である。森鴎外における『興津弥五右衛門の遺書』 のような主従関係が築かれるのは稀であろう。自然界の中で、武士道精神そのものは矛盾を抱えているのだから、あまり深く追求しても意味がないように思えてならない。
せめて、自分が従事している仕事を深く見詰めなおす気合として、「武士道と云は、死ぬ事と見付けたり」 を思い浮かべるに留めるのがベストなのかもしれない。
「生死ということ」 について、西村氏は釈迦の言葉や道元の言葉を引用しつつ論を展開しているが、やはり、『生死』 を語ることは難しい。この章は、昭和五十九年頃の集英社からの出典である。だから、まだ、三十八歳の頃の書ということになる。ここには面白い、次のような西村氏の言い回しがある。
「いちばん生き生きと生を楽しんでいるときは、いちばん生き生きと死んでいる。死の助力と加担がなければ、生は生としてそもそも存在できない。もちろん死もまた、生を通じてしか自らをあらわすことができない。生も死も単独では存在しない。だから、きっすいの生などは無いのであり、したがってきっすいの死も無いのだ。生死は相関し、相関という語は空語ではない。生のはてに死があるのではない。生が無くなれば死がのこるでなく、生が無くなると死も無くなるのである。『生死のはて』 とは、正確な表現であると思われる。」
ここでは、『生が無くなれば死がのこるでなく、生が無くなると死も無くなるのである』 という言い回しが誠に面白い。これは、生がある故に死もあるというごく当たり前のことを表現している。
人は、自分の生について無意識にも当たり前として受け止めている。また、これから確実に予定されている己の死についても、普段はあまり考えないものだ。たとえば、医者から、『あなたの病名は癌です。余命幾ばくかです。覚悟してください。』 などと言われると、どう覚悟してよいのか戸惑うだろう。多くの患者は、あとわずかの我が命に対して信じたくない気持ちでしょう。そして、否応でも自分の死についての一考はするでしょう。
人は、遅かれ早かれ、癌に掛からずとも死ぬものだという当たり前のことを知っていたとしても、やはり何故、癌などに掛かってしまったのか?そして、どうしても助からないのだろうか?まだ、死ぬには早すぎるなどと思うだろう。しかし、そうした個の考えとは裏腹に、死ぬべき時にはきちんと死がやって来る。それは、生きていることによる必然性である。
人の死は、肉体の活動停止で決まってしまう。『生とは何か?死とは何か?』 と、ごちゃごちゃ考えることができるような精神状態がたとえ昨日まであったとしても、肉体の活動停止が精神の活動停止となる。物質としての死体だけが残骸として一旦留まり、そして最後は、他の物質へと転生していく。魂が残るか否かは、想像を絶する。
しかし、こうした本を書き記した足跡は依然として残ったままである。
日本人の知を探求することばかりが、西村氏の人生のすべてではなかったと思うが、ひとりの学者が、静かに消えていき、また、その意志を継いで学究に尽くす人もおられるだろう。そう思うと、なんと地味な静かな人生だろう。でも、その人にとっては愉しい良き人生だったに違いない。
by 大藪光政