書物からの回帰-盆過ぎの花


図書館の哲学の書棚を見ると、池田さんの見慣れない題目の本が一冊あった。手に取ると、「死んでからも本は出る!」と、宣伝していた毎日新聞社からの出版本だった。池田さんがお亡くなりになってからも本が数冊出たのは知っているし、手にしたこともある。しかし、この本は昨年に出た本であったが、見掛けるのは初めてであった。


タイトルは、「人生は愉快だ」となっているが、果たして誰が勝手に付けたのだろう。この本の構成は、世界のフィロソフィーの著名人について感想を述べたものと、場違いではあるが「人生相談」、そして、「人生の味わい」と称した本人の文筆活動上の裏話としてのエッセーが入っている。


第一章の「死を問う人々 ― 語り、騙り、物語る」に引用された哲人は古今東西の颯爽たるメンバーである。どれもこれも読んでいて大変面白く、退屈しない。池田さんのよいところは、哲学をひらたい言葉で解きほぐしているところだが、それでも、難解な形而上のことを言葉で説明しても語り尽くせないところは確かにある。


ご本人は、もともと歯に衣を着せないタイプであるから、カール・マルクスに対しては、ボロクソである。よっぽど『唯物論者』 であるマルクスが嫌いなのであろう。でもひょっとしたら、池田さんのマルクスに対する視点が違っているのかもしれない。マルクスは確かにソビエト共産主義の理論としてもてはやされたのは否めないが、マルクス自身、その共産主義政治体制の実態としての本質が、よもや、専制主義としての独裁政治として構築され、マルクス理論が便宜上として引用されるとは想像つかなかったと思うのですが、どうでしょう?


マルクスは、お金と物と人の関係について、すなわち経済学としての理論的解明にエンゲルスとともに尽くしたと思うのですが、そこでの結論として、「万国の労働者よ立ち上がれ」になって行ったみたいですが、そこでマルクスが見落としたのは、人間の心の問題だったのではないでしょうか?つまり、マルクスはお人好しだったのです。


自分の理論が正しいから、これを基に労働者が立ち上がってくれれば・・・と思ったに違いありません。しかし、残念なことに、マルクス理論と共に立ち上がった労働者と新しい権力者は、畢竟、自己の利益に関してのみ行動を起こした。それがソビエト連邦のような冷酷な政治体制となってしまっただけの結末でしょう。だから、お金と物と人の関係についての解明はそれなりに評価すべきことだと思いますが、池田さんはなにぶんお金や物にはとんと、疎いようですから、マルクス評価としては、お好みな哲人ではないようですね。


あと、シュタイナーに対しても批判的な印象が伺えます。最初は、変わった褒め方をして、後で批判している。その褒め方は、次の通りである。「近代オカルティズムの創始者、霊能者として、この人は著名である。自身、ドイツ観念論はじめ哲学を一通り修めて後、その道に入ったらしい。 『霊学』 は、幻覚や霊媒とは違う、常に知性的思考に基礎づけられるべきであると述べているところが独自であり、信頼に足る。」と、ここまでは、変な褒め方をしている。


以前、シュタイナーについても読後感を取り上げたことがあるが、そのとき、池田さんが云う 『オカルト』 発言まではいきませんが、私もシュタイナーに対しては、信仰的なニュアンスを感じていたのは事実です。哲学的な生き方にだけ埋没するよりも、シュタイナーのように神秘的なものに対する畏敬の念を抱きつつ、哲学から実践に至る信仰として生活することの方が幸せなのかもしれません。


次に、池田さんは、こう批判している。「とは言え、 『哲学』 プロパーの側からすると、このような行き方は、 『邪道』 というより、 『違反』 というふうに感じられるはずである。見えるものを見えるものたらしめているところの見えないもの、哲学者は思考によりそこまで辿り着くのだが、その 『何であるか』 が理解出来ない。しかし、彼らはたいていは、見えないものを見る能力など所有していないから、その手前で立ち止まり、それを指すことができるだけだ。しかし、そういう人は、その一線を易々と踏み越えて、見えない(はず)のものを、 『見て』 しまう。『こうなっている』 と報告する。それは、ズルイじゃないかという感じに、どうしてもなるであろう。」と、哲学プロパー育ちの立場として愚痴っている。それは、自身が一歩手前まで来ていても語れなく、悶々としているのにそれはないだろう!という、気持ちだろう。


前回の、宇都宮芳明氏の「相互主体性の哲学」を読んで感じたことは、哲学するということから、それが実践としての行為に移るときは、それはどうも信仰という形になるような気がしてならなくなってきました。この 『信仰』 という意味は、宗教的な大掛かりなことを指すのではなく。いってみれば、『信じる』 ということを指します。たとえば、ひとつの理論を実行しょうとするときは、少なからず、その理論を信じてやってみるということです。もし、最初から信じてなければ、実行しないでしょう。


先程のマルクス哲学にしても、彼らは、それを信じて実行したわけです。つまり、『マルクス』 を信奉して実践したわけです。これは、ある意味で、マルクス理論が 『経典』 であり、マルクスがイエスキリストみたいなものでしょう。そして、それを盲目的に信仰してしまったわけです。マルクスは「宗教は麻薬だ」といっていたそうですから、これも皮肉な話です。だから、シュタイナーも、考えるだけに留まらず彼の場合は行動派ですからどうしても哲学から行為に移行するとき、それは信仰となっていく。そうではなかろうか?と思う次第です。


哲学としての理論だけに留まれば、哲学者。理論から実践へと方向を定めれば、信仰への道となる。そんな風に最近、思えてなりません。池田さんだって、自分の考えから行為に移行する時は、おそらく、彼女の場合、教祖ではなく、『巫女』 として、「これだ!」というものを民衆に啓示して行くであろうと想像します。ご本人、『巫女』 といわれるのがまんざらでもなかったようですから。ただ、残念なことに、あらたな哲学と実践には及ばず、道半ばでお亡くなりになりましたが・・・。


まあ、それにしても、これだけの哲学に関する勉学はたいしたもので敬服するばかりです。ところで、「人生相談」といったコラムのようなところをざっと読んでみましたが、一番驚いたのが、「部下を叱れなくて困っています」という、サラリーマン管理職からの相談。


こんなことを、組織に関わっていない人に相談する人もいるのか?と驚きますが、これに答える池田さんも大したものです。池田さんは、本質的に物事を考える方ですけど、やはり 『本質とは何か』 を、摑むという事が如何に重要かということを彼女の回答から納得しました。したがって、他の相談に対する回答も推して知るべしでしょう。


「究極の本質洞察」と、題するところで、いきなり池田さんは、「私は語学が大の苦手で、基本的な英単語ですら、もう忘却の彼方である・・・」と、述懐している。理系の人間で語学が苦手なのは、この間のノーベル物理学賞を受賞された益川敏英氏が、マスコミに公然と云われて評判になったのは有名な話である。恐らく語学が苦手な理系の人たちへの大いなる励み?となったでしょう。


最近の理系の国立大学でも、語学が苦手でも受かるような配慮をしている大学もある。でも、入ると何故か?大学側は、学生に対して英語の学習を勧めるのに熱心と聞く。英語は国際語としての地位を占めているからであろう。もともと、日本の科学者は外国の科学者とは語学においてすでにハンディを負っている。海外での物理学会の発表は、日本語とする、なんてしてしまえば、それこそ、多くの外国の科学者は本来の研究をそっちのけで勉学の時間をとられるだろう。そうなって欲しい。(笑)


外国人にとって、日本語は話すことは出来ても、書くことは大変至難の業である。それを世界の科学者が果たしてどれだけできるか?想像しただけでも笑える話である。


話を戻すと、池田さんは文系なのに苦手だという。ひょっとすると、池田さんはもともとロジカルな脳ではないかと思う。つまり、科学者向きの脳と言うことだ。科学は本質を追及する学問である。科学と哲学は本質を究めるというところでは似たもの同志だ。科学が形而下の物の本質を究める仕事に対して、哲学は心を含めた形而上の本質を究めようとする仕事だと思う。だから、本質を究めるに当たって哲学も論理的な思考がないと本質が追求できない。


それが得意のようだから、池田さんは論理的思考能力者なのだろう。語学が苦手というのは、ある意味で、語学そのものが、論理的でない要素がある。文法にしてしかり。慣用句などは、理屈ではなく、覚えるしかない。もっとも、そうなった背景としての理屈は存在するかもしれないが、言語はすべて、文法が先に出来て言語がなりたったのではなく、その後付として文法的解析がなされたのだから。赤ちゃんが文法を知らなくても話せるようになるのもそういうことだろう。


だから、物心ついてから・・・ものごとを常に疑う思考をもった年頃になって語学を学ぶ上の非論理的な曖昧さに対しては、しっくりいかないところがあるに違いない。当の私も語学が苦手なのは、実はそこにある。それと、単語を意味もなく理屈抜きにして頭に詰め込む作業が嫌いな性格もひとつとしてあるかもしれない。そういえば、池田さんは、言語哲学も、お嫌いなようだった。これは、別の違ったところでお嫌いなのだが・・・。


でも、論理的に解明すら出来そうもない、 『存在』 とか、『自己』 など形而上の厄介なものに興味を抱くのは何故だろう?これは、どうも、性分として、摩訶不思議なものに対して熱烈な嗜好を持つ人種だからかもしれない。


さてさて、夏の夜も、もう少し続きそうであるから、次々に面白そうな本を開いてみようかと思う。この間、読み終えたのが、「日本の目覚め」と題した、岡倉天心の話です。そして、昨日、読み始めたのが・・・「哲学は人生の役に立つのか」と題した、変わった経歴を持った哲学者の木田元氏です。


「哲学は人生の役に立つのか」と、聞かれたときに、あなたはどう答えるのか?それを思うだけでも楽しくなる。でも、読んであれこれ楽しむのはいいけど、それを書くとなると・・・自分の考えを見付けなければならないから、大変だ!いや、大変面白いのだ!


by 大藪光政