書物からの回帰-草千里


[ 熊本 阿蘇 草千里にて ]


民話集を読むきっかけから、トルストイに対するイメージが新たになってきた。今まで、読まなかったのは、食わず嫌いというものだったのかもしれないが、文学と宗教が絡んでいるという世間のうわさだけで、若き頃は嫌悪感があった。当時は、科学というものに対してかなり熱中していたせいもある。

宗教といえば、胡散臭いという固定観念もそのころ出来上がっていた。トルストイの民話集をひととおり読むと、確かに一見、御伽噺話のような装いで宗教批判、為政者の権力批判、などを行っているようだ。そうした行為が民衆に認められるのも、文学には光触媒のような作用があるからだ。


トルストイの 『光』 が、当時の宗教に対して、どのようなところを浮き立たせるのか?そして、どう浄化させるか?それをさらに知りたくなってきた。それが、この 『復活』 を読んでみる所以である。


そう思って、上巻を読み出した。トルストイの文体は、予想以上に読むのにはとっつきやすく、一気に上巻を読み終えることができた。上巻の読後には、微熱のような感動があった。もし、この本を20代のときに読んでいたとしたら、恐らく、当時、ドストエフスキーの 『カラマーゾフの兄弟』 と、同じような大きな感動を覚えていたに違いない。そう思うと、今更ながら、若き時代にトルストイに触れなかったのは、大きな手落ちだったと悔やまれる。


先程、『微熱のような感動』 と言ったのは、トルストイが、主役であるネフリュードフのこころの葛藤を通してほとばしる発言の中に、宗教、神、善、裁き、権力、といった現代にも十分共有できる課題が湧き起こり、そうしたものに対するトルストイの突っ込みに、当方の人生経験と照合して納得し共感するからです。


もし、若き頃に、この本を読んでいたとしたら、人生の未経験上すごいことを知らしめられたと感じずにはおられなかったでしょう。読後の興奮を必ず引き起こしていたと思います。


『復活』 の作品を読めばすぐに、単なる知識によるうわべだけの創作ではないことに気付くことができる。それは、トルストイが自身の経験に基づいた 『社会と人間』 における深層心理上の関わりを洞察し、それを描き切っているからです。トルストイの時代と今日とでは、表皮こそ違っても、その中に存在する骨格はなんら変わっておらず、また、古今を通して人それぞれの経験内容は違っても、人の考えとか行為に差異はないことを再確認させる力をトルストイは持っている。


そろそろ還暦に近づく年頃に、遅まきながらこうした書物を初めて読んだ時、自身とトルストイの思想とが、噛み合っている部分を発見すると、親しい先達者を得た気分になる。


この小説は、主役であるネフリュードフ公爵が、陪審員になって、相手役のカチューシャと裁判所で再会する設定から始まるが、この当時のロシアの裁判における陪審員制度と、日本で最近始まる裁判員制度とが仔細こそ違っても、不特定身分の人々から選出されて裁判に関与する事態は、なんら今日とは変わらないから、読んでゆくと興味をそそられるところだ。


この文庫本の裏表紙に書かれているあらすじ案内で、「・・・ネフリュードフ公爵は、出廷した女囚を見て胸が騒いだ。かつての自分が犯した娘カチューシャだったのである。・・・・」 との、ふれこみがあったので、ひどいヤツかなと思ったら、決して悪意或る行為ではなく、俗世間ではよくある出来心としての行為ですから、そんなに悪い人間ではないことに気付く。彼が後悔して彼女を救おうと決意したことがその証でもある。


彼は、裁判所でカチューシャに再会することで 『良心』 というものによって、心の葛藤が始まる。


ネフリュードフは、「主よ、われを助けたまえ、われを救いたまえ、われを教えたまえ、来りてわが胸にやどり、すべての汚れよりわれを清めたまえ」といって、次の様に、ネフリュードフの心情をトルストイは書き込んでいる。『彼は祈りをささげて、神が彼を助け、彼の胸に宿り、彼を清めるようにと願った。しかし、彼の願いはその間に早くも成就していたのであった。彼の内部に宿っていた神が、彼の意識の中で目覚めたからである。彼は自分を神と感じた。そのために、彼は自由と、勇気と、生の喜びを感じただけでなく、善の力をもすっかり自覚したのであった。そして、およそ人間のなしうるいっさいの最もよきものを、今や彼はそれを自分がなしうると自覚したのであった。』 この中で、『彼は自分を神と感じた。』 という表現は、トルストイの宗教観としてのひとつの啓示かもしれない。


『自分』 という存在は、『自然』 の産物である。その 『自分』 とは、何者か?という思索に入れば、当然、己の存在の不思議さに気付き、 『自分』 という得体の知れないものが、心の働きによって、悪人や、善人になりえることを認めざるを得ない。 『自分』 というものが或るときは、同一である心の中で、様々な精神状態でスイッチングしながら、外面的に悪人として現れたり、善人として現れたりする。ここでは、ネフリュードフは誇張かもしれないが、内面的に神としての意識までに覚醒していっている。


人の心は、ツェナーダイオードのように、ある限界の電圧 (定電圧) に達すると、流れないはずの電流が堰を切ったように流れ出す様に、人の心は、心の異変において、その限界に達することで、まったく違った心情に急変してしまうものですが、その辺の心の動きを主人公ネフリュードフにてうまく描写している。


ネフリュードフが陪審員を務めたことで、種々雑多な罪状を抱え拘束された囚人の経緯を知るたびに、 『社会と人』 との拘わりの中でその矛盾に対する憤りを抱かせる。表面的な内容こそ違うけれども、今日でも一般社会における矛盾はいたるところにあり、そうした不適切な社会の仕打ちは今日も多々ある。


そうした憤りから、トルストイは、カチューシャの心情を通して、次のような言葉を吐く。「すべての人びとはただ自分の快楽のためのみに生きていたし、神とか善とか言う言葉はみんな欺瞞にすぎなかった。たとえなぜこの世ではみんなが互いに悪事をおこない、みんな苦しむようにできているのだろうという疑問が起こっても、そんなことは考えないようにしなければならなかった。もし、さびしくなったら、煙草を吸うなり、酒を飲むなり、いや、何よりもいちばんいいのは、男とたわむれることであった。」 ここには、人は何を信じるべきか?という、課題がある。


これこそ、今日においても、問い続けられる課題のような気がする。もう一度、考えてみる。 『人は、何を信ずればよいのか?』 こうした、心情になるときは、必ず、社会が個人に対して、様々な揉め事などで、『自分』 が思う 『正義』 が貫かれないことで挫折してしまう時に起きるものだ。


ただ、この 『正義』 は、何をもってして正義というのか?となると、皆、人びとはそれぞれ違ってくる。そして、『自分』 の良心と共有できるものを 『正義』 として迎え入れるでしょう。そもそも、絶対的な 『正義』 なんぞ存在しないと思った方が自然である。


我々の実生活において、たとえば、町内会ひとつをとってしてみても、市井の人びとは、皆、『自分』 の生活を大切にしている。自宅の前の公園よりも、自分の庭手入れに熱心なのを見ればわかることだ。人は皆、他人よりも、自分を守り、自分の快楽を何よりも大切にしている。それが生きることだから。ところが、自分のことよりも、他人のことを案ずる人が現れると、一体、人は、どう思うだろう。お節介者として、扱うか?お人よしとして歓迎するか?慈悲の心を持った善人扱いとするか?偽善者として蔑むのか?さて、どうであろう。


他人がどう判断しようと自分の行為に対して気後れがなければ、それでよいに過ぎない。ここは、『自分』 を信じるしか仕方あるまい。つまり、『自分』 が、刹那的に厚かましくも、『神』 になればよいのである。自分が、神であることを確信すればこんな強いことはない。


現代のように、こうも 『社会と人』 の関係が複雑である以上、良識ある賢人が 『善のこころ』 を抱えた時、発狂しない為にも、『自分が神である』 といった意志をもつことがベストかもしれない。それが、或る意味で、立派な 『復活』 なのでしょう。


この 『復活』 の本には、読めども読めども、なかなか、イエス・キリストの復活には触れずじまいで、組織としてのキリスト教集団の為すことを次のようにこっぴどく批判している。


「イエスはこのような無意味な言葉の羅列や、パンとぶどう酒を前にした教師たる司祭の冒涜的な魔術を禁じたばかりでなく、一部の人びとが他の人びとを師と呼ぶことさえはっきりと禁じ、会堂内での祈祷を禁じて、各人が孤独のなかで祈祷することを命じられたのであった。いや、イエスは会堂そのものをも禁じて、自分は会堂を破壊するために来たのだといわれ、祈祷は会堂のなかではなく、各人の心と真実のなかで行われるものであるといわれた。」 と、書き綴られている。すなわち、キリスト教の教会組織こそ、キリスト教に対する冒涜であると言い切っている。形式的な、あるいは、セレモニー的なこうした行為を痛烈に批判している。


こうもキリスト教の教会に対して書けば、ノーベル文学賞の創設時の最初の有力受賞対象から、トルストイが外されたのは当然かもしれません。ここで、注目すべきは、信仰というものは、外的なセレモニーではなく、あくまで、『自己』 の中における祈りの行為そのものであると言っている。


まあ、文学によってそんな光で宗教を照らしてしまうと、教団の存在が危ぶまれてしまいます。先日、大学生になったばかりの娘が、大学に通っている友人 ( 他県から来ている ) を誘って、トリアス ( 複合施設 ) の映画館に連れて行く約束をさせられた。( 当然、昼食は、当方の負担である。) まあ、親とは、そんな便利屋の存在であると自負している。


そこで、私は、娘が鑑賞している間、その映画には興味なくどうしょう?と思いましたが、ショッピングなんていうのはナンセンスですから、私も、他の映画を観ることになった。最初は、『消されたヘッドライン』 を観ようかと思いましたが、どうも、政治的な陰謀めいたドラマだったので政治はもういいと思い、最初、あまり観たくもなかった、『天使と悪魔』 を観ることにしました。以前、話題になっていた 『ダビンチコード』 は、映画を観ずに本を読みましたが、まあ、サスペンスドラマなので、スポーツ観戦と同じですね。


ただ、これらの取り扱っている内容が、教会を馬鹿にした内容といえばそうであるからして、『ダビンチコード』 の時は、騒がれましたのですが、今回は、もう、教会側も慣れっこになったのでしょうか?騒がれなかったようです。映画の方は、ストーリーがうまく出来過ぎていたきらいがありましたが、娘を待つ時間つぶしには良かったと思います。


話をトルストイに戻しますと、彼は次のように人間と言う存在を表現しています。


「人間というものは河のようなものであって、どんな河でも水には変わりがなく、どこへ行っても同じだが、それぞれの河は狭かったり、流れが早かったり、広かったり、静かだったり、冷たかったり、濁っていたり、温かだったりするのだ。人間もそれとまったく同じことであり、各人は人間性のあらゆる萌芽を自分のなかに持っているのであるが、あるときはその一部が、またあるときは他の性質が外面に現れることになる。そのために、人びとはしばしばまるっきり別人のように見えるけれども、実際には、相変わらず同一人なのである。」 と、語っています。


この辺は、やはり、人間というものを達観した作家だなあと感心します。そういえば、私個人を例にとっても、紆余曲折ばかりの人生を歩んできましたが、恐らく、その道程における私の心も、様々な動きがあったようです。一見、昔から、自分はちっとも変わっていないと思っていても、かなり、心変わりがあったと思います。それでも、わたくしは、私なのであります。


よく、旧知の人と再会した時、自分がイメージした人と掛け離れていることに気付いた時、若干、虚しいものを感じる時がありますが、逆に、相手の方も、そのように捉えているのかもしれません。別人だと!


だから、人のこころは、その人の環境とともに、その時、その時で、微妙に変わっていくものだということ。また、逆に、それを演じている 『わたし』 は、相変わらずの 『わたし』 であることを知った上で、双方向的にものごとを捉えて考えていくことも大切ですね。


さてさて、肝心の下巻だが、これは、ちょっと不可解な結末になっていた。


上巻と比較すると物語の展開が、かなりよどんでおり、、収容所の悲惨さ、シベリヤへの移送の過酷さなどの状況描写が、くどくどと多すぎます。上巻のできばえからして、下巻には、きっとすごいことをネフリュードフやカチューシャに代弁させるか、さもなくばトルストイ自身のもっと驚くべき発言があるに違いないと思いつつ、かなり辛抱して結末を期待して読みました。


最後のところで、不思議な老人が現れて、馭者と神について言い合いをする。不思議な老人は、「神さまを見たもんなんかどこの世界にもいやしねえさ。父なる神の懐ろにいますひとり子が、それをお示し下さったきりだからな」と、発言し、「わしにゃ信仰もないさ。だって、わしゃ自分よりほか誰もしんじちゃいねえからね」と、言い切る。


こうした変な老人の登場と、もうひとり、伝道師みたいなイギリス人を何故か?登場させて、話を聖書の方へと仕向けていく。



たいした、意味のないような登場人物である伝道師がネフリュードフに贈った聖書を開いて、その中のマタイによる福音書における五つの戒律を人類が守れば、 『この地上に神の王国が樹立されて、人びとは到達しうるかぎりの最大の幸福を手に入れることになるのだ』 と、言いつつ、 『神の国と神の義を求めなさい、そうすればその他のものはひとりでに与えられるであろう。ところが、われわれはその他のものばかりを求めているから、それを見出すことはできないのも無理はない。』 と、言い放ち、ネフリュードフには、『そうだ、これがおれの一生の仕事だ。一つが終わったと思ったら、さっそく次がはじまったのだ』 と、動機付けさせてトルストイは、物語を締め括った。


これには、唖然としてしまった。トルストイは、何故、こんな締め括りをしてしまったのだろうか?と、本を閉じて考え込んでしまった。これでは文学として、創作の放棄としか思えない。


長い時間掛かって下巻を読ませた読者に大きな謎を残した感じである。


下巻は、文学作品としては、失敗のように思えてならない。それは、社会批評に傾きすぎてネフリュードフとカチューシャの存在感が途切れてしまっているところにある。それと、トルストイの宗教観が最後のところで迷走してしまっている。しかし、トルストイは、 『文学作品』 を殺してでも訴えたいものがあったからそうしたのだろうか。


これには、当時の深い背景があるのかもしれない。つまり、権力者と宗教団体に対する配慮が想定される。


また、トルストイの最後の締め括り方が、彼の本意なのか?それとも、彼の偽装なのか?それが謎だ。


福音書における五つの戒律などは、人類にとってはとても守り切れない戒律ではないか。そんなものを最後に引っ張り出して、この地上に神の王国が樹立されて・・・などと、言い出すのは、彼一流のアイロニーなのか?


そして、この本に 『復活』 という題名を付けた理由は何なのか?


キリスト教に限らず、宗教というものは、組織や他人から押し売りされるものではなく、個々の人びとの心の葛藤に対して、自意識的に信ずるものを創出することで安らぎをもたらす行為だと思う。福音書における五つの戒律によって、足かせや手かせで人間を縛ろうとしても無駄で、所詮、人間は自然の産物だから、あるがままに、そしてなるがままに勝手に生きていくものだと思う。すべての人間を善人ロボットにすることは、むしろ、自然にさからう行為のような気もする。


だが、他の動物をみてもわかるように、人間ほど同類を無差別に殺したり、必要以上に略奪したりするような動物は、皆無であり、人間の欲望があまりにも肥大化し、自然の摂理とは掛け離れているというただその一点が気になるところだ。


トルストイは、小説の中で、ほぼ、同時代のマルクスやニーチェの名を取り上げている。これは、本人もそうした二人の思想に対してかなり意識を持っていたはずであるが、しかし、彼らの思想については不満があれば皮肉っていたはずだが、ほとんど触れられずじまいである。これは、無視しているだけなのか?


この作品 『復活』 の下巻が、中途半端になったのは、或る意味で、ネフリュードフの生い立ちと同じような彼が、己の精神に対して具体的にこれからどう身を持っていくべきか?まだ定まっていなかったからなのか?


でも、作者はこの作品の印税を、当時弾圧を受けていたドゥホボル教徒のカナダへの移住のために献金したと言われているから、実際の社会との関わりにおいて、彼は、謙虚な 『知行合一』 の心構えを持った作家であったことには違いないでしょう。


どんな物書きでも、やはり、『知行合一』 でないと、読者は長い歴史を経て、ついて来ない。ただ、残念なのは、もっと文学という光触媒で宗教に対して突っ込みをやってもらいたかった。


しかし、ひょっとすると、まだトルストイの作品のあちこちに、そうした残光があるのかもしれない。知らないのは、読書家でない暇人の私だけかもしれない。


暇があっても、根気がないと、長編小説は読めませんから、困ったものです。


by 大藪光政