KIRTANでの気づき
久しぶりにアメブロを開いた。連日、誰だかわからない人からの(おそらく)自動フォローのメールは届き続け、開いてみると案の定、トップ記事は踏み荒らしたような(おそらく)自動いいねが押され。私は正直それがとても嫌な気分だったから、試しにnoteを始めてみようかなとも思ったけどとりあえずここに書いてみようかな、と思う。--------------今、タントラヨガを学んでいて先日、ティーチャーのバースデーパーティーがありました。一通りイベントを終え、素敵な受講生さんが作ってくれたケーキや持ち寄りのお菓子を食べながら歓談した後、ティーチャーがギターを持ってきてKIRTAN(キールタン)が始まった。KIRTANはインドの神々への祈りのフレーズを歌う。歌うヨガとも言われているそう。ティーチャーが歌ったフレーズを覚え次第、一緒に歌う。何度も同じフレーズを繰り返してくれるので次第に歌えるようになっていく。KIRTANが始まってすぐに私は自分の歌がとても攻撃的と感じた。早く正しい音で歌えるようになりたい誰よりも目立つ大きな声で歌いたい。闘争心むき出しの声。中学の頃から合唱を始め、18年間毎年コンクールに出てきた。私の歌声はいつもジャッジにさらされてきた。厳しいジャッジの中でこそ自分の歌は素晴らしくなると信じてきた。早く正しい音で歌えるようになりたい。誰よりも目立つ大きな声で歌いたい。素晴らしい歌を歌いたい。その下にあるのは褒められたい。認められたい。存在感を示したい。承認欲求だ。長い間ずっとこんな風に歌ってきたのか。そのことに愕然とし、何だか自分のことが可哀想になりながらKIRTANを続ける中でゆっくりとそれらを手放していった。攻撃、闘争から調和へ。私は次第にみんなの音に自分が溶けてなくなってもいい。そんな気持ちで歌う輪の中に身を委ねた。最後は祈りを唱えずティーチャーが弾くコードを聴きながら自由に声を出してみんなでハモった。その日、その瞬間にしかない音の重なり。私は高音を出してみたり、潜るように低音を出してみたりしてハモることや誰かとのユニゾンを楽しんだ。その日に出した最も高い音は技術的には厳しいと感じたが、ハートでは歌いたいと感じたからジャッジを手放してその音を出した。思った通り掠れてしまったけれどとても気持ちよかった。KIRTANが終わったあと、何人かの仲間が私の声を褒めてくれて本当に嬉しかった。「褒められたい」気持ちなんてもうすっかり忘れていたのに。だけど、「褒められたい」気持ちでいっぱいだったときに褒められるよりもずっと嬉くて心が満たされた。歌うことの幸せや喜びを少し取り戻したような気持ちになった。ありがとう。