思い出のプロ野球選手(146) 河埜和正(巨人)
思い出のプロ野球選手、今回は「河埜 和正」選手です。1970年代後半から80年代前半にかけて巨人のショートとして活躍し、主に2番や7番など脇を固めて活躍し、犠打で走者を進塁させたり、空振りで走者の盗塁をフォローしたりなどチームバッティングに多大に貢献した選手です。弟で南海に在籍した河埜敬幸選手と共に、日本人兄弟で唯一となる「兄弟とも1,000本安打」を達成しています。(他に外国人で、リー・レオン兄弟がいます)【河埜和正(こうの・かずまさ)】 生年月日:1951(昭和26)年11月7日入団:巨人('69・ドラフト6位) 経歴:八幡浜工-巨人('70~'86)通算成績:1,430試合 打率.251 1,051安打 115本塁打 416打点 153盗塁位置:内野手 投打:右右 現役生活:17年規定打席到達:5回表彰:ベストナイン 1回('77)、Gグラブ賞 1回('74)記録:3打席連続三塁打('74) ※日本記録 オールスター出場 4回('77~'79、'83) 兄弟とも1,000本安打達成 ※日本人では唯一節目の記録:出場-1,000試合出場('81.10.5) 安打-1,000安打('84.9.5) 本塁打-100号('84.7.11)個人的印象巨人のショート、です。「カメ」のニックネームで覚えていましたが、独特の飄々とした雰囲気の選手で、ある意味巨人らしくない感もありました。巨人にはその後、打てるショートが沢山出てきましたが、全面的に存在感を出すんじゃなくて脇役に徹する職人的な存在感のある選手でした。この写真のように背番号29の頃からリアルで見ていましたが、その後「5」になって中心選手になったんだなと一層感じました。晩年は…見ていてつらかったですね。運が悪かったとしか言いようがないですが…プロ入りまで高校は愛媛県の新居浜工業高校で、甲子園出場はなくドラフトにかかると思っていなかったそうですが、1969(昭和44)年のドラフト会議で巨人から6位指名を受け入団しました。最初の背番号は「61」とコーチ並みの大きなものでした。初期キャリア1年目は1970(昭和45)年で一軍出場がなく、2年目1971(昭和46)年に初めて一軍戦に出場しました。この年は2試合3打席のみで無安打でした。時は折しも巨人V9時代の途中で、この年でV7を達成していました。この年は二軍で打点王を獲得しました。3年目1972(昭和47)年は7試合に出たものの打席に立つことはなく、1得点を記録したのみでした。4年目1973(昭和48)年にようやく初安打、そして打点・本塁打も記録しました。わずか2安打でしたが、2安打目がホームランでした。この年が巨人V9達成となり、翌年から優勝を逃しますが、V9の間はレギュラー陣の充実もあり、なかなか戦力にはなれませんでした。定位置奪取1974(昭和49)年が転機となり、背番号が61から「29」と軽くなり、当時レギュラーだった黒江透修選手からショートのポジションを奪い正遊撃手をほぼ手中にしました。黒江選手は紆余曲折ありながら結この年に引退しています。それまで4年間で2安打1本塁打と殆ど実績がありませんでしたが、この年は一気に119試合に出て293打数57安打(打率.195)で10本塁打28打点の成績を残しました。一方で、規定打席には80ほど足りませんでしたが、三振82はリーグ最多を記録してしまいました。2ケタ本塁打と2ケタ盗塁もこの年初めて記録しました。現役生活唯一のGグラブ賞を獲得し、また3打席連続三塁打という離れ業も達成しました。1975(昭和50)年は90試合で251打数57安打(打率.227)で6本塁打17打点と、今一つ伸び悩み、またチームは長嶋茂雄監督初年度でしたが球団創設史上初の最下位に沈みました。1976(昭和51)年が戦力になって初の優勝経験となりましたが、上の写真もこの年のカットのようです。124試合に出て320打数78安打(打率.244)で5本塁打24打点を記録し、打席数は359と規定打席に44不足でしたが、達成はすぐそこまで、という状況でした。この年10盗塁を記録しましたが、ここから8年連続で2ケタ盗塁を記録し続けます。阪急との日本シリーズでは先発したり途中から出たり、すぐに交代されたりと不動という訳にはいかない形で出場しましたが、目立った成績は残せませんでした。不動のショート1977(昭和52)年、8年目にしてようやく規定打席に到達しましたが、この年は125試合に出場し、357打数105安打(打率.294)で12本塁打45打点の成績を残しました。この年は初めてオールスター出場を果たし、2年連続のリーグ優勝を達成しますが、唯一となるベストナインを受賞しています。リーグ優勝は果たすものの日本一の経験はまだ先の事となりました。2年連続で阪急との対戦となった日本シリーズは巨人が1勝4敗で敗退しましたが、唯一の勝利は彼が延長12回に放ったサヨナラ3ランホームランでした。常勝阪急に対して、まさに一矢を報いた一打でした。この活躍もあり日本シリーズ敢闘賞を獲得しています。1978(昭和53)年も2年連続で2割9分台の打率を記録し、128試合に出て443打数129安打(打率.291)で9本塁打55打点の成績を残しました。この時期はまだ柴田、高田というV9を経験したベテランがレギュラーで1、2番で出ていたので河埜選手は7番を打つことが多く、その印象が強く残っています。レギュラー番号へ1979(昭和54)年には背番号が29から「5」へ変更となり、名実ともに巨人のレギュラーとして君臨、という感じでした。この年は128試合に出て439打数100安打(打率.228)で15本塁打56打点と打率は低かったものの、ホームランはよく打ち、打点56もキャリアハイでした。しかしこれは当時の長嶋監督にバッティングをいじられ、大打ち狙いになって逆にそれまでの高打率が急降下してしまいました。また盗塁21は2年連続20個以上となりました。この年まで3年連続でオールスター出場を果たしています。1980(昭和55)年は、規定打席にわずか5打席足りず、125試合出場の352打数81安打(打率.230)で6本塁打27打点でした。この年は長嶋監督の電撃解任があり、王選手の引退、高田選手の引退、柴田選手が兼任コーチ就任(引退予定だった)など、V9戦力が次々に抜けていった巨人軍激動の年でもありました。初の日本一経験1981(昭和56)年は、ゴールデンルーキー・原辰徳選手が入団しました。という事で内野のレギュラー争いが激化しますが、河埜選手のショートは不動で、二塁の篠塚利夫選手や三塁の中畑清選手などのポジションが揺らいでいました。そんな中で自身はリーグ最多の503打数を記録し、キャリアハイの133安打を記録し、また唯一130試合フル出場を果たし、打率.264で16本塁打42打点を記録、ホームランと27盗塁もキャリアハイでした。盗塁はタイトルの獲得者が青木実選手(ヤクルト)で34個と割に低水準の争いで十分タイトル争いもできたであろうレベルでしたが、この年に通算100盗塁をマークしています。そんなに盗塁が多い選手というイメージはなかったのですが…。また犠打はリーグ最多の21を記録しています。この年11月に30歳を迎えますが、通算1,000試合出場の節目の記録を達成しています。日本ハムとの、初の同一フランチャイズ同士である「後楽園対決」となった日本シリーズでは、最終の第6戦まですべて先発出場し全試合でヒット(ホームラン1本含め)を打っており、シリーズ優秀選手賞を獲得しています。1977年に次ぐ表彰でシリーズには比較的強い選手だったといえます。最後の優勝1982(昭和57)年から成績は少しずつ下降線をたどっていきますが、この年は最後の規定打席到達となり、近鉄から移籍してきたベテランの石渡茂選手などと併用になっていきます。この年は127試合に出て428打数116安打(打率.271)で最後の100安打以上となり、11本塁打34打点で15盗塁、そして犠打はキャリアハイの32をマーク、ランナーを進めるバッティングが目立つようになりました。1983(昭和58)年はわずか95試合の出場にとどまり、1976年から続いたシーズン100試合以上の出場が7年で途切れましたが、この7年間はすべて120試合以上出ていました。打席は370と規定打席に33足りませんでしたが、以後到達する事はなく、310打数75安打(打率.242)で4本塁打19打点に終わりました。しかしオールスターには4年ぶりに(最後の)出場を果たしました。西武との日本シリーズでも石渡選手や若手の鈴木康友選手らとの併用となり、初戦こそ松沼博久投手から2ランホームランを打っていますが、その後は目立った活躍はなく、これが現役最後のシリーズ出場かつリーグ優勝経験となり、1970年に入団して17年も巨人という常勝チームに在籍しながら、実質リーグ優勝経験は4回、日本一は1回という少なさでした。常勝期が若手時代でほぼ二軍で過ごしていた為ですが、80年代は特に優勝運がなかったのもありました。節目の記録と最後の活躍1984(昭和59)年が最後に見せた花ともいうべき活躍だったと感じます。111試合に出場し299打数77安打(打率.258)で13本塁打46打点を記録しました。2ケタ本塁打はこれか最後で、通算115本塁打も打っており、途中から大物打ちへ弄られた影響もありましたが、シーズン最高は16本でしたが2ケタ本塁打は実に6度も記録しています。通算100号本塁打と通算1,000本安打をこの年に達成しています。河埜兄弟弟・敬幸選手と共に兄弟とも1,000本安打の偉業を達成した河埜兄弟ですが、ほとんどの記録は弟の方が上回っており、ただしホームランは兄の方が多く、2人合わせてちょうど200本というキリの良さでした。プロ在籍年数は兄が17年、弟16年とほぼ同じですが、弟の方が成績に大きな波がなく順調だったと感じます。ただし弟は南海最後の優勝だった翌年に入団しており、以後ホークス一筋で優勝とは全く無縁の現役生活でした。日本シリーズなどの大舞台やベストナイン・Gグラブ賞などの表彰は兄のみが経験・獲得しています。痛恨の暗転規定打席に到達しなくなりながらもまだ300打席以上はキープし、定位置には一番近くにいた河埜選手でしたが、1985(昭和60)年に一転します。当時テレビで見ていてビックリしましたが、「もうこれで終わりだな」と安心して目をそらそうとしていたところ、阪神・佐野仙好選手の打ったなんでもないショートフライを落球してしまいました。まさかあの守備の名手が…という感じでしたが、しかも運悪く2アウトであった為ランナーが走り切っていて、そのままホームインしてしまう事態となりました。これがノーアウトや1アウトならランナーは警戒して走らないので大したことはありませんでしたが、色々な悪運が重なってしまいました。そして翌日は甲子園のバックスクリーン3連発、当時阪神戦がトラウマレベルの脅威でした。この一件でかなりの後遺症も残ったようで、一軍定着後ケガ以外で初めて二軍に落ち、なんとか52試合には出て115打数29安打(打率.252)で6本塁打15打点の成績は残しました。落球がシーズン序盤だったのでその後どうかと思いましたが、その後出場機会は得られました。彼の欠場から取って代わるように若手が次々に登場し、川相昌弘選手、岡崎郁選手、西武から来た鴻野淳基選手(それまでの控え遊撃手・鈴木康友選手との交換トレード)などショートの定位置争いはしばらくの間、熾烈を極めていました。引退1986(昭和61)年は、若手の台頭が顕著となり、また自身の年齢からくる衰えもあってか43試合で59打数12安打(打率.203)で1本塁打6打点の成績にて終幕、35歳で引退しました。引退後は巨人の三軍や二軍などでコーチ経験があり、またスカウトも務めていました。にほんブログ村カルビー1984 プロ野球チップス No.511 河埜和正(A)楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}カルビー1984 プロ野球チップス No.28 河埜和正楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}カルビー1983 プロ野球チップス No.134 河埜和正(B)楽天市場${EVENT_LABEL_01_TEXT}カルビー プロ野球カード 1976 e2_1006 河埜和正 巨人 激突!セ三強シリーズ ueAmazon(アマゾン)読売ジャイアンツ 直筆サインボール 河埜和正と鈴木康友Amazon(アマゾン)