思い出のプロ野球選手、今回は大田 卓司選手です 

 

1970年代から80年代中盤まで、西鉄、太平洋、クラウン、西武までの4球団で「ライオンズ」一筋で活躍を続けた選手で、特に大舞台での勝負強い打撃で「必殺仕事人」とあだ名され、通算1,000安打に満たない(923安打)ものの、171本塁打の実績を残した選手です。

 

【大田 卓司(おおた・たくじ)】 

生年月日:1951(昭和26)年3月1日

入団:西鉄('68・ドラフト9位) 
経歴:津久見高-西鉄・太平洋・クラウン・西武('69~'86)

通算成績:1,314試合 打率.267 923安打 171本塁打 564打点 25盗塁

位置:外野手 投打:右右 現役生活:18年
規定打席到達:2回('76、'83)

表彰:ベストナイン 1回('76)、月間MVP('82年5月)

オールスター出場:3回('76、'82、'83) 

  

節目の記録:出場-1,000試合出場('82.8.15)

      本塁打-100号('81.6.3)、150号('84.7.27)

 

 

個人的印象

必殺仕事人、ですねやはり。

バリバリのレギュラーという感じではありませんでしたが、ホームランも多いし豪快で「怖い打者」というイメージは強かったです。

「大田」であり、太田ではないんですね。その名前とシャープな顔立ち、豪快な雰囲気でかなり大きな人だと思っていましたが、今調べたら身長170cmという事で、「そんな背低かったっけ?」と不思議に思っています。

 

 

プロ入りまで

高校は大分県の津久見高校で、中日へ入った大島康徳選手などと共に「九州三羽烏」と評されるほどの逸材だったといいます。

2年春の選抜でなんと優勝を果たし、3年夏は主将として再び甲子園の土を踏み3回戦まで進みました。

1968(昭和43)年のドラフト会議で西鉄ライオンズより9位指名を受け入団しました。この時の1位が同じく西鉄から西武までライオンズ一筋だった東尾修投手でした。

 

 

初期キャリア

入団した当時のライオンズは「西鉄」でした。当初の背番号は「44」でした。

新人時代の1969(昭和44)年から一軍出場があり、2試合2打席のみで無安打で1三振の記録が残っています。

2年目1970(昭和45)年には23試合に出て、49打数12安打(打率.245)で1本塁打2打点の成績が残っています。ルーキーイヤーの途中からでもありましたが、この時期球団は「黒い霧事件」の影響で、永久追放された選手や処罰の対象となった選手などいて、急速に弱体化し、西鉄の黄金期などとうの昔に吹っ飛んでいました。

新人同然だった彼らには直接関係のない話でしたが、戦力がなくなっていく中で、一軍半の、あるいは二軍の選手でも一軍戦に駆り出されたといいます。

 

年々出番を増やしていき、3年目1971(昭和46)年は51試合に出場し92打数23安打(打率.250)で1本塁打4打点、そして戦力らしくなってきたのは4年目1972(昭和47)年で、99試合に出て268打数67安打(打率.250)で12本塁打36打点と一気に台頭してきました。この年から変更になった背番号「25」は引退までつける事となります。

しかしここで「西鉄」の時代が遂に終焉を迎えました。

 

 

太平洋時代

西鉄は黒い霧事件に巻き込まれ終わりを迎えましたが、「太平洋」時代もまた激動でした。

せっかく台頭してきたのに、ここからはだんだんと出番を減らしていきます。

1973(昭和48)年は前年のほぼ半分の数字で、1974(昭和49)年は更に半分の数字、という感じで急速に出番が減りました。

1975(昭和50)年も前年同様、少ない出番となり、43試合で87打席のみになっていました。21安打のみのうち本塁打が5本もあり、21打点を稼いだのはせめてもの意地というところでしたが、当時の江藤慎一兼任監督の打撃理論についていけず「分からない」というと干されてしまった、との話もありました。

 

江藤監督は西鉄の兼任監督をわずか1年で離れ、再び一選手としてロッテへ移籍し

現役ラストを迎えますが、ここで監督が鬼頭政一氏に変わってから急速にブレイクしました。

「太平洋」最後の1976(昭和51)年、8年目でなんと初の規定打席に到達し、118試合(初の100試合以上出場)で422打数114安打(初の100安打越え)で打率.270、23本塁打(初の20本越え)68打点を記録しました。68打点はキャリアハイとなりました。

オールスターにも選ばれ、唯一のベストナインも受賞(指名打者部門)しています。「鬼頭さんは試合の最初から自分を使ってくれた。他の監督は"その他大勢"としてしか扱わなかった」と述懐しており、鬼頭監督に対する恩義の深さを感じます。

 

 

クラウン時代

1977(昭和52)年、クラウンになってからは再び出番を減らしていきます。

この年は273打数72安打(打率.264)で13本塁打40打点と、規定打席未満でもそれなりの成績は残しますが、1978(昭和53)年は111打数36安打(打率.324)で2本塁打18打点と打率こそ良かったものの、少ない出番となりました。特に本塁打はひとケタ、たった2本に終わりましたが、もしこの時2ケタ本塁打していれば8年連続2ケタ本塁打を記録していたかもしれませんでした。

 

 

西武へ

ライオンズ在籍4球団目となる西武に変わったのは1979(昭和54)年の事でした。

1972(昭和47)年から1979(昭和54)年までライオンズに在籍し続けた選手は。4球団のライオンズを経験した事なりますが、これを現役で経験したのは大田選手と、同期の東尾投手の2人ぐらいしかいないと思います。

 

球団名が変わるというのは、前球団のカラーを一掃しようという動きが働くので、特に西鉄から太平洋へ変わる時、そしてクラウンから西武へ変わる時はその動きが激しく、特に西武になる時は、それまで本拠地にしていた福岡を去り、埼玉・所沢へ移転したので、その変わり様は凄まじいものがありました。

 

前身「クラウン」時代に江川卓投手がドラフト1位指名されていますが入団を拒否し、「これがなかったらライオンズは福岡に残っていた、この野郎と思った」と大田選手がコメントしていました。

 

その西武元年、91試合に出て216打数58安打(打率.269)で14本塁打38打点で、阪神から田淵幸一というスーパースターが移籍してきて、ロッテから野村克也捕手と山崎裕之選手という大御所が次々やってきた激動の年でもありました。

チームは激動すぎて寄せ集め感も満載となり、前身クラウン時代の弱小さは解消されず、開幕から引き分けを挟み12連敗でスタートするなどもあり結局は最下位に終わりました。

 

1980(昭和55)年も前年並みの成績で、1981(昭和56)年からの3年間は300打数以上を記録する、出番的なピークを迎えました。

1981(昭和56)年は30歳になりましたが、5年ぶりに100試合以上(100試合)に出て、332打数92安打(打率.277)で24本塁打64打点と、本塁打はキャリアハイを記録しました。6月には通算100号本塁打を記録しています。

豪快なホームランバッターの印象がありますが、シーズン最多は意外にもこの年の24本が最高で、20本以上打ったのは3回だけでした。コンスタントにレギュラーを張る選手ではなかったので数字的にはそうなりますが、記録以上に記憶に残った選手だと改めて感じました。

 

 

常勝軍団で活躍

1981年まで13年間在籍してきた大田選手ですが、ここまでほぼすべてBクラスで、Aクラスになったのは1975(昭和50)年の太平洋時代1回だけで、しかもこの時は監督に干されて最も出番の少ない時でした。

そうして迎えた西武4年目の1982(昭和57)年、監督は根本陸夫氏から広岡達朗氏へ代わっていました。

 

それまでの3年間で選手が大幅に入れ替わり、設備環境面もガラリと変わり、優勝へ向けてのインフラ整備的な面もあったかと思いますが、5月には自身唯一の月間MVPを受賞し、7月は6年ぶりにオールスターに出場し、8月は通算1,000試合出場を達成しました。この年は319打数89安打(打率.279)で17本塁打58打点と規定不足ながら数字を残しました。

前後期制だった当時のパ・リーグで、前期には優勝を果たし、前年優勝した日本ハムとのプレーオフでは、江夏豊投手から2戦連続でタイムリーを放つなど大活躍で、プレーオフMVPを受賞しています。

こうして念願のパ・リーグ優勝をプロ14年目にして初めて経験し、中日との日本シリーズでも打率.417で2本塁打6打点の活躍で西武初の日本一に大きく貢献し、優秀選手賞を受賞し、「大舞台に強い男」の印象がグッと強くなってきたといえます。

 

翌1983(昭和58)年は実に7年ぶりに規定打席に到達し、105試合に出て397打数118安打(打率.297)で20本塁打67打点を記録しました。打率.297は打撃ランキングで11位とベストテンまであと一歩のところでした。

2年連続でオールスターに(最後の)出場を果たし、チームは2年連続リーグ優勝を遂げ、日本シリーズは巨人と対決しました。

ライオンズが福岡を出る遠因となった(と思っている)江川投手が投げる時は特に「燃えた」といい、シリーズでは2年連続の大活躍で、打率.429で1本塁打で日本シリーズMVPを受賞しました。

全国放送で知名度の高い巨人とのシリーズで大活躍し、「必殺仕事人」のあだ名はここで完全に定着したものと思います。当時ドラマの必殺仕事人シリーズも大人気を誇り、まさに黄金期にありました。

 

 

終末期

1983年まではほぼレギュラークラスで活躍してきましたが、1984(昭和59)年以降は出番が減ってきます。

1984年はわずか42試合で141打数29安打(打率.206)で5本塁打16打点と、通算150号本塁打は達成したものの、1979年から続いていた2ケタ本塁打は5年連続で途切れました。この年は田淵幸一・山崎裕之という先輩のベテラン選手も引退し、世代交代の激しい時期となっていた事もありました。1年だけいた江夏豊投手も退団し、大リーグへへ挑戦するなどもありました。

 

1985(昭和60)年はやや盛り返し、88試合で221打数53安打(打率.240)で10本塁打38打点で、2ケタ本塁打はこの年が最後となりました。

阪神との日本シリーズでは後半を中心に出場し、打率はあまり良くありませんでしたが本塁打を1本記録しています。

また日本シリーズでの敗戦を経験した唯一のシーズンとなりました。

 

1986(昭和61)年は59試合で153打数36安打(打率.235)で7本塁打22打点で、決して満足な成績ではないものの、まだやれるとの評価でオーナーからも「絶対に残せ」と監督への厳命があったといいますが、結局はこの年限り35歳で引退しました。

尚、この年の広島との日本シリーズにも普通に出場していて、第6戦でホームランを放っており、通算4度出たすべての日本シリーズでホームランを打っています。

 

 

---------------------

引退後は解説者やダイエーのコーチやスカウトなどを務め、韓国や台湾でも指導者として活動していました。

 

 

↓1985(昭和60)年の選手名鑑より。

前年(1984年)不振にあえいでいた時の成績と当時の通算成績が載っており、150号本塁打の節目を達成しています。

若い頃は酒豪でならしたようですが、ベテランになりこの時期は節酒中とありました。

この翌年に引退しています。