思い出のプロ野球選手、今回は「江夏 豊」選手です。

 

阪神の若きエースとして登場し、後半はストッパーとして、その地位の確立にも大きく貢献しながら200勝を挙げた大投手です。

 

【江夏 豊(えなつ・ゆたか)】

生年月日:1948(昭和23)年5月15日

経歴:大阪学院大高-阪神('67~'75)-南海('76~'77)-広島('78~'80)-日本ハム('81~'83)-西武('84)

通算成績:829試合 206勝158敗193S 3,196投球回 154完投 45完封 2,363奪三振 防御率3.24

タイトル:最多勝 2回('68、'73)、最優秀防御率 1回('69)、最多奪三振 6回('67~'72)、最優秀救援 5回('77、'79~'82)

主な表彰:沢村賞 1回('68)、ベストナイン 1回('68)、最優秀投手 1回('68) 

記録:、オールスター出場16回('67~'76、'78~'83)、オールスター9者連続奪三振(オールスター記録)、ノーヒットノーラン('73.8.30)

 

●個人的印象

 

タイトルにもあるように5球団を渡り歩いた「渡り鳥人生」のキャリアを送っていましたが、世代によってイメージが全然違う投手だと思います。

 

阪神のエースのイメージが強い方が一番多いのかな??と思いますが、自分的には「え!最初阪神だったの??」という感じで、個人的には「広島の投手」です。

自分が野球をテレビで見始めた時に広島にいたので、その巨人戦なんかで中継していた時に出てきていましたが、後半になると出てきて、ピシャッと抑えて…いつもそんな感じでした。

 

●セーブを覚えたキッカケ

 

自分が「セーブ」という言葉を覚えたのは、この投手がキッカケであり、彼の登板時に○勝○敗○セーブ、と表示されていましたが、そこに3セーブとか出ていて、どういう意味?となって、そして試合が終わるとその「セーブ」を彼自身が挙げていたので、完全に江夏投手きっかけで覚えた「セーブ」の言葉でした。

 

●初期キャリア

 

失礼かもしれませんが、意外にも?ドラフト1位入団で、しかも複数球団競合という、そんな高校級だったイメージがなく(リアルで知りませんが…)、1966(昭和41)年の阪神ドラフト1位入団で、翌67年からデビューでしたが、高卒1年目で12勝13敗の成績を挙げています。それも230回投球で防御率2.74でした。これで新人王を獲っていないのが不思議でしたが、この年は武上四郎選手が獲得しました。

 

 

●超絶!シーズン401奪三振

 

高卒1年目から活躍した江夏投手のキャリアハイは、翌2年目1968(昭和43)年でした。

25勝12敗で防御率2.13という驚異的な成績に、奪三振がナント401!でした。

大体このタイトル(当時は連盟表彰なし)を獲るには200以上が目安になる感じですが、300越えるのも稀で、400越えるって、今では絶対に出ない驚異的な記録ですね。

 

この年の大活躍で一躍、球界を代表する投手へと20歳にしてのし上がった江夏投手でした。

 

●3年目から

 

3年目1969(昭和44)年は勝ち星は10減って15勝10敗となったものの、防御率1.81で最優秀防御率のタイトルを獲りました。

その後10勝代と20勝代を繰り返しますが、1972(昭和47)・1973(昭和48)年は連続20勝していす。

この間、1971(昭和46)年にはオールスターで9連続奪三振を達成しました。その後巨人・江川選投手が目指しましたが、惜しくも8連続で終わり、これはこの時の江夏投手の記録を目指したものでした。

 

また1973年は史上初の「延長での」ノーヒットノーランを達成しています。

これは中日戦で、相手の松本幸行投手と延長11回まで0-0で投げ合い、最後に江夏投手自身がサヨナラホームランを打って劇的に決めた、あまりにも類稀なノー・ノー劇でした。

 

その頃にはベテランの各投手が引退し、偉大な大先輩・村山実投手も引退し、すっかりエースの座に就いた江夏投手でしたが、1974(昭和49)年頃から成績が降下していきました。

 

先発だけでなく抑えにも回り、初めて導入された「セーブ」も阪神時代から挙げていたのを知りませんでしたが、この年が12勝14敗「8S」を挙げていました。翌1975(昭和50)年も6S記録していて、防御率はこの年初めて3点台に落ちました。それまでがずっと規定投球回を大きくクリアして、2点台までしかなかった、というのがすごすぎるんですが…。

 

とにかく1974年頃から血行障害やスタミナの低下等で長いイニングが投げられなくなってきたといい、しかし抑えに回る事を良しとしていなかった、という少々厳しい状況になっていました。

 

●ついにトレード

 

現役18年間のうち前半9年阪神に在籍し、後半9年を4球団に在籍したという、後半は激動の球歴を歩むことになります。

 

長いイニングを投げられず、抑えに回る気もない、そんな状況で、ついに南海へのトレードを通告されました。といって、個人的に阪神・江夏はリアルで知らないものの、動画ではよく見ていましたが、最も知らないのは「南海・江夏」でした。動画でもほとんど見た事がないもので…。

 

かくして1976(昭和51)年から、野村兼任監督が率いる南海へ移籍し、この年までは規定投球回数をクリア(148 1/3回)していましたが、6勝12敗9Sと、入団以来初の一ケタ勝利に終わりました。といってもこの年は20試合も先発で投げており、9Sを挙げながらもまだまだ「先発投手」でした。阪神以外で、先発経験があったのは南海のみでした。

 

翌1977(昭和52)年から本格的に抑え投手としてのキャリアを積み重ねていく事となります。

先発は3試合務めましたが、芳しいものではなく、野村監督の「リリーフで野球界に革命を起こしてみないか」の一言でリリーフ転向を決意したといわれます。それまで、阪神時代の末期からリリーフ打診をされては意に介さない、断るなどを続けてきたのが、これを機に転向し、この年が先発最後となりました。4勝2敗19Sを挙げ、「抑え投手」「ストッパー」とその地位を向上させていきました。

 

●優勝請負人

 

阪神、南海と優勝には無縁の選手キャリアでしたが、1979(昭和54)~1981(昭和56)年に3年連続で広島、日本ハムで優勝を経験し「優勝請負人」と呼ばれるようになったのも、彼の野球人生後半ならではの事でした。

 

南海で野村監督解任に伴い、わずか2年の在籍で1978(昭和53)年に広島へ移籍する事となり、翌年から2年間20S以上を挙げて、広島の連覇に大きく貢献します。チームの優勝や日本一に抑え投手が大きく貢献するのも、この時期辺りからで彼の抑えとしての出現/活躍によるところ大でした。

中でも近鉄との日本シリーズで「江夏の21球」エピソードはあまりに有名で、抑え投手としての彼のエピソードで最も有名といっても過言ではないものでした。

 

●流浪

 

広島に3年間在籍後は日本ハムへ移籍しました。当時の優勝チームの抑え投手を放出するという大胆なトレードでしたが、日本ハムから広島へはこれまた当時のエースだった高橋直樹投手が交換相手となりました。彼はセ・リーグが合わなかったのか広島の1年と少しでわずか2勝しかできず、その後西武へ移籍して復活する事となります。

 

江夏投手は日本ハム・大沢監督と相性が良かったのか活躍を続け、しかし監督が1983(昭和58)年に勇退する事になると風向きが変わります。

 

大沢監督の勇退は、江夏投手の日本ハムからの放出とイコールとなり、結局西武へ移籍します。当時のセーブには、江夏投手と救援タイトルを争う森繁和投手がいたにも関わらず、当時から不思議なトレードと思って見ていました。

 

●西武とメジャー挑戦

 

1984(昭和59)年西武へ移籍した江夏投手もなんだかんだでさすが、途中まで8Sを挙げていましたが、夏過ぎから出番がなくなり、結局そのままシーズンが終わってしまいました。

 

この年西武では田淵選手も同様にフェイドアウトした上で引退となり、2,000本安打を記録した山崎選手も引退、江夏投手は宙ぶらりんのまま退団となり、大リーグのミルウォーキー・ブリュワーズヘの挑戦は当時大きな話題になりました。

 

野茂投手がメジャーへ挑戦する10年も前の事で、今みたいに日本の投手が評価されていない時代でした。途中まで好結果でしたが、次第に打ち込まれ結局は失敗に終わり、ここで正式に引退となりました。NPBでは1984年、36歳でのシーズンが最後という事になります。
 

前人未到の200勝越えにして、あとわずか7Sで通算200Sというところで、残念ながら達成なりませんでした。奪三振もあと13で、3,000の大台にのるところでしたが、日本でのキャリアを積み重ねることなく終え、彼が活躍するには球団を選ぶ必要があったのかと思いますが、誇り高き投手として潔くユニフォームを脱いだのは、最後までカッコ良かったと思います。

 

 

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