思い出のプロ野球選手、今回は「野村克也」選手です。

 

本記事でアップする最高齢の選手にして、初めて故人の御紹介でもあります。

最高齢というのも、個人的に「現役時代を見た事のある最も早く生まれたの選手」という事で、昭和ひとケタ生まれの選手の現役時代は全く知りませんし、1930年代生まれの選手もほとんど知らないのですが、野村選手は45歳まで現役を務められていたので、少しだけ現役時代を知っています。

 

現役引退後は、解説者として独特の「野村スコープ」を用いた解説や、ヤクルトを始めとして監督を務め「ID野球」を普及させ、アマ野球にも参画したり、公私にも色々とニュースや話題を提供した存在でしたが、ここでは現役時代にスポットを当てて、記憶のある事や記録の紐解きなどの形で綴っていきます。

 

【野村克也】

生年月日:1935(昭和10)年6月29日

没年月日:2020(令和2)年2月11日(84歳没)

経歴:峰山-南海('54~'77)-ロッテ('78)-西武('79~'80)

通算成績:3,017試合 打率.277 2,910安打 657本塁打 1,988打点 117盗塁

タイトル:首位打者 1回('65)、本塁打王 9回('57、'61~'68)、打点王 7回('62~'67、'72)

     ※三冠王('65)

主な表彰:MVP 5回('61、'63、'65、'66、'73)、ベストナイン 19回('56~'68、'70~'73、'75、'76)、Gグラブ賞 1回('73)

 

 

ここでは南海時代の写真をあげていますが、個人的に野村選手は「ロッテの選手」でした。

自分が野球を見始めたのがこの頃だったので、そういうイメージなのですが、その後西武へ移って1980(昭和55)年に、45歳で現役を引退しています。昭和20年代から50年代までプロ野球選手として活躍してきた稀有な選手で、実に27年間の現役生活でした。

 

当初は、1954(昭和29)年に南海ホークスにテスト生で入団し、1970(昭和45)年から35歳にてして捕手との「兼任監督」の座に就いて、南海を退団する1977(昭和52)年までずっとこの地位にあったというのですが、その頃の事はリアルでは全然知りませんでした。

 

昔アニメの再放送で「侍ジャイアンツ」だか「巨人の星」だかで、「野村」が出てきましたが、そこでの彼は南海の監督で、すごく違和感があったのを覚えています。自分の中では「ロッテの選手」である、その野村がなんで南海の監督?しかもキャッチャーもやってるの??ナニコレ?みたいな感じでした。マンガだから適当に脚色してんのかな?と子供心に思ったり(笑)まさか史実に基づいて描かれていたは…、という感じでした。

 

 

現役生活の成績は下表の通りです。

監督としての成績はここでは触れません。

 

テスト生として入団し、いつ首を切られてもおかしくない中で、輝かしすぎる実績を誇っていますが、やはり当初はその背景からか2年間ほとんど出番がなかったようで、実質成績を残していくのは3年目からでした。

 

記録面ではまず3,000試合出場を突破したことで、これは2015(平成27)年に谷繫元信選手に抜かれるまで35年間プロ野球記録でした。

 

打撃タイトルは、首位打者こそ1965(昭和40)年の1回きりでしたが、本塁打王9回、打点王7回とパ・リーグのタイトルホルダーの常連で、大スター選手でした。

本塁打は1961(昭和36)年から1968(昭和43)年まで8年連続で、これはパ・リーグ記録であると共に、1960年代のホームラン王は殆ど野村選手の独占状態でした。打点王も1962(昭和37)年から1967(昭和42)年まで6年連続でこれもパ・リーグ記録です。

そして、一度きりの首位打者を獲った1965年は「戦後初の三冠王」となりました。

 

ベストナインは実に19回も獲っていて、文字通りパ・リーグの看板選手な訳ですが、セ・リーグには王貞治という5歳下の大打者がいて、これが大きな壁になっており、本塁打も実に657本というNPB2位の大記録を持っていますが、王という存在が大きすぎて、また長嶋という同期の存在が華々しすぎて、いつもその陰に隠れている状態を自ら「月見草」と例えていたりしました。

ちなみにGグラブ賞が1回だけなのは、表彰制度が始まったのが遅く、当時年齢的にも30代後半になっていて、縁深いタイトルにはならなかった、というところでした。

 

しかし彼の凄いところは、この打撃成績だけでなく、これを捕手という司令塔のポジションでこなした点でしょう。後に教え子にもなる古田敦也という存在も同じようになりましたが、守備の激務を負いながらも打撃の要を担うという役割、そして兼任監督としてゲームに出ながら選手を束ねるという、これだけの事ができる選手はなかなかいないですね。

 

自分が知った野村克也という選手は、既に40歳を過ぎた大ベテランで、監督でもない一選手で、そんなすごい打撃を誇った訳でもなく、なにより規定打席にも届かないレギュラーではなかった選手なので、すごい選手だという事は引退してから知りました。

 

1979(昭和54)年に、この年から「西武」となって関東へ出てきた新生ライオンズへ移籍します。

それまで「クラウンライターライオンズ」として福岡にいた球団が、福岡を去り関東へ進出するという事で、選手の入替もかなりおこなわれました。中でも電撃的だったのは阪神から田淵幸一選手を大型トレードで獲得した事でした。その同じ捕手である野村選手もまた西武へと移ります。

南海を出た最後の3年間は、半数程度の試合数しか出ていませんが、それでもその存在感の大きさは随一で、現役をやっているというだけでもすごかったんだろうなと想像します。当時子供だったのでそんな事は思いもしませんでしたが。

 

引退した1980年は、長嶋監督解任、王選手現役引退とモロに被ってしまいましたが、それでも西武のユニフォームを着て引退セレモニー的なものを見た覚えがかすかにあります。45歳まで現役ってすごいなと思っていた記憶がうっすらと。

 

ということで今回は野村克也選手でした。