思い出のプロ野球選手、今回は山崎 裕之選手です。 

 

高校時代に「長嶋二世」と評されてプロ入りし、東京時代からのオリオンズ、西武と在京球団に所属と、西武では常勝軍団に変わりゆく時期に正二塁手として活躍し、2,000本安打も達成した名選手です。

 

【山崎 裕之(やまざき・ひろゆき)】

生年月日:1946(昭和21)年12月22日

入団:東京('65・ドラフト以前)
経歴:上尾高-東京・ロッテ('65~'78)-西武('79~'84)

通算成績:2,251試合 打率.265 2,081安打 270本塁打 985打点 137盗塁

表彰:ベストナイン 5回('69~'71、'74、'80)、Gグラブ賞 3回('77、'80、'81)

節目の記録:試合-1,000試合出場('74.5.21)、1,500試合出場('78.5.27)、2,000試合出場('82.8.17)

      安打-1,000本安打('75.7.13)、1,500本安打('79.10.10)、2,000本安打('83.9.13)

      本塁打-100号('73.4.20)、150号('76.8.29)、200号('80.4.30)、250号('83.4.22)

オールスター出場 11回('69、'70、'72~'77、'80、'81、'83)

サイクルヒット('71.8.14)

 

 

●個人的印象

西武のベテラン二塁手、です。

元もとライオンズの選手だと思ってて、ロッテ時代を知りませんでした。

 

同じ1979(昭和54)年に阪神から田淵幸一選手が、同じロッテから野村克也選手が、新生・西武ライオンズへ移籍しており、彼らの移籍は覚えがありますが、山崎選手が移籍で西武へ来た記憶がなく、元々居たんだと思っていました。

あと、イメージ的に大卒で豊作ドラフトの時に入ったのかと思っていましたが、高卒でかつドラフト制度以前の入団だった、というのが意外でした。

 

●長嶋二世

大器が現れると決まって「○○二世」と評されますが、彼がまさにそれだった訳ですね。

高校は埼玉の古豪・上尾高校ですが、2年次の春の選抜大会に出場し、この時が上尾高校の甲子園初出場でした。この時は控えでリリーフ投手として登板しています。そして意外にも?上尾高校は1984(昭和59)年夏の大会を最後に、甲子園から約40年遠ざかっています。

 

●東京オリオンズ入団

高校卒業後、まだドラフト制度がなかった1965(昭和40)年に、当時の東京オリオンズに入団し、「長嶋二世」の触れ込みがあってか当時かなり破格の待遇で入団したといわれています。高卒新人で背番号2を希望してそのまま通ったのも、その表れかと思います。

 

●当初はショート

高校時代は控え投手、遊撃手として出ていたという事で、ショートのポジションで高卒1年目から出番を与えられましたが、189打数36安打で打率.190、2本塁打14打点の成績でした。ただ盗塁は9個記録しています。

2年目1966(昭和41)年はほとんど出番がなく、8安打のみでプロ20年で最低の成績に終わりました。

3年目1967(昭和42)年からショートの定位置を得て、113試合に出場し367打席に立ち、もう少しで規定打席到達というところでした。76安打で7本塁打34打点、しかし打率は.224とここまでは低率での推移でした。

 

●転機は二塁コンバート

4年目1968(昭和43)年に初めて規定打席に到達し、初めて100安打を越え(107安打)、打率は.255をマークしました。ホームランは初めて2ケタ14本を記録しました。

 

しかしショートではエラーが多かったようで、チームが「ロッテ」に変わった1969(昭和44)年から二塁へ回り、守備に安定感が出てきただけでなく打撃も向上し、初めてオールスターに出場し、現役生活で唯一規定打席で3割越え(.301)をマークし、更に安打数149は現役生活最多でした。またこの年初めてベストナインにも選ばれています。

以後、ロッテの正二塁手として毎年規定打席に到達し、着々とキャリアを積み重ねてきました。

 

●ロッテ優勝に貢献

1970(昭和45)年には、チームが大毎オリオンズ時代の1960(昭和35)年以来10年ぶり、自身初のリーグ優勝を経験し、そのレギュラーメンバーとして活躍、25本塁打75打点と本塁打はキャリアハイ(タイ)を記録し、2年連続でオールスターに出場し、ベストナインにも選出されています。

 

1971(昭和46)年は3年連続でベストナインを受賞し、21本塁打で2年連続20本台を記録し、打率はそれほどでもないながら1発のある打者としても君臨していました。またこの年盗塁はキャリアハイの17個を記録しています。またこの年は「サイクルヒット」を記録しており、'70年代最初のサイクルヒット達成者となりました。

 

1972(昭和47)年から6年連続でオールスターに出場し、すっかりパ・リーグを代表する選手となりました。

節目の記録として、1973(昭和48)年に通算100号本塁打、翌1974(昭和49)年は通算1,000試合出場を達成しています。

 

その1974年はロッテで2度目の優勝を果たし、セ・リーグは巨人の優勝が9年連続で途絶え中日が覇者として日本シリーズで戦いましたが、これを制し自身初の「日本一」を達成、シリーズでは4番打者として優秀選手賞を受賞する活躍を見せ、日本一に大きく貢献しました。シーズン中は主に5番を打っていましたが、後半時々4番を打つこともあり、それくらいの主力選手だったのですね。ちなみにチームメイトで同じ内野の有藤通世選手は同級生ですが、彼は主に3番を打っていました。

 

●昭和50年代

1975(昭和50)年には通算1,000本安打を達成し、この時期は15本前後の本塁打、60前後の打点を毎年コンスタントに記録していた頃で、1976(昭和51)年には通算150号本塁打を達成しています。

1977(昭和52)年には初のGグラブ賞を受賞しました。二塁手は桜井輝秀(南海)、マルカーノ(阪急)といった面々が受賞しており、初期によく受賞していたベストナインは1974年を最後に獲れていませんでしたが、この年は代わって守備面が評価された格好となりました。

1978(昭和53)年は通算1,500試合出場を達成しています。

 

●新生球団へ

1978年オフ、それまで輝かしい実績を誇ってきた山崎選手でしたが、ロッテ新体制の構想から外れ、翌年から新生球団として発足する「西武ライオンズ」へのトレードが発表されました。

それまで福岡にいた「クラウンライターライオンズ」が所沢へ移転し、「西武」として新生球団となるにあたり、田淵幸一選手を衝撃のトレードで獲得、43歳となって「生涯一捕手」を標榜していた野村克也選手をロッテから獲得し、そんなチーム再建の目玉として獲得されたベテラン勢の一人でした。田淵選手とは同い年で、野村選手とは同じチームからの移籍となりました。

 

埼玉出身という事もあり、新生球団が埼玉へ移転する事が彼にとっての魅力であったかもしれません。今でこそ千葉定着ですが、それまでのロッテは仙台にいたり、色々流浪球団であったようで在籍最後の1978年に川崎へ移転したばかりでした。

 

移籍初年の1979(昭和54)年はケガもあり、レギュラー定着後初の規定打席未達に終わり、この年到達していれば記録上は16年連続到達だったかもしれなかったところが、この年に未達の為、1968~78年の11年連続で規定打席到達は途切れました。

しかしながら337打席で打率.332の高打率をマークし、95安打と規定到達者並みの安打数を記録し通算1,500本安打を達成しています。

 

●1980年代

1980(昭和55)年は見事復活し、34歳になるシーズンながら打率.294をマーク、25本塁打77打点の大活躍で、ホームラン20本台は9年ぶり(25本はキャリアハイ・タイ)、70打点台は10年ぶりとなり、通算200号本塁打を達成し中距離打者健在を見せつけ、この年は3年ぶりのオールスター出場とGグラブ賞、更に6年ぶりのベストナイン受賞(これが最後)とで、移籍先でも再び脚光を浴びる活躍を見せました。ベストナインとGグラブのダブル受賞はこの年のみでした。

 

続く1981(昭和56)年も22本塁打と2年連続20本以上を記録、この年はリーグ最多の97得点を挙げています。Gグラブ賞を2年連続で受賞し、この年が最後の受賞となりました。

 

●常勝チームと名球会

1982(昭和57)年には通算2,000試合出場を達成していますが、この年は西武ライオンズとして初のリーグ優勝、そして中日との日本シリーズを制し日本一にも輝きました。自身8年ぶりの優勝&日本一の経験となりました。

 

そして1983(昭和58)年、37歳になる年でしたが、打席・打数・得点・二塁打がリーグ最多となる活躍を見せ、また82打点はプロ19年目にしてキャリアハイ、148安打も1969年の149安打に次ぐ2番目に多いもので、まだまだベテラン健在ぶりをアピールしました。

この年は同い年の田淵選手も大活躍し、新生・西武の目玉としてきた二人が37歳にして顕著に花を咲かせたともいえます。日本一も2年連続で達成し、西鉄末期から弱小となっていた球団がすっかり常勝チームへと変貌していきました。

この年初めに通算250号本塁打を達成し、最後のオールスター出場(実に11回目)を果たしましたが、9月にはロッテ・仁科投手から通算2,000本安打を放ち、名球会入りを果たしました。最後のベストナイン受賞はこの年でした。

 

●引退

まだまだバリバリやれるだろう、40歳までは現役ができるのでは?という見方もされたかと思いますが、1984(昭和59)年は打撃低迷もあり、更にはチームの優勝が厳しくなったことで若手への戦力切替が顕著となりました。

 

当時新人だった辻発彦選手が二塁を守る事が増え、世代交代に押し流されるような形で出番を減らし、結局この年に現役引退を表明しました。

 

12月生まれにつき誕生日は来ていませんが、38歳になる年で引退し、同い年の田淵選手も夏場以降出番がなく、結局この年で引退、更には田淵選手と阪神時代バッテリーを組んでいた江夏豊投手もこの年西武へ移籍してきていましたが退団し、大リーグへの挑戦をする事となり、大きなベテラン勢が一気に抜ける事となりました。

 

 

オールスターに11回も出場し、ベストナイン5回、Gグラブ賞3回も受賞し、ロッテ・西武で多く優勝に貢献し、何より2,000本安打を達成し名球会に入っている山崎選手ですが、打撃タイトルをひとつも獲っていないのがただただ不思議でした。

 

●1981(昭和56)年の選手名鑑です。

 西武へ移籍3年目の頃でした。同じ年に新生・西武へ移籍してきた田淵幸一選手とは同じ35歳です。
 イコール西武ライオンズ3年目ですが、旧クラウン勢は既にほとんどおらず、短期間で一掃された感が

 ありました。

 また、この年、石毛宏典選手や秋山幸二選手が新入団となっていますが、秋山選手は当初内野手登録

 でした。

 

 

 

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