思い出のプロ野球選手、今回は「田淵 幸一」選手です。

 

数あるホームランバッターの中でも、特別にきれいな放物線を描く独特のホームランは「アーチスト」と称され、またホームラン率のかなり高いバッターでもあり、根っからのホームランバッターといわれた選手です。

 

【田淵 幸一】

生年月日:1946(昭和21)年9月24日

経歴:法政一高-法大-阪神('69~'78)-西武('79~'84)

通算成績:1,739試合 打率.260 1,532安打 474本塁打 1,135打点 18盗塁

タイトル:本塁打王 1回('75)

主な表彰:新人王('69)、ベストナイン 5回('72~'76) 、Gグラブ賞 2回('73、'74) 

 

「がんばれ!!タブチくん!!」で知られる、自身が主演アニメキャラになった稀有な人物です。
野球マンガなどで、架空の人物を主人公にして、その周囲に実在する野球選手を配するモノは多数ありますが、自身が主役にされたということで、それだけ個性がユニークなキャラクターだったことが分かります。

 

'70年代を中心にミスター・タイガースと呼ばれ、ホームランを打ちまくった大打者のイメージがものすごく強いのですが、意外にも?!2,000本安打を達成しておらず、通算安打は1,532にとどまっています。なのでのこのシリーズ記事で初の名球会入りしていない選手を取り上げている事となります。

 

通算本塁打数474本は歴代11位ですが、名球会入りしていない(2,000本安打到達していない)選手の中ではトップです。逆にこれだけホームランを打っていて名球会入ってないのか?という感じでした。

 

1969(昭和44)年にドラフト1位で阪神に入団し、この年捕手として初の新人王となりました。という事で、スター街道を走っていくエリート選手の扱いでしたが、16年間の現役生活で規定打席に到達したのは9回だけでした。
生命に関わる厳しい死球を浴びたりなど、とにかく毎年のようにケガや病気に悩まされ、この事により常時試合出場できず、規定打席に届かない事も多くなり、これが通算実績が大きく伸びなかった要因となりました。

 

個人的に野球をTVで見始めた時の田淵選手は、阪神の4番バッターでした。しかもその当時の阪神ってそんな弱いチームではなく、そんな中で田淵選手がいて、その後を掛布選手がついてくる…そんな感じで、掛布選手は「若トラ」と呼ばれていました。

 

代名詞になったホームランは1972(昭和47)年から30本を越えるようになり、1974(昭和49)年には45本を打って、本塁打王のタイトルを獲ってもおかしくないレベルですが、やはり当時のセ・リーグには「王選手」の壁が高くてタイトルが獲れず、翌1975(昭和50)年に43本で初めて(最初で最後の)本塁打王を獲得します。この時は王選手の不調もありました。

 

打率が総じてあまり高くなく、通算打率は.260で、年度成績でも3割に到達したのが本塁打王獲得した1975年の1度きりでした。打点は意外にも100打点越えが1度もありませんでした。

 

そんな阪神の怖いバッターだった田淵選手の「トレード」は当時小2でしたが、すごくビックリしました。

1979(昭和54)年より、それまでの「クラウンライター・ライオンズ」が西鉄時代からの本拠地/福岡から埼玉へ移転し、新生「西武ライオンズ」になるにあたって、色々な新戦力を取り入れようという事の一環のようでしたが、子供心にも衝撃でした。

阪神から田淵選手と先発の一角を担っていた古沢憲司投手の2人と、西武からは当時新進気鋭でレギュラーを掴み始めた真弓明信選手や独特のバットを背負う打ち方のベテラン・竹之内雅史選手、レギュラー捕手の若菜嘉晴選手など4人の大型トレードでした。

子どもだっただけに余計に「阪神の田淵」が急にいなくなる事が信じられませんでしたね。

 

そして新生・西武へ移籍して、新球団の目玉として、その象徴的な存在となります。

ちなみに同じ年にロッテから野村克也捕手も、おなじく西武へ移籍してきており、同じ球団に「野村」「田淵」という捕手の夢の競演のような状態となっていきます。

 

その西武初年度の1979年はチームは最下位で、前クラウンのような最下位を走るような状況でしたが、個人としては27本塁打、69打点と振るわず、翌1980(昭和55)年にようやく本領発揮か43本塁打で打点は自己最多97打点を挙げます。

しかし数字的にはこの年が最後の現役規定打席到達で、西武で活躍していた割には1981年以降の最後の4年間は一度も規定に届かないまま終わっています。ポジションも当初の捕手から一塁手やDHなどへとシフトしていきました。

 

1982(昭和57)年にチームが初めて優勝し、チーム創設4年目で美酒を味わうことができましたが、それまで優勝と無縁だった阪神に居たので、移籍して優勝経験できたのが良かったと思います。

1983(昭和58)年も2年連続で優勝し、またこの年は本塁打の量産ペースが早く、久々に本塁打王のタイトルが獲れるか?と注目された年でした。

しかしながらまたも死球によるケガで戦列を離れ、37歳になる年という中で、わずか82試合で30本塁打していましたが、フルに出場できなかったことが大変悔やまれました。

 

1984(昭和59)年、途中まで14本塁打55打点を挙げていましたが、夏過ぎから出場する事がなくなり、結局その年にそのまま38歳で引退しました。

 

確かに現役後半は太ってきていて、子供心に見た時は太って見えましたが、後年よくよく見てたら「そんなにも太ってなかった」と思い、むしろハンサムな選手とすら思うようになりました。アニメの印象はやはり子供に与える影響は大きいですね。

 

阪神の豪打の捕手で、この人もまたもみあげの印象が強かったです。

 

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