思い出のプロ野球選手、今回は「有藤 通世」選手です。

 

飄々とした雰囲気の中に走攻守三拍子そろった選手として長年にわたり活躍し、オリオンズ一筋で「ミスター・オリオンズ」と呼ばれ、またそのニックネームの最も似合う選手でした。

 

【有藤 通世(道世)(ありとう・みちよ)】

生年月日:1946(昭和21)年12月17日

経歴:高知高-近大-ロッテ('69~'86)

通算成績:2,063試合 打率.282 2,057安打 348本塁打 1,061打点 282盗塁

タイトル:首位打者 1回('77)

主な表彰:新人王 ('69)、ベストナイン 10回('69~'75、'77、'80、'81)、Gグラブ賞 4回 ('72~'75) 

記録:オールスター出場13回('70~'82)、入団以来8年連続20本塁打

 

●ミスター・オリオンズ

 

ロッテオリオンズ一筋の現役生活18年間で、最もこの代名詞が似合う存在、それが有藤選手です。

当初は「有藤通世」でしたが、1975(昭和50)年から監督を終える1989(平成元)年までは「有藤世」表記としていました。個人的には後者のイメージが強いですね。

 

●ロッテドラフト1位入団

 

1968(昭和43)年ドラフト組で、ここでもさんざんというぐらい触れてきましたが、「大豊作」ドラフトの年でした。

ただ、同期には山本浩二、田淵幸一、星野仙一といった東京六大学のスーパースターが居並び、関西の大学出身の有藤選手はそれほど有名な存在ではなかったようです。ちなみに高校時代は2年、3年と連続で夏の甲子園に出場しており、3年次は見事全国制覇しましたが、初戦で死球退場しており、仲間の優勝を病院で見ていたといいます。

 

そんな中で東京オリオンズから1位指名を受け入団、チームは翌1969(昭和44)年から「ロッテ」となり、指名された時は「東京」で、新人時代は「ロッテ」でした。

背番号はいきなり「8」をもらい、これを引退まで背負い続けていきます。

 

●1年目から活躍

 

1年目から108試合に出て、規定打席に到達し打率.285 21本塁打 55打点で、新人王を獲得しました。

この活躍を以後も続けていく訳ですが、これもあって「入団から○○」の記録が色々と出てきます。

有名なのが「入団から8年連続20本塁打」で、これは我々が野球を見始めた頃に、何かの雑誌で目にした事があります。

この記録は8年目1976(昭和51)年まで続きますが、皮肉な事に首位打者のタイトルを獲った1977(昭和52)年に16本塁打に終わり、途絶える事となります。

それでも2ケタ本塁打は、引退前年の1985(昭和60)年まで入団以来17年連続で記録しています。

通算348本塁打していますが最高は29本で、初期は毎年コンスタントに20本台を記録していました。

 

また走れる選手でもあり、盗塁も通算282個を記録しています。その中で1970(昭和45)年から1983(昭和58)年まで14年連続で2ケタ盗塁をマークしています。

安打で見ると、100安打以上を入団以来15年連続で記録しており、これも素晴らしい記録です。

 

●優勝と改名

 

2年目1970年と6年目1974(昭和)年の2度、優勝を経験します。

現役時代は阪急黄金時代から西武黄金時代に入る頃で、あまり優勝とは縁がなく初期2回のみで、MVPと獲れませんでした。

1970年の日本シリーズでは巨人に敗れますが、1974年は中日を破って日本一になり、これが唯一の日本一美酒経験でした。

 

1975(昭和50)年途中に有藤世へ登録名を変更します。

自分の中ではむしろこの表記のイメージですが、死球が多い等で知り合いに勧められてというのがあったようです。

 

●チームの顔

 

1978(昭和53)年頃に、小学館の学習雑誌の付録?で見たチームごとの選手名鑑で、チームの顔的存在が1名ピックアップされていました。ロッテは有藤選手だったか村田兆治投手だったか忘れましたが、投打の顔がこの二人でした。

 

●三塁手から外野へコンバート

 

1984(昭和59)年頃、それまで三塁手だったのが、外野へコンバートされました。

少し前から衰えも囁かれるようになり、当時の稲尾監督時代外野を守っていたのを覚えています。三塁はその後落合選手が入っていました。

 

●2000本安打

 

外野コンバートの2年目になる1985年は2000本安打のかかるシーズンでもありました。

「あと38本で2000本」という事で、これに照準を当てたように見えました。

正直、通過点というよりもかなりしんどかった印象でした。

 

2000本安打達成時か、その直前か忘れましたが、昔やっていた「ミユキ野球教室」で、彼の2000本安打について特集した回がありました。

 

7月に遂に2,000本安打を達成しますが、当時パ・リーグの大卒選手での達成は史上初でした。

彼の大卒同期は、素晴らしいスター選手がゴロゴロいるのに史上初って意外ですが、やはり大卒は高卒より4年遅れる事もあり難しいでしょうか。山本浩二選手は先に達成していますがセ・リーグであり、パ・リーグへ移った田淵選手は2000本に届いていないので、同学年や同年代には数多くいましたが、パ・リーグの大卒に限ると少なかったですね。

 

●引退

2000本安打達成を花道に引退か!と思っていましたが現役続行し、もう1年やって1986(昭和61)年に40歳になる年で現役を引退しました。山本浩二選手と同期入団で、引退年も同じになりましたがボロボロになるまでやっていた感がありました。

 

現役末期から兼任監督の噂もありながら、結局は選手専任で続いた為、監督人事が難航し、球団とは無関係な監督が就いては2、3年で離れていったのを繰返していた感がありました。

 

引退後すぐに監督になり1987(昭和62)年から3年間、ロッテを率いる事となります。そんな経歴もあり尚更「ミスター・オリオンズ」と呼ばれるわけですが、ロッテに始まりロッテに終わったロッテのスター選手でした。

 

 

 

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