思い出のプロ野球選手、今回は大島 康徳選手です。 

 

中日と日本ハムで活躍したホームランバッターで、44歳で引退するまで現役生活を26年務めた大打者です。

 

【大島 康徳(おおしま・やすのり)】

生年月日:1950(昭和25)年10月16日

没年月日:2021(令和5)年6月30日 (70歳没)

入団:中日('68・ドラフト3位) 
経歴:中津工高-中日('69~'87)-日本ハム('88~'94)

通算成績:2,638試合 打率.272 2,204安打 382本塁打 1,234打点 88盗塁

位置:内野手、外野手 投打:右右 現役生活:26年
タイトル:本塁打王 1回('83)、最多安打 1回('79) …当時表彰なし

表彰:月間MVP 1回(1984年6月)

規定打席到達:12回(72、'77~'79、'81~'84、'88~'91)

オールスター出場 4回('77、'79、'83、'84)

記録:1イニング2本塁打 2回('72.8.2、'77.8.9) ※2回達成は史上初

   5試合連本塁打('79.10.8~10.17)

   史上最高齢満塁本塁打 43歳6ヶ月('94.5.4)

   シーズン最多代打本塁打 7本('76)

節目の記録:出場-1,000試合出場('80.4.12)、1,500試合出場('84.4.22)、2,000試合出場('88.6.28)
      安打-1,000安打('81.9.11)、1,500安打('86.4.16)、2,000安打('90.8.21)

      本塁打-100号('78.9.28)、200号('83.4.29)、300号('86.8.15)、350号('89.8.13)
      打点-1,000打点('88.9.23)

 

 

 

個人的印象

とにかく中日の強打者、です。

80年代半ばの中日において谷沢健一、宇野勝といった選手と並ぶ強打者陣は破壊力抜群で、特にこの大島選手は「一発」の魅力にあふれた「怖い」バッターの印象が強かったです。打率的なものはともかく、とにかく一発の怖さに満ち溢れたバッターでした。

日本ハムへ移籍してからは、すごくベテランの風格を感じましたが、往年の強打者が年を取りながら、中日時代のような一発の怖いバッターという感じから少し変わって、しぶとい打撃で高齢になってもレギュラーを張っていた感がありました。

 

 

プロ入りまで

高校は大分県の中津工業高校ですが、中学までは全く野球経験がなかったにも関わらず、高校ではエースで4番だったといいます。

甲子園には縁がありませんでしたが、大分県大会で大きなホームランを打ったところを中日スカウトの目に留まったそうです。

後に西鉄に入る事になる太田卓司選手などと共に「九州三羽烏」と、その名声は轟いていたといいます。

1968(昭和43)年のドラフト会議で中日から3位指名を受けて入団しました。この時の1位は、あの星野仙一投手でした。

ドラフト3位というものの、入団テストを受けて合格したもので、また当初は「投手」として入団したものの、入団して間もなく失格の烙印を押され野手へ転向しています。

 

 

初期キャリア

高卒で入団し背番号は「40」となりましたが、最初の2年間は一軍出場なしでした。

ただ、二軍では1年目から4番を任され、将来の主軸として期待されていたといいます。

3年目1971(昭和46)年に一軍デビューを果たし、74試合に出場し241打数49安打(打率.203)、7本塁打22打点と、打率は低いものの、それなりの出番を得て実績を残しました。

 

 

初の規定打席到達も…

4年目1972(昭和47)年には、レギュラーポジションを得て124試合に出場し387打数89安打(打率.230)、14本塁打38打点初めて規定打席に到達しました。

打率は低く、100安打には到達しませんでしたが、初の2ケタ本塁打を放ち、1イニングに2本ホームランを打つ記録も残しました。

 

ここから不動のレギュラーへ、といきたいところでしたが、外野には井上弘昭選手や外国人選手がいたりで、なかなかすんなりと毎試合先発には起用されず、年々先発起用される試合数が減っていきました。

 

1973(昭和48)年は、わずかに規定打席を割り込みますが、316打数76安打(打率.241)で13本塁打42打点、出番は少しは減ったものの、前年に近い活躍を見せ、初めてスタメンで4番にも起用され、30試合を4番として務めました。

 

 

初めての優勝

1974(昭和49)年は更に出場機会が減って、112試合で256打数66安打(打率.258)で11本46打点と規定打席には遠く及ばない形となりました。それでも打率は年々上がり、安打は減っていますが、打点は増えていってるという珍現象になっていました。

 

基本外野を守っていましたが、毎年数試合は一塁を守る格好でしたが、この年から三塁でも先発起用され始め、ここからしばらくは先発では三塁が主戦場となり、のち一塁へ移るなど内野を主に守るようになります。優良外国人といわれたマーチン選手が長年外野のポジションに座った事も影響していると思います。ただし三塁も島谷金二選手がいた為、出番は限られていました。

 

この年は中日が巨人のV10を阻止してリーグ優勝に沸き、自身初の優勝経験となりました。

以前に正岡真二選手の記事で書きましたが、中日が優勝を決めた後、巨人との試合が残っていて、優勝パレード参加組と巨人戦参加組に分かれる事となり、巨人戦は「若手主体で」とのチーム方針で、24歳になる直前だった大島選手は巨人戦に出場する事となりました。この時の「パレードにも出たかった」想いが後年になってもずっと燻っていたといいます。

 

巨人戦は10月14日、スーパースターであるミスターこと長嶋茂雄選手の引退試合でした。ダブルヘッダーで行われ、2試合とも4番に起用されながらも、ともに4打数無安打に終わり、この2試合目の最後の打者にもなりました。逸話としてサードゴロを打つ、と相手(巨人)捕手に囁きながら、うまく打てずに逆方向のライトライナーで終わったといいます。「サードゴロで最後、長嶋さんが捌いてゲームセットになればカッコいい」と思ったそうです。

試合後のセレモニーでは、相手チーム代表として長嶋選手へ花束を渡す大役を果たしており、「長嶋さん引退後の次世代を担うサード」として指名され、かなり恐縮したといいます。

 

ロッテとの日本シリーズでは、ほぼ先発出場をしましたが、前半は不発で無安打を重ね、第4戦で初安打、これがタイムリー二塁打になりました。ロッテに日本一を奪われた最終第6戦では途中出場ながらホームランを放っています。

 

 

代打男へ

1975(昭和50)年は、更に先発出場が減り、ここから2年間は途中出場や代打での活躍の方が目立つようになります。

この年は1972年に規定打席に到達して以来初めて100試合を割り込み、91試合の出場で162打数45安打(.278)で4本塁打23打点に終わりました。一軍初出場した1971年から中日最終の1987年までの17年間で最も少ない試合数、安打、打点、本塁打等数字的には最も低い年となりました。ただし、打率だけは1971年以降ここまで5年間右肩上がりでした。本塁打ひとケタはこの後中日時代には一度もありませんでした。

 

翌1976(昭和51)年は少しは出場機会が増え、2年前とほぼ同等に戻りました。123試合に出て251打数63安打(打率.251)で11本塁打33打点とし、この年はシーズン代打本塁打7本という記録をつくります。

この記録は、今も日本プロ野球において単独1位の記録として残り続け、また通算代打本塁打は20本記録しており、これは日本プロ野球2位タイ(同数に町田公二郎選手)の記録として残っています。

 

 

レギュラー復活

1977(昭和52)年は、背番号がレギュラークラスの「5」になり、実に5年ぶりに規定打席に到達しました。

これは当時サードにいた島谷選手がトレードで阪急へ移籍した事が大きく、代わりに入った森本潔選手は活躍はしましたが年齢的にも34歳であり、限定的なものでした。

そんな事もあり、実に100試合以上三塁のスタメンに起用されました。

初のオールスター出場を果たしたこのシーズンは126試合に出場し、433打数144安打(打率.333)で27本塁打71打点とまさに本領発揮の大活躍で、打率.333は特筆すべきもので、プロ9年目で初の100安打越えが144安打という素晴らしさでした。

この年から5番に座る事が多くなり、それまでは6番など下位打線主体でしたが、以後はクリーンアップを打つバッターとしての色合いが濃くなります。

 

また、5年前に一度記録した「1イニング2本塁打」2度目の達成となり、これは1度記録した選手は数人いますが、2度目は史上初の快挙でした。その後も山崎裕之選手(当時西武)が達成したのみで、プロ野球史上2人しか記録していない快記録です。

大島選手にはホームランがらみの記録が数多くあるので、実際以上にホームランバッターのイメージが強いものと思います。

 

1978(昭和53)年は欠場もあり98試合出場でしたが規定打席にはギリギリ届いて352打数99安打(打率.281)で15本塁打47打点でした。この年、通算100号本塁打を記録しました。

 

1979(昭和54)年は初の130試合フル出場を達成し、501打数159安打(打率.317)で36本塁打103打点と打棒を振るいました。2年ぶり2度目のオールスター出場も果たしています。

この年は2年ぶり2度目の3割達成で、159安打はセ・リーグ最多を記録(当時は表彰なし)、初の30本塁打越え(36本)、そして現役生活で唯一の100打点越え(103打点)をマークし、セ・リーグのホームランバッターとして認知され始めたものと思います。

この当時は、田淵幸一選手が西武へ移籍し、世界のホームラン王・王貞治選手は本塁打タイトルを獲れなくなって久しく既に39歳、他には?というと、30歳を過ぎてホームランバッターになった広島・山本浩二選手と若トラの勢い凄まじい阪神・掛布雅之選手ぐらいでした。そこへ大島選手が割って入ってきたという訳です。この年の本塁打王は48本の掛布選手でした。
それまでしばらく三塁を中心に守っていましたが、この年は殆どが一塁での先発出場でした。これは不動の一塁であった谷沢健一選手がアキレス腱の痛みがかばい切れなくなり、治療の為長期欠場した事によるものです。

 

80年代中日の主軸打者

1980(昭和55)年は30歳になる節目の年でしたが、4月に交通事故により欠場を余儀なくされ、規定打席にわずか5打席足りず、358打数90安打(打率.251)で18本塁打46打点に終わりました。

交通事故は雨の道路でスリップを起こし、車が大破し左目が失明の危機にさらされるほどの大事故で、奇跡的に1ヶ月ほどで回復/復帰できました。

この年は節目となる通算1,000試合出場を果たしています。

 

その後は順調に復活し、毎年のように130試合フル出場を重ね、1981(昭和56)年は130試合で468打数141安打(打率.301)で23本塁打81打点として、規定打席到達で最後の3割達成となりました。この年は通算1,000安打を達成しています。

 

2度目の優勝経験となった1982(昭和57)年は124試合に出場、466打数112安打(打率.269)で18本塁打60打点でした。前年は三塁と外野を半分ずつくらい守っていましたが、この年から外野を守る事が多くなり、ここから3年間はほぼ左翼手として先発出場しています。

西武ライオンズとして初めての優勝を遂げた西武との日本シリーズでは、5番左翼をメインに出場し、ホームランを1本打っていますが、この年もやはり日本一を逃しており、結局これが彼にとって最後のリーグ優勝経験となり、日本一は一度も経験する事はありませんでした。

 

1983(昭和58)年から2年間は連続130試合フル出場で、1983年は36本塁打で念願の本塁打王のタイトルを手にしました。この時は山本浩二選手(広島)と並んでの獲得でした。シーズン序盤に通算200号本塁打を達成し、4年ぶりにオールスターにも出場しました。

 

1984(昭和59)年は中日では最後の規定打席到達となり、471打数132安打(打率.280)で30本塁打87打点と、2年連続30本塁打にのせました。この年は通算1,500試合出場を果たしています。この年も2年連続でオールスターに出場しましたが、これが最後となりました。

 

1985(昭和60)年からは、少しずつではありますが出番が減り、100試合そこそこの出場となり、85年は396打席とわずか7不足でしたが、1986(昭和61)年は380打席、1987(昭和62)は313打席と減っていきました。

30代後半を迎え、まだほぼレギュラーで依然強打者ではいながら、それまでの破壊力に満ちた雰囲気はやや薄れ、規定打席にも届かなくなり…という状況にありました。

節目の記録としては、1986年に通算1,500試合出場と300号本塁打を達成しています。

 

星野仙一監督が就任した1987年オフに、トレードで日本ハムへ移籍する事となりました。星野監督の「血の入替え」はすさまじく、この年には同じ中日の平野謙選手も西武へトレードに出され、ベテラン大御所にかかわらず、トレードの対象となりメンバーは変わっていきました。

 

 

日本ハムで2,000安打達成

37歳にして初のパ・リーグ、在京球団の日本ハムへの移籍となった大島選手。

中日での最後の3年間は規定打席に届いてない状況もあり、まだまだ一発の魅力はあるものの、日本ハムでどの程度活躍できるのか?未知数の部分がありました。

という中で迎えた1988(昭和63)年、本拠地が東京ドームになったその元年のことでした。新天地のでの背番号は「11」と、大抵投手がつける番号ですが奥様との結婚記念日がらみの番号だといいます。

中日時代の後半は左翼手が主でしたが、日本ハムでは一塁手をメインに守っていました。

当時の日本ハムは打線が弱く、その中で中心打者として活躍し、38歳になる年で4年ぶりに規定打席に到達、130試合フル出場も果たして492打数136安打(打率.276)、15本塁打63打点の成績で、打点はチーム最多でした。また通算2,000試合出場と1,000打点の記録を達成しました。

 

翌1989(平成元)年も39歳になる年で、2年連続130試合フル出場を果たし、461打数122安打(打率.265)で18本塁打59打点の成績で堂々レギュラーを張り続け、トレードに出した星野監督から見ても「日本ハムへ移籍した方が活躍できる」という読みもあったのかもしれないな、と感じました。この年通算350号本塁打を達成しています。

 

更には1990(平成2)年は110試合の出場でしたが、移籍から3年連続規定打席に到達し、360打数96安打(打率.267)で11本塁打50打点とややパワーは落ちた感はありましたがまだまだレギュラーでした。

この年はなんといっても8月21日のオリックス戦で佐藤義則投手から二塁打を打って通算2,000安打を達成しました。通算2,290試合目、39歳10ヶ月での達成は当時の最もスロー達成記録でした。この日は1つても多く打順が回ってくるようにとの近藤貞雄監督の配慮で1番打者に起用されての記録達成でした。2年目まで一軍出場なしでの2,000安打達成は史上初の快挙でした。

 

 

40代も奮闘

40歳で開幕を迎えた1991(平成3)年でしたが、節目の2,000安打を達成後も気力は衰えることなく、120試合に出場し403打数101安打(打率.251)で10本塁打61打点を記録、41歳になる年でもまだまだレギュラーの座は譲らない、そんな感じでした。

ただこの年が最後の規定打席到達となり、100安打以上、2ケタ本塁打、100試合以上の出場等が最後となります。

 

以後は代打での活躍が増える事となり、1992(平成4)年は98試合で236打数61安打(打率.258)で5本塁打28打点、まだ1試合複数の打席に入る状況ではありましたが、ついに規定打席は割り込み、翌1993(平成5)年には先発出場はなく代打専門となっており、42打数11安打(打率.262)で本塁打は0に終わり8打点のみでした。

 

ここで終わりか…?と思われた1994(平成6)年も先発出場は指名打者3試合のみで、ほぼ代打専門でしたが、65打数21安打(打率.323)、2本塁打22打点をあげ、21安打で22打点の勝負強さを見せつけました。

特に5月4日の西武戦で新谷博投手から打った逆転満塁ホームランは43歳6ヶ月の「史上最年長満塁本塁打」として記録に残っています。軽く流し打ちをした当たりがスタンドインしていましたが、この頃には「スイングスピードは落ちたが、これをカバーして余りある技術が手に入った」と本人が言うほどで「バッティングが楽しかった」そうで、周りからは「まだまだやれる」との声もあり、本人もそのつもりでした。

しかし、球団からは来季の契約は結ばない事を伝えられ、監督も大沢啓二監督から交代する事となり、チーム事情を察して引退する事を決断したといいます。

最後まで存在感を発揮し続けた現役生活26年、44歳での引退でした。

 

 

ベストナイン、Gグラブ賞なしの名球会員

2,000安打を達成し名球会入りした選手でありながら、ベストナインには一度も選出されたことがなく、これは松原誠選手と大島選手の2人だけであり、また松原選手とともにGグラブ賞の受賞も一度もありませんでした。

一塁には王貞治という別格の選手がいて、この手の賞には無縁だった事があり、王選手よりも打撃三部門で数字を上回っても、王選手が受賞した事もありました。

 

また、通算安打2,204本は歴代20位、本塁打382本は原辰徳選手と並んで歴代22位の記録で、長年現役を張りながら大記録を打ち立てた選手でもありました。

 

 

 

引退後はNHKの解説者を務め、日本ハム監督に就任し3年間指揮を執りました。

その後また解説者に戻りましたが、晩年は癌を公表して闘病生活を送りながらブログの執筆も精力的に行い、現役時代持たれていた朴訥としたイメージとはまた違った面を見せていました。

 

2021年6月30日に70歳で亡くなられ、その死は現役時代共に戦った各選手より、YouTubeで続々と哀悼の意を表されていました。

 

 

↓1992(平成4)年の選手名鑑より

 この前年まで規定打席に到達していました。

 42歳を迎えるシーズンで、ここからはレギュラーから

 違った立場へ変わりゆく時期で、この2年後に引退

 しています。

      

 

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