思い出のプロ野球選手、今回は井上 弘昭選手です。

 

広島、中日のセ・リーグではレギュラーとして、日本ハム・西武のパ・リーグでは主に代打の切り札として活躍し、昭和10年代生まれのプロ野球選手としては現役で活躍した最後の選手でした。

 

【井上 弘昭(いのうえ・ひろあき)】

生年月日:1944(昭和19)年5月21日
経歴:北陽高-電電近畿-広島('68~'72)-中日('73~'80)-日本ハム('81~'84)-西武('85)

通算成績:1,531試合 打率.259 1,058安打 155本塁打 519打点 74盗塁

タイトル:最多安打 1回('75) ※当時表彰なし

表彰:ベストナイン 1回('75)

オールスター出場 2回('75、'79)

節目の記録:出場-1,000試合出場('78.4.15)、1,500試合出場('84.5.8)

      安打-1,000本安打('81.9.14)
      本塁打-100号('77.6.29)、150号('82.7.2)

 

●個人的印象

 

中日時代はレギュラー選手のひとり、という印象以外あまりなくて、後から「そういえば中日に井上って選手いたな」という感じでした、「マーチン・井上」って打順繋がってなかったっけ?って感じで。

日本ハム時代ははっきり覚えています。代打の切り札として40歳になるくらいの頃でしたが、その選手が「中日にいた井上選手」というのと、当時は結びついていませんでした。

大ベテランで40歳をすぎても現役でいましたが、その頃の選手名鑑ではかなり強面だった覚えがありました。

↓ちょうどその時の写真がありました

 

●広島ドラ1

個人的に中日の選手のイメージでしたが、入団したのは広島でした。

そしてドラフト1位入団だったとはまた驚きでした。

社会人での活躍が注目されて即戦力としての入団という事で、24歳になる年で入団しましたが、1年目はそれほど出番がなく13安打で1本塁打5打点でした。

この年は1968(昭和43)年で、広島が球団創設以来初めてAクラス入りした年でしたが、それにはあまり貢献できなかったようでした。

 

●レギュラーになったものの…

2年目の1969(昭和44)年からレギュラーとして活躍を始め、打席数も300を越えようになります。この年は12本塁打23打点、翌3年目の1970(昭和45)年は13本塁打29打点と、本塁打数の割に打点が低いながら、それなりの実績を残していきます。

1971(昭和46)年までこの水準を保つものの、1972(昭和47)年には出番が激減しました。

「それなりの実績」と書きましたが、1969~71年まで3年連続で打席数が300台であり、広島在籍の5年間で一度も規定打席に到達しませんでした。

 

●中日へ

1972(昭和47)年にトレードで中日へ移籍します。

この移籍が吉と出て、初年度の1973(昭和48)年は規定打席不足ながら、打率.271(それまで.250を越えたのが1度(.252)のみ)で、16本塁打57打点を記録し、ここからようやく本格的にレギュラーへの道を歩み始めたといえます。

1974(昭和49)年、7年目にして遂に、念願の、規定打席に初めて到達し打率.290でキャリアハイの18本塁打、初の100安打越え(126安打)も記録しました。

この年は初めて優勝を経験したシーズンでもあり、最高の形で優勝に貢献したといえます。

 

●ベストシーズン

初優勝を経験し、初規定打席到達にもなった1974年でしたが、彼にとってのベストシーズンは翌1975(昭和50)年ではないかと思います。

この年は現役時代4度の規定打席到達の中で唯一の3割越えとなる打率.318をマークし、キャリアハイの149安打でリーグ最多安打(当時はタイトルとして扱われず)を記録し、本塁打はキャリアハイタイの18本、打点もキャリアハイの65打点を記録しました。

中でも打率.318は「首位打者」のタイトルが見えるところまできていました。

広島・山本浩二選手とデッドヒートを演じて、山本浩二選手が欠場する中で逆転を狙って出場しましたが、なんと満塁の場面で「敬遠」四球とされ、1点を取られてでも勝負を避けられてしまう格好となりました。

最終戦でも逆転を狙い出場、今度は死球に遭い、微妙なところで本人は「当たってない」と主張するも、判定は覆らず結局山本浩二選手を抜く事ができず2位に終わり、プロでのタイトルを獲る事ができずに終わりました。

ただし表彰として「ベストナイン」をこの年唯一受賞しています。

 

●中日で活躍を続ける

その後はケガや不調などでレギュラーを明け渡す事もありつつ、その後1977(昭和52)年と1979(昭和54)年に規定打席到達し、4度の到達は在籍した4球団のうちすべて中日時代に記録したものでした。

1977年に通算100号本塁打、1978(昭和53)年には通算1,000試合出場を果たしています。

1980(昭和55)年は36歳になるシーズンでしたが、若手の台頭で出番を奪われ、大きく数字を落とす事となりました。

 

●日本ハムへ

1981(昭和56)年37歳のシーズンにはトレードで日本ハムへ移籍しました。

14年目にして初のパ・リーグで、この年日本ハムはリーグ優勝を果たし、2度目の優勝経験となりました。

1974年の中日時代のようなレギュラーとしての優勝経験とはまた違った形となり、常時スタメンではなく限られた機会となりましたが、日本シリーズでの巨人戦でサヨナラヒットを打つなど目立った活躍もできました。

その後は更に限られた機会での出場で、代打が主戦場となってきましたが、しぶとい打撃で現役生活を続け、1984(昭和59)年は40歳になる年で盗塁を1個決めています。

その1984年を最後に40歳で現役を引退し、広島時代にコーチとして関係のあった広岡達郎監督に請われて西武のコーチとなりました。

 

●一転

という事で1985(昭和60)年を迎えましたが、当時の西武は前年に田淵幸一、山崎裕之という大ベテランが抜けて、代打不足という事情もあり、一転してコーチ兼任の形で現役に復帰しました。

西武では10試合出たのみに終わりましたが、3安打1打点を上積みして、本当に今度こそこの年41歳で現役生活を終える事となりました。

彼の引退により、昭和10年代生まれの選手は全員が引退となりました。