思い出のプロ野球選手、今回は島谷 金二選手です。 

 

中日のリーグ優勝に貢献し、阪急へ移籍後も優勝時の主軸として、1970年代を中心に活躍した選手です。

昭和10年代生まれで現役時代を知っている選手はほぼすべてupできたので、今回からは昭和20年代生まれに突入です。といっても昭和19年の学年になる選手ですが…

 

【島谷 金二(しまたに・きんじ)】

生年月日:1945(昭和20)年1月23日
経歴:高松商高-四国電力-中日('68~'76)-阪急('77~'82)

通算成績:1,682試合 打率.269 1,514安打 229本塁打 781打点 72盗塁

表彰:ベストナイン 2回('78~'79)、Gグラブ賞('75、'77~'79)

オールスター出場 6回('75~'80)

節目の記録:出場-1,000試合出場('77.4.18)、1,500試合出場('81.5.5)
      安打-1,000安打('78.5.21)、1,500安打('82.6.21)

      本塁打-100号('76.5.4)、150号('78.6.3)、200号('80.8.10)

 

 

●個人的印象

阪急黄金時代のレギュラー三塁手、ですね。

幼少時に関西テレビでは時々土日などのデーゲームで阪急戦を中心にした野球中継があり、その時によく見ました。

その時はただ漫然と見ていた感じでしたが、なんとなく好きな選手の一人でした。いつの間にか松永浩美選手が出てきて、気がついたら引退していた、そんな感じでした。

実際、引退する年の前半までは普通にレギュラーで、欠場している間に松永選手がレギュラーを獲り、監督からの「松永を使いたい」との引退勧告で引退したといわれます。この年は阪急黄金時代に活躍しベテランになっていた選手がごっそり引退した年でもありました。

阪急の選手のイメージしかなかったので、中日にいた事を知ったのは引退後の事でした。

 

●3度のドラフト拒否

高校時代は香川県の名門・高松商でしたが甲子園には縁がなく、社会人の四国電力へ進みます。ちなみに当時、四国電力の野球部は創部間もない頃でしたが、その後1974(昭和49)年にオイルショック等が原因で15年も持たずに廃部になっています。

社会人では都市対抗に出場し続け、毎年のようにドラフトにかかりますが3度拒否し続け、1968(昭和43)年に中日からドラフト9位指名があり、実に4度目のドラフト指名でようやく入団となりました。

ドラフト4度目での入団は5度目で1979(昭和54)年に入団した藤沢公也投手(中日)に次ぐ史上2位の指名回数でしたが、それまではプロに入ってやっていける自信がなく、最後の時は逆に「社会人での伸びしろに限界を感じていた為」だそうです。

 

●即戦力

1969(昭和44)年がルーキーイヤーとなり、24歳になる年でまた早生まれの為、学年的には25歳になる年での高齢入団で、かつ4度目のドラフトながら9位という下位での入団となりましたが、新人としてどのようなキャリアになったか?

結果的にはルーキーの年からすぐにレギュラーとして活躍し、打率は.210ながら規定打席にも到達しました。

高校時代は遊撃手、社会人では二塁手でしたが、プロ入り後は監督の意向で三塁手として起用され、結局最後まで三塁手を通していました。

70年代に入り、2年目1970(昭和45)年も数字を落としつつ規定打席に到達しレギュラーとして活躍を続けました。しかし打率は1年目から.210⇒.216と打撃が課題となっていました。新人年は三振が107と突出して多く、後年からは考えられないですね。

 

●中日時代

打撃でそこそこの成績が残せるようになったのは3年目1971(昭和46)年からで、打率は.257と上昇し、初めて100安打を越え、17本塁打50打点の活躍を見せました。

これ以降ある程度安定した成績を残せるようになり、この年から引退前年の1981(昭和56)年まで11年連続で2ケタ本塁打を記録しており、打率も.250を切る事はほとんどなくなります。

1972(昭和47)年から2年連続で99安打という珍記録も残っています。

1973(昭和48)年は21本塁打を記録、初めて20本を越えました。

 

●中日優勝に貢献

入団した中日いうチームは長年優勝とは無縁であり、また当時のセ・リーグは巨人が1973(昭和48)年まで空前絶後のV9を達成する状況で、セ・リーグは巨人を中心に回っていたといっても過言ではなく、その巨人のV10を阻止したのがこの年の中日でした。

そして入団以来常に規定打席に到達するほどレギュラーとして活躍をしてきた島谷選手もこの年は中日の優勝に貢献する事となります。

が、残念ながらこの年6年目にして初めて「規定打席未達」となってしまいます。

シーズン中盤に故障した事によるものですが、優勝時点には間に合い、規定打席には僅かに満たない程度まで伸ばし、中日のリーグ優勝決定時の最後のボールを捕球したのは島谷選手でした。

日本シリーズではロッテに敗れ、日本一はなりませんでしたが、この年が中日で唯一、優勝の美酒を味わった年となりました。

 

●昭和50年代

優勝を経験した1974年に初めて規定打席を割り込みましたが、借りを返すように活躍したのが30歳を迎えた1975(昭和50)年でした。

それまでの最高打率が.265でしたがこの年はようやく.280を記録し、2度目の100安打越えとなる121安打を記録、20本塁打で打点はそれまでを大きく超える76打点を記録し、二塁打はリーグ最多の27を記録しています。また、この年初めてオールスターにも出場し、Gグラブ賞(当時:ダイヤモンドグラブ賞)も受賞し、初めてといっていいほどの勲章を手にしました。

翌1976(昭和51)年は初めて130試合フル出場を果たし、打率は前年と同程度の.278で本塁打は当時の最高タイの21本で通算100号にも到達しています。30歳を越えて更に充実したキャリアを積んでいる、そんな感じですね。

 

●阪急へのトレード

新人の年から8年間で7度も規定打席に到達するほど順調にキャリアを積み上げてきた島谷選手でしたが、1976年のオフにトレード話が持ち上がりました。

当時、黄金時代真っ只中で、2年連続日本一を達成したパ・リーグの王者・阪急とのトレードで、阪急で12勝を挙げた戸田善紀投手とのトレードという事でした。最終的にはこれに何人かついて、3対4の大型トレードとなり、1977(昭和52)年、32歳にして阪急ブレーブスにやってくることとなりました。

 

●常勝阪急での活躍

こうして黄金時代の阪急へ移籍してきた島谷選手でしたが、この移籍が大吉と出て、この1977年は初の打率3割をクリア、それも.325といきなりの高打率で、それまで何度も規定打席に到達していても.280が最高だった選手とは思えない飛躍ぶりで、首位打者争いをしたほどの大活躍となりました。安打数もそれまで前年の123が最高でしたが、155安打を記録しています。

首位打者のタイトルはロッテ・有藤道世選手が.329で獲得し、惜しくも2位となりましたが、強い阪急に移籍してきて、新天地で中日時代以上の大活躍をしてパ・リーグでも通用する事を示してみせました。

また阪急はこの年も日本シリーズで巨人を破って3年連続日本一となり、まさに阪急絶頂時代に最高の成績を収めた、ある意味ピークを迎えた時期だったともいえます。中軸打者だった印象はありましたが、四番を務めていたとは今回調べるまで知りませんでした。またこの年の序盤に通算1,000試合出場を果たしています。

 

これだけ打撃成績が向上した背景には、「阪急には良い打者が沢山いた」為で、特に「加藤(英司選手)の内角のさばき方がたいへん参考になった」と本人がコメントしていました。

1978(昭和53)年は日本一こそ逃しましたが、リーグ優勝は成し遂げ、その中で打率.298を残しました。この年は通算1,000安打を達成し、その後150本塁打も達成しています。また33歳にして初のベストナインも受賞し、翌年も2年連続で受賞しています。

1979(昭和54)年はチームは優勝こそ逃しますが、個人としては2年ぶりに大活躍の年となり、153安打で2度目の3割クリア(.312)で、27本塁打と102打点は34歳にしてキャリアハイで、100打点を越えたのは驚きでした。打点はこの年以外では76が最高なので、この年のみ突出していました。打点王でもおかしくないレベルでしたが、同僚の加藤英司選手が104打点と2打点及ばず、またもや惜しくも2位に終わり、2年前の首位打者含めタイトル2つ分逃した格好となりました。それも途中まではかなりの差をつけて優勢だっただけに惜しかったところでした。

しかし、2年連続ベストナイン3年連続Gグラブ賞2年連続のダブル受賞で、賞関係はこの年が最後になりますが、リーグきっての三塁手に躍り出たといっても過言ではなかったと思います。

 

中日にいたままでここまでの成績と栄誉を得る事ができたかどうか…と考えると移籍で一層花開いた選手といえると思います。

 

●晩年 突然の引退

1979年から優勝からは遠ざかる事となる阪急ですが、1980(昭和55)年もレギュラーとして活躍は続きます。ただ本塁打はそれまで5年連続20本台が16本に終わり、試合数も故障して規定打席未達に終わった1974年以来6年ぶりに120を割り、最盛期ほどの出番はなくなってきた感じでした。学年的には36歳のシーズンになり、そのような部分もあったかと思います。本塁打は通算200号を達成し、これが最後の節目の記録となりますが、意外にも30本越えは一度もなく、20本台をコンスタントに記録してきていたのだな、と記録を見て感じました。

翌1981(昭和56)年は、36歳で23本塁打と再び20本を越えてキャリア2位の本数を記録しましたが、前年.266に急降下した打率は.282へと盛り返してきていました。出番的にはほぼ前年並みの成績でしたが、通算1,500試合出場を達成しました。

 

1982(昭和57)年は37歳で迎えたシーズンで、この年も前半戦はレギュラーを張っていました。途中で欠場した際に、当時売出し中の松永浩美選手が一気に台頭し、初めて規定打席に到達するほどの活躍を見せ定位置を奪取しました。

松永選手は前年から一軍デビューし三塁手でも先発出場して島谷選手を脅かす存在でしたが、完全に定位置を奪取し世代交代を示した事で、島谷選手が当時の上田監督からチームの若返り策として引退勧告を受けたといわれ結局この年限り37歳で引退しました。つけていた背番号「8」は定位置を継いだ松永選手がそのまま継承する事となりました。

 

この1982年はかつて阪急黄金時代を築き上げベテランとなった数々の選手が、この若返り策のもとでユニフォームを脱いでおり、代打男の高井保弘選手、守備の名手大橋穣選手、控え捕手ながらしぶとく活躍した河村健一郎選手、豪速球の山口高志投手等多くのV選手がこの年に引退しており、この年と翌年とでは選手の顔ぶれが随分変わっています。

 

引退後、阪急のコーチとして1985(昭和60)年の選手名鑑に載っていたものです

更には、1981(昭和56)年、現役時代の名鑑です

 

 

 

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