思い出のプロ野球選手、今回は「星野 仙一」投手です。

 

選手時代は、特に巨人戦には激しい闘志を燃やしてぶつかり、監督になってからは「闘将」と呼ばれ、終始その熱く戦う姿は、誰の目にも鮮烈に残るものでした。

 

【星野 仙一(ほしの・せんいち)】

生年月日:1947(昭和22)年1月22日

没年月日:2018(平成30)年1月4日(享年70歳)

経歴:倉敷商高-明大-中日('69~'82)

通算成績:500試合 146勝121敗34S 2,128 2/3投球回 66完投 15完封 1,225奪三振 防御率3.60

タイトル:最高勝率 1回('75)、最多セーブ 1回('74)

主な表彰:沢村賞('74) 

記録:、オールスター出場6回('69、'74~'76、'79、'81)

 

●記憶に残る投手

かなり活躍しており、リリーフも多々こなしながら14年間という決して長くはない現役生活で通算146勝もあげていますが、タイトルとなると1974(昭和49)年の最多セーブと、翌1975(昭和50)年の最高勝率(当時は連盟表彰なし)くらいでした。

最多勝もなければ、最優秀防御率も1度も獲った事がなく、意外にもセーブのタイトルを獲っただけで、やはり「記憶に残る」投手という事を感じますが、表彰でもベストナインやGグラブ賞も1度も獲った事がありませんでした。

ただし沢村賞は受賞しています。

 

●豊作ドラフト

山本浩二田淵幸一山田久志福本豊、加藤秀司、東尾修…といった錚々たる面々と同じ1968(昭和43)年ドラフト組で、山本浩二、田淵幸一といった同じ大卒の同級生と共に、そして終生その交流は続きました。

 

という事で中日へドラフト1位で入団しましたが、当初の背番号は20ではなく、「22」でした。

同期で、阪神へ入った盟友・田淵選手と同じ背番号だったんですね。

 

●1年目から活躍

新人の1969(昭和44)年から8勝9敗の成績で規定投球回数をクリアしており、2年目の1970(昭和45)年は初の2ケタ10勝14敗で200㌄を越えました。

 

3年目1971(昭和46)年は、エースナンバーであり、彼自身のイメージが強い背番号「20」へ変更して臨みますが、2年連続で9勝どまりで、いずれも規定投球回未満にもなりました。

最もこの頃は、先発起用が殆どなくリリーフ専門のような形で、それで9勝を挙げるのもスゴイですが、1972年はキヤリアで唯一、先発0という実績でした。

 

5年目の1973(昭和48)年には復活して、自己最多16勝11敗で3年ぶりに規定投球回をクリアしました。

 

●初優勝

 

当時は中日も、広島やヤクルトなど共に優勝に縁遠い球団で、リーグ優勝は1954(昭和29)年の1度だけでした。

 

そして2度目の優勝が久々に舞い込んできたのが1974年でした。巨人のV10を阻んだ、価値の高い優勝でもありました。

この年、チーム事情もあり抑えに回って、初めて導入された「セーブ」を10個記録し、15勝9敗10Sという成績で、「初代セーブ王」に輝きました。

これが彼の唯一のタイトルらしいタイトルというのが正直、本当に意外です。それでも前述通り「沢村賞」という、最高の投手に贈られる栄誉ある賞を受賞しており、あの江川卓投手も「どうしても獲りたかったが獲れなかった賞」として挙げています。

これだけの成績で活躍すればMVPも?と思いましたが、優勝チームではない巨人の王貞治選手が受賞しています。

 

●昭和50年代

1975(昭和50)年は17勝を挙げ、3年連続15勝以上をマークしました。

1977(昭和52)年にはキャリアハイの18勝(13敗)5Sを挙げ、先発に抑えにフル回転していました。

1978(昭和53)年は抑えの比率が高くなり、5勝8敗14Sと2度目の2ケタセーブを挙げています。

中日という球団は、後に牛島和彦投手が出てくるまで、抑え投手がいた覚えがなく、星野投手や鈴木孝政投手のような先発投手が務めていたような印象が強かったです。

 

●先発へ

1979(昭和54)年から本格的に先発投手としてキャリアを積む事となり、試合数も成績も落ち着くような形ながら、この年とコーチ兼任となった1981(昭和56)年はそれぞれ10勝を挙げています。

1980(昭和55)年は129 2/3回であと1/3回だけ規定投球回に届かずに終わりました。

 

自分がTVで見始めたのは、抑えでやっていた頃で、その後先発に戻って…という感じでした。この時期は小松辰雄投手など若い投手も沢山出てきており、世代交代の波が押し寄せてきている頃でもありました。

 

●引退

1982(昭和57)年、チームは8年ぶりの優勝に沸いた中で、3勝5敗に終わり、35歳で引退しました。勝敗以上に防御率の落ち込みもあったのでしょうか。

 

●巨人への闘志

彼を語る時、このワードはやはり外せないですね。

入団の経緯もあってか、巨人に対する闘争心のむき出しぶりは並々ならぬもので、巨人から30勝以上挙げた投手の中では、勝率も最高だったといいます。

気持ちが成績に直結した分かり易い例ですね。

 

 

その後の彼の闘争心は監督になっても、いささかも衰える事は無く、むしろ逆に燃え盛っていったぐらいですが、あくまで選手時代のキャリアに触れる趣旨からここでは割愛します。

 

ただひとつだけ、現役を引退して中日監督になる前、NHKの解説者をしていた頃の1984(昭和59)年夏休み、中学校の登校から帰ると、川上哲治さんと明大の先輩でもある高田繁さんと、星野さんの3人で、NHKの少年野球指導の番組に出ていたのを思い出します。

 

 

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