思い出のプロ野球選手、今回は「山本 浩二」選手です。

 

初の大卒選手を取り上げます。大卒にして名球会に入った草分け的存在となります。

1975(昭和50)年、弱小球団であった広島を優勝へ押し上げ、その後のカープ黄金時代の中心打者として活躍した「ミスター赤ヘル」です。

 

【山本 浩二】

生年月日:1946(昭和21)年10月25日

経歴:廿日市高-法大-広島('69~'86)

通算成績:2,284試合 打率.290 2,339安打 536本塁打 1,475打点 231盗塁

タイトル:首位打者 1回('75)、本塁打王 4回('78、'80、'81、'83)、打点王 3回('79~'81)

主な表彰:MVP 2回('75、'80)、ベストナイン 10回('75、'77~'84、'86) ※8年連続、Gグラブ賞 10回('72~'81) ※10年連続

 

大学時代に田淵幸一、富田勝といった面々と共に「法大三羽烏」と称され、カープの主力として1968(昭和43)年のドラフト1位でカープへ入団し、当初の背番号は「27」で、後に指導者としても評価された山内一弘氏の引退に伴い、3年目1971(昭和46)年から背番号「8」を背負い、本格的に主力としてチームの顔になっていきました。

 

と、書いていますが、個人的には彼の背番号27の時代はリアルでは知りません。テレビで見始めた頃は既に「8」でした。そして広島にいる強打者で、巨人ファンの自分からしたら、他球団で最も怖いバッターと思っていました。

 

とにかくホームランのイメージが強かったです。自分がTVで見始めた時は、王選手はホームランは打つものの、ホームランのタイトルを獲れなくなってきていた晩期であり、このタイトルに最も近い存在がこの山本浩二選手でした。
実際1978(昭和53)年に44本で初タイトルを手にしてから、1年空けて1980(昭和55)年から2年連続で獲得、更に1年空けて1983(昭和58)年にも獲得し、通算4度のホームラン王はセ・リーグ右打者記録だそうです。

 

そのホームランでいうと通算536本を記録しており、NPBでは歴代4位(王貞治、野村克也、門田博光に次ぐ)の大記録で、大卒では最多記録であり、大卒で500本以上のホームランを打った唯一の選手です。

下表のホームランの記録を見ると、初めて40本以上を記録したのは1977(昭和52)年の44本でした。この時は王選手が世界記録の通算756号を打った年で、50本塁打を記録してタイトルを獲った為、お預けとなりましたが、王選手のタイトルはこの年が最後でした。これに取って代わる形でホームランを量産するようになりました。

 

それまでは、初優勝した1975年の30本が最高で、平均20本強くらいの実績でホームランバッターではなく中距離砲といった感じでした。なので30歳を過ぎてからホームランに開眼した、という感じでした。1977年から1981(昭和56)年まで5年連続で40本以上を記録していますが、これは王選手と山本浩二選手だけです。これはいかにホームランバッターであるかが分かる記録だと思います。

 

打率の面で見ても同様で、初優勝の1975年に初めて3割を記録し、また唯一の首位打者を獲得しますが、1976(昭和51)年までの8年間で3割はこの年1度だけで、特に最初の4年間は2割5分台までしか記録できませんでした。

対して1977年以降は10年間で6度も3割を記録しています。

 

本塁打が増えると大抵の選手は打率が落ちる傾向にあると思いますが、彼は打率も本塁打も上昇していった稀有なケースでした。1975年は打率.319で獲得しましたが、この時は元同僚であった中日・井上弘昭選手との激しい争いの末、わずか1厘差でのタイトル獲得となりました。

井上選手の満塁での敬遠や、きわどい死球判定による打撃機会の損失等でいわくつきのものになってしまい、その後の首位打者や本塁打王争いへ影響を及ぼした出来事であったように思います。

 

打点は、1979(昭和54)年から1981年まで3年連続で打点王を獲得していますが、1977年から5年連続で100打点以上を記録しており、当時の130試合制において偉大な大記録です。

首位打者は1975年の1回限りでしたが、1980年から2年連続で打点・本塁打の「2冠」を獲得しています。

 

MVPは2度獲得し、優勝に大きく貢献しました。彼の現役時代で5度リーグ優勝しています。

ベストナイン、Gグラブ賞とも10回ずつ獲得しており、打撃だけでなく、センターを中心に外野の守備面でも高く評価されていました。ちなみにベストナインは引退する1986(昭和61)年にも受賞しています。
 

また、タイトルではありませんが、意外な記録?として通算231盗塁を記録しています。特に現役前半を中心に1970(昭和45)年から11年連続で2ケタ盗塁を記録しており、この面だけはホームランバッターになるにつれて減っていった部分ではありました。意外にも最終年でも4盗塁記録しており、40歳になる年でこれだけのホームランバッターが盗塁を記録しているのがすごいと感じました。

 

出場試合数で見ても引退前年の1985(昭和60)年の113試合を除いては17度も120試合以上出ているのも本当にすごい記録だと思います。これ掛け算するだけで2,040試合になる訳で。

 

新人から引退するまでの18年間、現役生活で一度も規定打席未満がないという、常にレギュラーであり続けた選手で、最終の1986年でも打率.276 27本塁打 78打点の記録を残していながら、控えに回る事はなく、40歳で選手としてユニフォームを脱いでいます。記録から見ると、まだ何年もやれそうでしたが、腰の痛みが相当に酷かった事もあったようです。

 

これでも現役生活を1年延ばしたようなもので、前年に引退、即監督になるプランもあったようですが現役に拘り、古葉監督の勇退後に阿南監督になった(その後自身が監督就任)という経緯もあったといいます。

 

1986年は最後にリーグ優勝を達成する事ができ、良い花道になりました。

 

●1986年当時の引退関連記事

 

 

PVアクセスランキング にほんブログ村