思い出のプロ野球選手、今回は「東尾 修」投手です。

 

タイトルでは4球団の名称が並んでいますが、移籍は一度もなく、ライオンズ一筋20年間の現役生活でした。

 

【東尾 修(ひがしお・おさむ)】

生年月日:1950(昭和25)年5月18日

経歴:箕島高-西鉄・太平洋・クラウン・西武('69~'88)

通算成績:697試合 251勝247敗23S 4,086 投球回 247完投 34完封 1,684奪三振 防御率3.50

タイトル:最多勝 2回('75、'83)、最優秀防御率 1回('83)、、最多奪三振 1回('75)、最高勝率 1回('75)

主な表彰:MVP 2回('83、'87)、ベストナイン 2回('83、'85)、Gグラブ賞子5回('83~'87) 

記録:、オールスター出場10回('72、'73、'75、'76、'78、'82、'84~'87)

初の1950年代生まれの選手を取り上げます。

 

これまで挙げてきた選手は自分がプロ野球を見始めた頃に既に30代だった選手ばかりで、東尾投手は70年代末はまだ20代でした。それでも当時からかなり風格はありましたが…。

 

最初の印象としては、ハンサム今でいうイケメンのイメージがありました。声聞くとすごいギャップがありましたが、顔だけ見ると優男風かと思いきや、キャラは全然違ってました(笑)

当時はまだ西武になる前「クラウン」の頃で、弱小クラウンで孤軍奮闘していたエース、そんな印象でした。

 

●花の68年ドラフト組

 

阪急に入団した、山田久志投手・福本豊選手等は社会人で、大学では山本浩二、田淵幸一、星野仙一各氏の錚々たる面々の中で、高卒選手としてドラフト1位に指名され、当時の「西鉄」ライオンズに入団しました。

 

●急遽、主戦級に

1年目は一軍にこそ上がったものの、散々な成績だったといい、野手転向すら申し出たという話もありました。

 

しかしその後状況は一変、2年目の1970(昭和45)年、期せずして?主力として働く事になります。

球界を大きく震撼させた「黒い霧事件」が起こります。これ、リアルでは知りませんでしたが、八百長試合やこれに伴う金銭授受があったとされ、特にこの西鉄からは多くの主力選手が永久追放などの重い処分を下された事があり、20歳の投手が一躍先発ローテの一翼を担う事となりました。

本人も「ここがターニングポイント」であったという程で、この年は18敗しながらも11勝を挙げ、2年目で2ケタ勝利を達成する主力となりました。

 

●西鉄から太平洋へ

 

黒い霧事件は、その影響があまりにも大きすぎて、観客動員の顕著な減少などで、遂には西鉄が球団を手放す事態になりました。

西鉄での4年間は5位と6位しかなく、5年目の1973(昭和48)年からは「太平洋クラブ」(ゴルフのマスターズなどで有名な)が球団を保有し始め、それまで2年連続で最多敗戦を記録していた「傷だらけのエース」が15勝14敗で、1点だけながら初めて「勝ち越し」しました。そしてこの年は初めて4位にも浮上しました。

 

●栄光の'75

 

太平洋での4年間は、1974(昭和49)年を除いては勝ち越ししており、中でも1975(昭和50)年は入団以来7年目で初のAクラス3位を経験し、自身も23勝15敗7Sで初の「最多勝」を獲得し、奪三振154も最多、防御率は1位こそなりませんでしたが2.38の好成績で、25完投4完封もリーグ最多で、彼のキャリアにおいて、この1975年が最も素晴らしい年になったといえます。

最多勝に輝きながら、7セーブもあげているところに、どれだけフル回転していたかがよく分かると思います。

 

●太平洋からクラウンへ

 

太平洋クラブは1976(昭和51)年限りで球団を手放し、次に「クラウンライター」が球団を引き継ぎます。

 

「クラウン」と表記されることが多く、自分が新聞などでその存在を知ったのはこの時からです。クラウンは結局1977(昭和52)および1978(昭和53)年の2年間のみでしたが、順位は6位、5位といった形で、幼い頃見ていた新聞ではいつも負けているような「万年最下位」のイメージを個人的にはもっていました。

 

たまにクラウンが勝つと、妙に嬉しかった覚えがあり、後にファンとして応援する事となる「阪急」は当時一番嫌いだったくらいでした(笑) その弱小クラウンで負けまくりながらも投げ続けた東尾投手は当時のある種「希望」的存在でした。彼以外の投手は他球団に通用しなさそうな雰囲気でした、この当時は。

 

77年は11勝したものの20敗し、78年は巻き返して75年に並ぶ自己最多23勝を挙げており、

負けまくった球団でよくこれだけ勝っていたな、という感じで、彼以外の投手は殆ど負けまくっていたのが数字からも分かると思います。

 

●新生「西武ライオンズ」

 

1979(昭和54)年、29歳になる11年目シーズンから、現在も存続している「西武ライオンズ」となり、それまで福岡に本拠地を置いていた球団が埼玉・所沢へ移転する事となりました。

 

当時の新生「西武球場」は色々と画期的だったのをなんとなく覚えています。

なにせ「花火が上がる」のがものすごいウリでした。

そして、田淵・野村・山崎などのスター選手をあちこちからかき集めてきたのもすごく印象的でした。新人も森繁和、松沼兄弟とひとつのチームで成立しそうな面々を初年度にすべて入団させていました。

 

そんな記念すべ船出の年の東尾投手の成績は…

6勝13敗 でした。

 

新生球団は勝てないもの、とはいえ開幕から12連敗という最悪の船出となり、本人の不調がそのままチームの順位に反映したような格好でした。

 

当時の根本監督の戦力入替をはじめとする管理方針は、チームの順位を上げるのに時間がかかりましたが、3年目1981(昭和56)年から徐々に効果が表れはじめ、ライオンズ4年目の1982(昭和57)年に西武としての初優勝および日本一を達成し、以降常勝チームへと変貌を遂げていきます。

 

●常勝軍団のエース

 

1980年代に入ってからの東尾投手は、若い頃のような大負けをする事がなく、常勝西武になってからでは、1983(昭和58)年に18勝を挙げて1975年以来8年ぶり2度目の最多勝を獲得し、またプロ15年目で初の「MVP」を受賞しています。

 

それまでMVPがなかったのも意外ですが、やはりチームが弱くて優勝とはおよそ無縁のキャリアだったので、タイトルをほぼ総なめに近い形で獲っても、MVPには手が届いていませんでした。MVPは引退前年の1987(昭和62)年にも獲得しています。

 

●全「ライオンズ」でプレー

 

記事タイトルに4つの球団名を挙げていますが、西鉄、太平洋、クラウン、西武とこの4球団を現役選手としてすべて経験したのは太田卓司選手と東尾投手の2人だけです。

これを達成するには1972~79年までライオンズに所属する事、が条件となり、この8年間いれば良いので多く居そうに思いますが、太平洋時代の1975年や、クラウンから西武になる時等、相当に選手の入替をしているので、この8年間在籍し続けたのがたった2人だけであり、全くもって驚きでした。

 

●200勝から250勝へ

 

1984(昭和59)年にようやく200勝を達成したものの、82年以降引退する88年までで唯一のリーグ優勝を逃しています。

1985(昭和60)年は17勝3敗というこれまでない大勝ちで、勝ち運は晩年に顕著にあった事を感じます。チームの順位もキャリアの最初から2/3くらいまでは最下位やBクラスが主で、最後は殆ど優勝、とクッキリ分かれています。

 

1986(昭和61)年は近鉄・デービスへの死球をめぐって大乱闘となり、デービスのストレートをモロにくらう事件もありました。

1987年は2度目のMVPを受賞しますが、この年末に麻雀賭博が発覚します。この当時の野球選手ってこの手の事件が多かったものですが、現役最後になる1988(昭和63)年は謹慎中でのスタートとなりました。

 

●死球

 

通算165与死球は日本プロ野球ダントツの1位です。

これは打者に向かっていったことの証で、ケンカ投法といわれ、故意にぶつけたのではと物議を醸した事も少なくなく、そのスタイルには賛否両論ありましたが、それでも現役を20年続けてこれたのは、ものすごい事と思います。

 

●最後の250勝、そして引退

 

1988年に250勝を達成し、もう1勝上積みして6勝9敗の成績でシーズンを終え、通算251勝となり、謹慎明けを考えると、まだまだやれるとの声も多く、同じ年に山田久志投手が成績的にも限界を迎えて引退したのに比べると、まだまだやれそうでしたが、「余力を残して引退」の好例のような形で現役20年、38歳で、昭和最後の年に引退しました。

その後250勝の達成者はおらず、現在のところ、彼が最後の250勝到達者となっています。

 

キャリア前半で負けまくって負け越しを積み重ねてきましたが、最終的には251勝247敗と辛うじて勝ち越ししました。これは現役後半の常勝西武で逆に勝ち越し続けてきたので、やはり晩年に勝ち運があった事が如実に表れていると思います。

 

 

という訳で、東尾投手でした。

 

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