思い出のプロ野球選手、今回は「福本 豊」選手です。

 

初の戦後生まれの選手を取り上げます。また、それまで高卒選手ばかりでしたが、社会人出身の選手も初めて取り上げます。

 

言わずと知れた「世界の盗塁王」です。

 

【福本 豊】

生年月日:1947(昭和22)年11月7日

経歴:大鉄-松下電器-阪急('69~'88)

通算成績:2,401試合 打率.291 2,543安打 208本塁打 884打点 1,065盗塁

タイトル:盗塁王 13回('70~'82) 13年連続

主な表彰:MVP 1回('72)、ベストナイン 10回('72~'74、'76~'82)、Gグラブ賞 12回('72~'83)

 

 

今の日本プロ野球界では絶対に破られる事のない不滅の記録、通算1,065盗塁が何よりも光ります。2位の広瀬叔功氏が596盗塁、3位が柴田勲氏579盗塁と続きますが、昔の選手ばかりが名を連ねていて、またこれら選手にも大差をつけてのダントツの記録です。

 

先に挙げた柴田勲選手同様、打撃タイトルはなく盗塁王のみですが、通算安打は2,543安打と2,500本を越え、ホームランも208本を放っています。2,500以上の安打を打っていて、ホームランが200本そこそこというのはかなり少ない部類ですが、170㎝に満たないといわれる小さな体で20年間、41歳になる年まで現役を続けたのは素晴らしいものがあり、阪急、その後のオリックス含め、この球団一筋で2,000以上の安打を記録した唯一の選手でもあります。

 

下の記録表にも「ドラフト7位」とありますが、社会人時代に同僚でプロでもチームメイトにもなった加藤英司選手を見に来たスカウト陣の目に留まった、という話があります。

本人はドラフトにかかると全く思ってなかったので、翌日知人に訊いたところ「おまえ、ドラフトにかかっとるがな」的な感じで知ったといいます。今ではあり得ない事ですが、こういう時代だったんですね。

 

1969(昭和44)年に阪急ブレーブスに入団し、山田久志投手や前述の加藤選手と同期入団にして、この3人ともがいずれも名球会入りしたという、素晴らしい都市でありメンバーでした。この年は「ドラフト豊作」といわれるスター揃いで、星野仙一、山本浩司、田淵幸一、有藤道世、藤原満…といった即戦力のスターの集まりだった大卒選手陣でしたが、阪急に入って名球会入りしたこの3人はすべて大卒ではないところがまた面白いですね。

 

入団当時の背番号は「40」で、4年目の1972(昭和47)年から「7」になっています。

個人的に7といえば、巨人の柴田勲選手か、この福本選手のイメージですが、盗塁王を初めて獲ったのが2年目の1970(昭和45)年からなので、暫くは「40」でもレギュラーで活躍してたのですね。

 

最初は身長が低く、打力もそう高いと思われていなかったようで、それでも同期でもっと期待されていた、山田、加藤よりも早く一軍デビューしていて、あまり出ていませんが、ホームランも記録しています。

 

本格的に活躍したのが2年目の1970年で、この年にナント75盗塁で初の盗塁王を獲得すると、1972年には106盗塁という恐るべき数で他の追随を許さない、押しも押されぬスターとなっていきます。ライバルといわれる南海の広瀬選手は既に35歳を過ぎて、出番も減ってきていた事もあり、ほぼ天下だったと思われます。

 

福本豊という選手の出現は、投手に革命をもたらしました。それが「クイックモーション」です。

とにかく「福本に盗塁をさせない」という事で、他のチーム特に野村克也監督の南海は徹底的にマークしたといいます。なにせ塁に出したらすぐ盗塁で、ヒットが即二塁打になるようなものなので。

投手はクイックをする、福本選手はクセを見抜く、そういう攻防戦があったのでしょうが、当時パ・リーグの中継が少なかったので、なかなか見る機会もありませんでした。それでも自分の幼少期はそれなりにありました、阪急戦は。関西テレビでやっていたと思います。

 

盗塁数的なピークは1972年から74年でしょうか。106の次も95、94という驚異的な数をマークしていました。

数だけ見るとやはり落ちていくのが窺えるものの、1970年から82年までの13年連続盗塁王という記録が実に偉大でした。

1983(昭和58)年は55盗塁、それまで3年間ずっと同じ54盗塁でタイトルを獲れていましたが、この年は近鉄の大石大二郎選手が台頭し、遂にタイトルを明け渡す事となりました。この年は盗塁の世界記録である「939盗塁」を達成しています。

 

更に1984(昭和59)年はレギュラーを取って以来、初の50を割る36個と減ってしまいました。37歳を迎えるシーズンを考えるとかなりスゴイし、年によってはタイトルが獲れなくもない数字でした。しかしこの年は通算「1000盗塁」を達成しています。当時は世界記録で、しかも4ケタなんて誰も到達していない未知ゾーンでした。その後、メジャーのリッキー・ヘンダーソン選手に塗り替えられてしまいますが、これが通算1,400を越えるという恐ろしい数字で、メジャーの試合数のアドバンテージもありますが、それにしても凄すぎました。

 

盗塁もですが、通算三塁打115本という日本記録も持っています。足が速かったことの証左で、また記録になかなか出てないですが、打球に対するスピードがものすごかったと誰もが口を揃えて証言しています。球が上がると一目散に落下点へ到達し、見なくてもそのまま走るだけで、最速で届いたその技術が素晴らしい、と。

 

打順が1番で、1番といえば福本、というぐらいですが、その為打席も多く、600前後の打席をずっと記録していた時期もありました。

最多安打というタイトルは当時ありませんでしたが、4度も記録しており、これは俊足の分内野安打も結構あったと思います。そして塁に出て、得点も多く記録しています。しかも四球も多く、これもまた塁に出て盗塁、得点を記録する源となっていました。

 

通算打率は.291と高く、3割を7度も記録しています。

39歳になる1986(昭和61)年までレギュラーとして規定打席に到達していましたが、1987(昭和62)年には入団した1969年以来の規定打席割れとなり、ほんの少し足りませんでしたが、辛うじて100安打は記録していました。盗塁は遂に1ケタ(6)にまで落ちてしまいました。

 

1988(昭和63)年は40歳で迎えたシーズンで、先発出場を外れる事もあり、夏頃は「1番・指名打者」でテコ入れみたいな記事も見ましたが、既にレギュラーでは苦しい状況になっていました。それでも一定の数字は残し、4勝10敗に終わった同期の山田投手は引退を宣言し、ラスト登板を完投で締めくくるなどしていましたが、福本選手本人は来年以降もやる気満々で「ボロボロになるまでやる」つもりだったそうです。

 

しかし、あの有名なセリフの為に引退する事に。

1988年シーズン終了時の上田監督のスピーチで「去る山田、そして残る福本」というところを「去る山田、そして福本…」と言い間違い、これが「引退するの?」と言われ、本人も「え?俺も引退??」みたいに思ったそうで、そうなったらなったで、いちいち引退撤回するのが面倒になって、引退を決めたといいます。折しも阪急は、オリエントリースへの身売りが決定し、オリックスになるというキッカケもあり、阪急でユニフォームを脱ごうという事にもなったようです。

 

国民栄誉賞授与も検討されましたが、庶民派の福本選手は理由をつけて固辞しました。引退の話も含め彼らしいエピソードですね。

 

引退後は新生オリックスの二軍監督を務めたりしていましたが、早々に退団し、現場はそれ以降なく、解説の世界で数々の名言を残していきました。解説のが向いていたんでしょうね(笑)

 

世界の盗塁王はYou Tubeチャンネルでも過去の色々な話をしていますが、是非に今後は他の選手とコラボの形で出てほしいものです。