思い出のプロ野球選手、今回は正岡 真二選手です 

 

中日一筋17年で、1970年代を中心に内野ならどこでも守れるユーティリティープレーヤーとして、その堅実な守備でしぶとく生き抜いてきた選手です。

 

【正岡 真二(まさおか・しんじ)】

生年月日:1949(昭和24)年8月15日

入団:中日('67・ドラフト4位) 
経歴:今治南高-中日('68~'84)

通算成績:1,188試合 打率.219 288安打 2本塁打 59打点 35盗塁

位置:内野手 投打:右右 現役生活:17年
規定打席到達:なし

節目の記録:出場-1,000試合出場('81.8.30)

  

 

個人的印象

中日の守備固めで登場する選手、です。

打の印象はほとんどなくて、守備のイメージがひたすら強く、職人的なイメージですね。

 

 

プロ入りまで

高校は愛媛県の今治南高校で、3年夏の選手権で北四国大会(当時は県別ではなかった)で強豪・松山商を破って甲子園に出場しています。

高校球界で№1ショートといわれ、1967(昭和42)年のドラフト会議で中日から4位指名を受けて入団しています。

 

 

下積み時代

高校時代は名をあげた正岡選手(1971年までは村上姓)でしたが、入団当初はなかなか一軍に上がれませんでした。

背番号51でスタートした高卒1年目の1968(昭和43)年こそ7試合に出て、5打数1安打の打率.200で打点なしと、とりあえず一軍デビューは果たしたという形にはなりました。

 

しかし2年目3年目は一軍出場がなく、4年目1971(昭和46)年に3年ぶりに一軍出場を果たし、35試合に出場し45打数10安打の打率.222、0本塁打3打点と、4年目にしてようやく初打点をあげました。

ここからは一軍出場のない年はありませんでしたが、母方の「正岡」姓へ変更した5年目1972(昭和47)年もほぼ同等の出番・成績で、52打数10安打の打率.192で打点は0でしたが、それまではケガや病気などアクシデントも多く、改姓以降ほぼそのような事はなくなったといいます。

 

翌1973(昭和48)年頃から目に見えて出番が向上し、この年は81試合に出場、72打数8安打で打率.111と打撃成績は下げますが、守備での出番は増えていきました。

 

 

中日優勝に貢献

1974(昭和49)年は初めて100試合を越えて出場し、112試合の出場で61打数12安打で打率.197、0本塁打3打点でした。打数の場合の試合数出ていて、なかなか打撃面の非力さを克服できず、その分守備で活躍したという感じで、試合終盤の守備固めに多く起用されました。その守備は二軍時代に徹底的にしごかれたおかげたといいます。

 

巨人のV10を阻止した中日の優勝は、10/12の大洋戦で決まり、その時も終盤に守備固めに就いていたといいます。その2日後の10/14は優勝パレード参加組と巨人戦に出る組とにチームが分かれ、パレードに出る事はできませんでしたが、巨人戦で長嶋茂雄選手の引退試合に相手チームとして生で触れる事ができ、個人的に大ファンであったという正岡選手はこの組に入れて本当によかった、と述懐しています。

 

 

絶頂期

昭和50年代前半が正岡選手の成績的な絶頂期といえます。

この年、打撃に開眼し打席に立つ機会を増やす事ができましたが、これはメジャーリーガーのミヤーン選手(のちに大洋に在籍する事となる)の打法を真似たのが「当たった」といいます。

という事で1975(昭和50)年は113試合と前年と同等の試合数ながら3倍以上の191打数51安打で打率.267、本塁打こそ0でしたが9打点をあげました。

 

1976(昭和51)年は180打数40安打、打率.222で1本塁打8打点と、プロ入り9年目にして待望の初ホームランを放ちました。生涯2本しか記録しなかった本塁打のうちの1本でした。この年はショートのライバルでもあった広瀬宰選手が太平洋へ移籍した事も出番が増えた要因となりました。

 

ここからも年々出番を増やし1977(昭和52)年はキャリアハイとなる120試合に出場し、233打数55安打で打率.236、12打点初の2ケタ打点を記録しました。

1978(昭和53)年がピークで119試合で、キャリアで唯一300打席越えとなり、281打数64安打、打率.228で19打点をあげました。本塁打は2年前に記録した1本のみの状態でしたが、定位置を確保するまでもう一歩のところまで来ていました。

 

 

控えとして生き延びる

定位置奪取も狙える所にいた正岡選手でしたが30歳を迎える1979(昭和54)年からは出場機会が激減しました。試合数はそこそこでていましたが、打席に立つ機会が大幅に減少し、終盤の守備固めが再び主戦場となりました。

 

これは、攻撃型のショートとして若き宇野勝選手の台頭によるもので、この年まで開幕スタメンを続けていましたが、途中から宇野選手が出てきてからは二塁や三塁も守るようになり、ますます守備のスペシャリストとしての地位を築いていく形になました。

 

1981(昭和56)年には既に32歳でレギュラーポジションからも遠ざかっていましたが、前年まで在籍していた井上弘昭選手が日本ハムへ移籍した事に伴い、長年着けていた背番号51から「6」へ変更となりました。

この年が100試合以上出場した最後の年となり、103試合に出ています。57打数12安打で打率.21110本以上ヒットを打ったのもこの年が最後となりましたが、生涯最後となる通算2本目のホームランを5年ぶりに放っています。

また、節目となる通算1,000試合出場も果たすなど、色々と思い出深い年となっていますが、この年はそれまで守っていたショートで「事件」がありました。

それは「宇野ヘディング事件」で、ショートに上がった飛球を宇野選手がおでこに当てて落球、外野まで跳ねて1点取られてしまい、加えて打者走者までもがホームへ突入する「ランニングホームラン」になるところを、この時セカンドに入っていた正岡選手が外野からの絶妙な中継でホームへ送球、2点目を阻止し、同点に追いつかれる事を免れた素晴らしいプレーでした。

 

 

2度目の優勝

1982(昭和57)年は、8年ぶりに中日が優勝し、2度目の優勝経験となりました。

選手としてのピークが、2度の優勝のちょうど「間」だったので、目立つ活躍で優勝に貢献する事はありませんでしたが、守備で立派に貢献していました。

92試合に出場し、13打数3安打の打率.231で最後の打点となった1打点のみの打撃成績で、極端に試合数と打席数に乖離が大きくなり、打席に立つことが大幅に少なくなっていて、本人もこの年の優勝の事はあまり覚えていないそうです。

 

 

1年伸びた引退

翌1983(昭和58)年はわずか23試合の出場に終わり、2打数無安打、時に34歳で自身も思うような動きができなくなった事やナイターで夜には特に目も見えづらくなり、このあたりが引退の潮時と判断せざるを得なかったそうです。

 

しかし、このオフに新監督に就任した山内一弘氏から「もう1年いてほしい」と、引退に「待った」がかかったといいます。本人はこの時既に辞めたかったと言っていますが、現役ラストイヤーとなった1984(昭和59)年は50試合に出場し、3打数無安打、2盗塁の成績を残して、17年間の現役生活を35歳で終えました

 

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通算1,188試合にも出場し、通算本塁打はわずか2本のみ。自身が「こんな成績の選手を17年もよく置いてくれた」と述懐していますが、通算1,000試合出場した選手の中では史上最少のホームラン数として記録に残っています。1,000打席以上で0本の選手はいますが、1,000試合以上出てわずか2本というのは、逆に「守備のスペシャリストとして長く生き抜いてきた証」であり、これだけ打てなくても長くプロで飯が食える、事を身をもって実践した選手だと思います。

 

 

引退後は、星野監督就任時にコーチに招聘され10年以上務め、その後スカウトを長年務めました。現在は個人で事務所を立ち上げ商品販売を行なっています。

 

 

 

↓1981(昭和56)年の選手名鑑より。

 この年から背番号が「6」になりました。

 1,000試合出場も宇野へディンク事件もこの年の

 出来事でした。

 体重66kgと他の選手よりかなりスリムです。

 

      

 

 

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