思い出のプロ野球選手、今回は「掛布 雅之」選手です。

 

若トラからミスタータイガースと呼ばれ、阪神史上稀代の名選手です。

 

【掛布 雅之(かけふ・まさゆき)】

生年月日:1955(昭和30)年5月9日
経歴:習志野高-阪神('74~'88)

通算成績:1,625試合 打率.292 1,656安打 349本塁打 1,019打点 49盗塁

タイトル:本塁打王 3回('79、'82、'84)、打点王 1回('82)、最多出塁数 2回('81、'82)

主な表彰:ベストナイン 7回('76~'79、'81、'82、'85)、Gグラブ賞 6回('78、'79、'81~'83、'85)

記録:オールスター出場10回('76~'85)、10打席連続四球('84)

節目の記録:安打-1,000安打('82.8.24)、1,500安打('87.7.18)

       本塁打-100号('79.4.21)、200号('82.7.18)、300号('85.6.23)

 

初めて、昭和30年代生まれの選手を記事に取り上げます。

 

●テスト入団

千葉県の習志野高校から阪神タイガースのテストを受けて入団した選手で、ドラフト6位という事になっていますが、実質的にはテスト生で、そこから一流選手へ這い上がったキャリアの持ち主です。

 

●高卒1年目から

一軍戦に83試合も出ています。

テスト入団の高卒生としては異例かと思いますが、打率は.2割そこそこでホームランは3本でしたが、1年目から今後の戦力になりそうな予感をさせたのではと思います。

この年というと、巨人では長嶋茂雄選手が引退した年で、地元の英雄に憧れまくってたというので、1年だけでも現役としてプレーした期間が被っていたのは、さぞや幸せな気持ちだったであろうと思います。

 

●飛躍

2年目の1975(昭和50)年は106試合に出て、78安打、本塁打も2ケタ11本にのせました。

生涯通算5回しかマークした事のない「犠打」をこの年だけで3回マークし、翌年に2回、彼の犠打記録は後にも先にもこの2年間のみでした。

 

そして3年目1976(昭和51)年、ついにブレイクします!

122試合出場で初の規定打席到達でいきなりの打率.325、27本塁打83打点で堂々のレギュラーとしての成績を残しました。

リアルではこの時はまだ知りませんでしたが、この頃から「若トラ」と言われ出したのではと思います。

 

●若トラのピーク

1976年から4年連続3割をマークし、それもすべて.310以上という高水準で、5年目1978(昭和53)年には初の30本塁打越え(32本)をマーク、打点も初の100越え(102打点)で、当時主力で大スターだった田淵幸一選手に肩を並べんとする頃でした。

そしてここに、転機が訪れます。

田淵選手が新生「西武ライオンズ」へ、この年のオフにトレードとなりました。

それまで、田淵選手に引っ張られある意味守られるような形で追随していった感がありましたが、田淵選手が居なくなった分、マークが厳しくなり、また一本立ちもしていかなければならない、という状況でした。

 

●若トラから「猛虎」へ

このフレーズは当時見た「小学館の学習雑誌」の特集コーナーに載っていたものと記憶していますが、時期的に1979(昭和54)もしくは1980(昭和55)年頃のものだったと思います。

そして田淵選手が西武へ移籍したその1979年は、打率.32748本塁打95打点と、初期キャリアの集大成的な成績を残し、初のホームラン王を獲得しました。この時、王貞治選手が引退前年とはいえ、まだ現役選手として君臨していた頃にこのタイトルはやはり自信になった事でしょう。

いつだかヒットを打って一塁ベースに到達したときに、王さんから「いつからあんなバッティングができるようになったんだ?」と声を掛けられ、たいへん感動したといいます。「自分の事を見ていてくれたんだ」という事で、ここで自信に繋がったというエピソードはよくYou Tubeなどで本人が披露しています。

 

●ケガそして復活

1980年はレギュラー獲得後初の規定打席未満に終わり、わずか70試合で11本塁打37打点とケガもあって低調な成績に終わりました。この時は岡田彰布選手が新人として入団してきた事もあり、内野のポジションをめぐって色々とゴタゴタのあった年でもありました。

これを教訓にしたか翌1981(昭和56)年から5年連続で全試合出場を果たします。

特に1982(昭和57)年は35本塁打95打点本塁打と打点の2冠王を獲得し、最高の年となりました。打率は.325で、この年は田尾(中日)、長崎(大洋)の2選手が高打率でデッドヒートを演じていて3冠王はなりませんでした。

1981年は打率.341でキャリアハイを記録、1984(昭和59)年は37本塁打で宇野勝選手(中日)とタイトルを分け合いました。この年末の本塁打王争いの絡みで、両選手に対して執拗なまでの敬遠策は当時中学生ながらに興醒め感満載でした。10打席連続四球として記録に残っているのは、この時の敬遠策でした。

 

●江川対掛布

数々の活躍を続けてきましたが、相手投手として特に注目されたのが同級生の巨人・江川卓投手との対決でした。とにかく変な小細工は抜きにして真っ向勝負で、数々の名勝負を繰り広げてきました。これらは現在でも互いにYouTube対談で語り合いますが、それは深い名勝負の数々であったといえます。

 

●タレント性

があったかどうかは分かりませんが、殺虫剤のCMに起用されたり、スター選手ならではの扱いをグラウンド外でも受けていて、これがまた新たなファン層を開拓し、自らの人気に繋がっていったと思われます。

 

●縁のなかったもの

ここまで本塁打王2回、打点王1回、更に1981年から2年連続で当時あった「最多出塁回数」というタイトルも2度獲得し、3割は7回もマークして80年のケガこそあったものの概ね順風満帆な選手生活を送ってきた20代の掛布選手でした。

が、下表のチーム名の後ろの( )にある順位の示す通り「優勝」とは無縁でした。
ブレイクした76年の2位が最高で、あとは3位以下という足跡でしたが、1985(昭和60)年、30歳を迎えた年にようやくその「優勝の美酒」を味わう事となりました。

 

4月の開幕して間もない試合、巨人戦での伝説の「バックスクリーン3連発」の主軸としてバース、掛布、岡田という当時のクリーンアップが放った本塁打が実に象徴的でした。後付けでよく「優勝への狼煙」的にいわれますが、本人たちは「開幕して間もない時期に優勝も何もあるか」といった感じであったといいます。
 

この年結局21年ぶりにリーグ優勝し、日本シリーズでも西武を下し日本一にもなりました。「トラフィーバー」として大いに沸き、この年夏に起こった「日航ジャンボ機墜落事件」で犠牲になった当時の球団社長への供養にもなったという訳です。

シーズン成績は打率.300ちょうどで40本塁打108打点というもので、それでもバースという化け物クラスの選手が居たため無冠でした。本塁打は最高が1979年の48本で、この年の40本と、40本越えは意外にも2回だけで、この年に通算300号本塁打を達成しています。

 

●寂しい晩年

30歳にして再び最高のシーズンを迎えた訳ですが、この時の栄光が現役時代の「最後の花」となってしまいました。随分と早い最後の花でしたが…。

30歳を過ぎてからは、満足にシーズンを過ごせない要因が度重なり、それまでのキャリアが一気に暗転してしまいます。

 

1986(昭和61)年は中日戦でデッドボールでの骨折を始め、肩の負傷、再度の骨折で80年以来の規定打席未達に新人の74年以来12年ぶりに本塁打は1ケタ(9本)に終わり、厳しいシーズンになりました。

1987(昭和62)年はシーズン前に飲酒運転で逮捕され、球団の怒りを買ったとされ、なんとか2年ぶりに規定打席到達となったものの、到達はこの年が最後でその打率は.227と往年の姿は見る影もない状態で、本塁打はなんとか2ケタに乗せた12本に終わり、翌年は進退をかける格好となりました。

 

1988(昭和63)年も往年の打棒が影を潜め、一軍登録を抹消され、9月には遂に引退を発表しました。最後の試合でサードの守備に就いて、そこで難しいゴロを華麗にさばくファンプレーを見せ、「まだまだやれる」と多くのファンに惜しまれながら33歳の若さで引退しました。ライバルの江川投手はこの前年に32歳で引退しており、まるで後を追うかのようでしたが、最後の3年間は多くの不運も重なって、不遇の時期となってしまいました。ラストゲームでの見せ場がせめてもの最後の花でした。

他球団の話もあったようですが、やはり阪神の掛布でありたいとの思いが強かったのでしょうか。平成を迎える直前、東京ドーム開設初年での引退となりました。

 

 

 

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