思い出のプロ野球選手、今回は井本 隆投手です 

 

昭和50年代を中心に近鉄の先発投手として活躍し、1979・80年の近鉄のリーグ連覇では2年連続15勝をあげ、シュートを武器に強気な攻めのピッチングで近鉄投手陣の柱として活躍した投手です。

 

【井本 隆(いもと・たかし)】

生年月日:1950(昭和25)年11月21日

没年月日:2015(平成27)年1月21日 (64歳没)
経歴:伊野商高-鐘淵化学-近鉄('73~'82)-ヤクルト('83~'84)

通算成績:320試合 81勝75敗8S 1,490⅔投球回 67完投 10完封 625奪三振 防御率4.08

入団:近鉄('72 ドラフト3位)

位置:投手 投打:右右 現役生活:12年

表彰:月間MVP 1回(1982年8月) ※ペナントレース中のもののみ

規定投球回到達:7回 ('76~'80、'82~'83) 

オールスター出場 2回 ('79、'80) 

 

 

個人的印象

近鉄の主力投手として連覇に大きく貢献した投手のイメージで、同僚・鈴木啓示投手のような実直な感じとは違った、少々ワイルドな印象がありました。

この当時はノリにのっていた感があって、その後名前を聞かなくなったなと思ったら、いつの間にかヤクルトへ移籍してて、その2年目に久々に見た、という感じでした。

しかしその年は、出番も限定的になっていて、更にはスキャンダルで誌面を賑わすようになり、ひっそりと引退した印象がありました。まだまだ一軍戦には普通に出ていたので「引退したの?」という感じでしたが、野球外でも色々あったようです。

 

 

プロ入りまで

高校は高知県の伊野商業高校で、予選ではいいところまで行きながらあと一歩のところで甲子園を逃し、出場は叶いませんでした。

伊野商業は80年代半ばに甲子園で注目されましたが、その時に活躍したのが渡辺智男投手で、プロへ入ったOBは5、6人ほどいますが、目立った活躍したのは井本投手と渡辺投手くらいです。

その後は社会人の鐘淵化学へ進みました。今でいう「カネカ」です。

後に阪神に入る谷村智啓投手もこの鐘淵化学の出身で、井本投手より3つ年上ですが、大卒で入っているため、1年遅い入社となっています。

ここで主力投手として活躍し、3年目4年目で都市対抗に出場して活躍し、1972(昭和47)年のドラフト会議で近鉄から3位指名を受け入団しました。この時の2位は有田修三捕手でした。

 

 

初期キャリア

大卒の同期と同じタイミングで入団した井本投手は背番号「12」と主力級の番号を与えられ、近鉄時代は一貫してこの番号を背負う事となります。

 

1年目の1973(昭和48)年は19試合に登板し0勝0敗で防御率7.43、23⅓イニングで、すべてリリーフでの登板でした。

 

2年目1974(昭和49)年は初めてセーブ制度が導入され、先発は6試合務め、35試合に登板し2勝4敗2S、防御率3.88で、初勝利は完投で飾り、初勝利、初完投をこの年に記録しました。72⅓イニングを投げ、まだまだ規定投球回には遠かったですが、戦力として台頭し始めたといえます。

 

3年目1975(昭和50)年は入団以来初のAクラス(2位)を経験し、16試合で4勝1敗防御率2.48を記録、後半から回った先発は10試合と以後のシーズンは半分以上を先発としてマウンドを踏む事となります。

 

 

主力へと成長

4年目1976(昭和51)年は30試合に登板し6勝11敗3S、防御率3.66と負越しながらも155⅓イニングを投げて、初の規定投球回到達を果たし、先発陣の一角として地位を確保した感がありました。

 

1977(昭和52)年は31試合で7勝9敗、防御率3.74で2年連続規定投球回到達となり、この年はプロ入り5年目にして初の完封を記録しました。

この初完封の試合では、チームが1試合で2本の満塁ホームランを放つ(パ・リーグ史上初)などして11-0での快勝となりました。

 

1978(昭和53)年は28試合で9勝7敗、防御率4.10と防御率は規定投球回到達以降年々悪化していきましたが、勝利数はプロ入りから5年連続で伸び続けており、念願の2ケタまであと一歩のところまで来ました。

このオフには広岡監督の体制下で初優勝したヤクルトが獲得に乗り出したとの話が新聞紙上に躍っていましたが結局はなかったようです。

 

 

栄光のとき

1979(昭和54)年、近鉄は念願のパ・リーグ初優勝を遂げ、井本投手は先発陣の柱として初の2ケタ勝利となる15勝4敗1S、防御率3.61の堂々の成績を挙げ、初のオールスター出場、プレーオフでの優秀投手賞に輝く活躍と、近鉄初優勝に大きく貢献しました。

広島との日本シリーズでは初戦の先発投手に起用され、見事に2失点完投勝利を挙げ、チームの先勝に大きく貢献しています。

近鉄の絶対的エース・鈴木啓示投手は2戦目の先発に起用され、こちらは完封勝利を挙げていますが、1戦目を井本投手に譲ることになり期するものがあったと思います。

その後第4戦と第6戦にも先発し、2完投を含む2勝1敗の成績で、この時の近鉄の3勝をうち2勝を井本投手が挙げており、シリーズ敢闘賞を受賞し、大舞台に強い選手である事が窺えます。

 

30歳を迎える翌1980(昭和55)年も2年連続で15勝を挙げ、15勝8敗1S防御率4.37、規定投球回到達は5年連続となり、この年で一旦途絶えますが、この年は唯一200㌄越え(205⅔㌄)の投球回となりました。この年浴びた被本塁打42本はいまだにパ・リーグ記録だそうです。

それでもこの年もプレーオフで優秀選手賞を受賞し、第1戦で先発し完投勝利をおさめています。

この時もやはり鈴木啓示投手は2戦目の先発で、鈴木投手はこの時期79年10勝、80年14勝といずれも井本投手に勝ち星でおよばなかったのもありますが、「持ち上げられると結果が悪い」と本人が言うように、1戦目に起用するよりも2戦目に起用した方が結果が出る、という当時の西本監督の判断によるものがあったそうです。

 

ちなみに鈴木投手が捕手に有田修三選手を指名し、専属のようにしていたのは有名な話ですが、井本投手は逆に梨田昌孝選手を自分が投げる時の捕手に指名していたといいます。有田・梨田の「ありなしコンビ」は、どこへいってもレギュラーを張れる2人の捕手が同じチームにいたという豪華な陣容で、毎年のようにトレード申し入れがあったのを覚えています。

 

再度同じ顔合わせとなった広島との日本シリーズでは、前年同様第1戦の先発投手を任されますが、8回4失点で降板し、この時同点でしたが、リリーフした柳田豊投手が延長12回まで投げて勝利し、井本投手は勝ち負けなしでした。

その後第3戦の9回にリリーフで登板し、同点でしたが決勝打を打たれ負け投手となり、翌日の第4戦には先発というハードな展開で、9回2失点で完投はしますが、2試合連続で敗戦投手となりました。

その後最後の第7戦で3度目の先発を務めますが5回2失点でマウンドを降り、鈴木啓示、柳田豊、村田辰美という先発投手を総動員するも、鈴木投手が⅔イニングで4安打、冒頭も含めた乱調ぶりで、この時も西本監督に「持ち上げられた」格好で、彼に託すようなことを言われたそうですが、これが裏目に出て、広島の連続日本一となりました。

 

この79、80年の2年間でいずれも15勝以上を挙げたのはセ・リーグでは阪神の小林繁投手(79年22勝、80年15勝)のみで、パ・リーグでは井本投手のみ、だそうです。プレーオフ、日本シリーズと通常のペナント以外でもフル回転し大活躍、まさに栄光に包まれた2年間だったと思います。

 

 

近鉄を出る

そんなノリにのっていた井本投手でしたが、1981(昭和56)年は、6年ぶりに規定投球回を割り込み、115⅓イニングに終わりました。20試合で5勝9敗と一転して負けが込み、防御率4.23は逆に前年より少し良くなっていますが、このあたりが転換期かなという気がしました。この時は野球外の事で、それどころではなかったといいます。

 

1982(昭和57)年は規定投球回ギリギリの131㌄で2年ぶりに到達し、11勝4敗防御率3.37と2年ぶり2ケタ勝利を挙げ、また現役生活で7度規定投球回に到達したうち、最も防御率の良かった年でもあり、残念ながら2点台は1度もありませんでした。

8月には唯一の月間MVPを獲得し、シーズン中での明確な栄誉は2度のオールスター出場とこの賞でした。

数字上の復調は見えましたが、オフには私的な問題で新聞紙上を賑わすことが増えて泥沼化し、気分転換を兼ねて?という事で、鈴木康二朗投手、柳原隆弘選手の交換でヤクルトへトレードとなりました。

 

 

ヤクルト時代と引退

こうして1983(昭和58)年からヤクルトでプレーする事となった井本投手でしたが、リーグも変わり、関西から関東へと変わりで慣れない要素が色々だったと思います。

大味なバッティングをするパ・リーグの打者に比べて、セ・リーグの打者は巧いといわれ、自身の持ち味であるシュートもセ・リーグの打者には通用しなかったといいます。

なんとか規定投球回には到達し141⅔イニングを投げますが、6勝14敗1S防御率5.46負け数がリーグワーストを記録しています。

こんな形でも先発陣の一角として投げれていたのは、当時のヤクルトがかなり弱小期にあり、この年2年連続最下位というチーム事情によるものもあったかと思います。

 

1984(昭和59)年は前年と同じ27試合に登板しますが、先発は14試合と約半分に減りました。なかなか結果を出せず、当時のベテランである松岡弘井原慎一朗というベテラン投手と共に揃って二軍落ちする事もありました。結局井原投手はこの年、松岡投手は翌年と引退していきますが、井本投手も1勝4敗1Sに終わり、リアルで覚えていますがスポーツ新聞にゴシップ的な内容が載っていて、それもあって引退したのかな?と当時思っていましたが、この年34歳で引退しました。11月生まれなので正確にはまだ33歳でしたか、34歳になる年という事で。

 

 

スキャンダルで転落してしまった投手、として度々取り沙汰されましたが、近鉄優勝時の凄まじい活躍はファンの目には記憶として今も残っている事でしょう。

 

引退後は球界とは距離を置き、企業で働きながら、少年野球の指導もしていたといいます。

 

2015(平成27)年に64歳で亡くなっています。

 

 

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