思い出のプロ野球選手、今回は「松岡 弘」投手です。
前回記事の平松政次投手とは、同じ岡山県の出身で同級生、高校時代からしのぎを削り、プロでも互いに30代後半まで、通算200勝をかけて切磋琢磨した間柄でした。
【松岡 弘(まつおか・ひろむ)】
生年月日:1947(昭和22)年7月26日
経歴:倉敷商高-三菱重工水島-サンケイ・アトムズ・ヤクルト('68~'85)
通算成績:660試合 191勝190敗41S 3,240 投球回 134完投 30完封 2,008奪三振 防御率3.33
タイトル:最優秀防御率 1回('80)
主な表彰:沢村賞('78)
記録:、オールスター出場8回('71~'76、'81、'83)、100勝('76.6.29)、150勝('80.7.10)
●ドラフト5位入団
まず「弘」は「ひろむ」と読みます。
高校は岡山県の倉敷商で、星野仙一投手の1つ下の後輩になります。
高校では甲子園出場できず、社会人に入って他チームの補強選手で出場しましたが、大きな実績はなく、ドラフト5位という意外なほど下位指名で、当初は球団が4位までしか獲らなかったため、一時は契約見送りにもなったといいます。
●毎年球団変更
1968(昭和43)年にルーキーイヤーを迎え、サンケイ最後の新人となりました。
1年目は2試合に投げたのみで0勝1敗と、これまた意外なほど実績がないまま終わりました。
これは先述のドラフトで契約見送りになり、前年ではなく、この年の8月に途中入団しているため、殆ど出番がなかったという事です。
●2年目から活躍
実質1年目のようなものですが、初めて年間通して迎えるシーズンが1969(昭和44)年であり、この年はサンケイが撤退し球団名は「アトムズ」になりますが、この年から先発ローテーションに入り、規定投球回をクリアし、8勝10敗の成績を残しました。
「ヤクルト」になった1970(昭和45)年は、規定投球回はクリアしたものの調子を落とし、成績も大きく加工してしまいました。
入団から移籍していないのに3年連続球団名が異なる、という経験をしています。
●エースの活躍
初めて2ケタ勝利をおさめたのが4年目の1971(昭和46)年でした。
この年に14勝を挙げましたが15敗していて、敗戦はリーグ最多を記録しています。
翌1972(昭和47)年も17勝しながら18敗していて、2年連続でリーグ最多敗戦でしたが、防御率はここ2年では2.52、3.09というもので、味方の打線援護に恵まれなかった面が大きかったと思います。ただ、これだけの起用をされており、戦力として必要であった面と、成長させようという面と両方あったように思えます。
そして1973(昭和48)年は遂に21勝と大台に到達し、また入団以来5年連続負け越しを記録していましたが、この年6年目にして初の勝ち越しを記録、この時には押しも押されぬエースになっていたかと思います。リアルで知らないので成績を見る限りですが。
●Aクラスから優勝へ
1974(昭和49)年、入団以来7年目にして初めてチームがAクラス入りを果たしました。
この年も勝ち越しましたが、勝利数でいうとここまでの3年間ぐらいがピークのように思えます。3年間で55勝を挙げているので、負けも多かったですが、そんな中でチーム力も上がっていってたようです。
1975(昭和50)年は先発しながらも6Sも挙げており、この当時の特徴的な「先発も抑えも」というフル回転をしており、通算でも実に41Sも挙げています。
1977(昭和52)年にチームが初の2位となりましたが、この年は9勝どまりで、連続2ケタ勝利が6年で途絶えました。
松岡投手は初めて2ケタ勝利を挙げた1971年以降、2ケタを何度か逃していますが、そのいずれもが「9勝」で3度も記録('77、'79、'82)しています。これらがすべてあと1勝ずつしていれば、1971年から13年連続2ケタ勝利になるところでした。
そして1978(昭和53)年は前年初の2位躍進にチームは優勝を狙う機運が高まっていたといい、ちょうど自分が野球を見始めたのがこの時期で、セ・リーグ優勝をリアルで初めて経験したのが、この時のヤクルトでした。
この年16勝11敗2Sでエースの活躍をし、MVPこそ獲れませんでしたが、投手として優勝に大きく貢献しました。そしてこれまで、ヤクルトのエースとして活躍しながら無冠で、最終的にもあまり縁がありませんでしたが、投手としての最高栄誉といえる「沢村賞」を受賞しています。
●ベテランの味とタイトル
1979(昭和54)年以降は再び優勝とは無縁のキャリアを過ごす事になりますが、この年は9勝止まりながら13Sと生涯唯一の2ケタセーブを挙げていますが、チームは優勝の翌年に一転して最下位に沈んでいます。
1980(昭和55)年は33歳にして初のタイトル獲得となり、防御率1位となりました。2.35という素晴らしい成績で、1976年以降で見ると、この年のみが突出して良かったわけで、前年同タイトルを獲得した平松投手と似たようなキャリアを辿っていました。
結局獲得タイトルはこの年の防御率1位のみで、沢村賞こそ受賞していますが、タイトル以外でもMVP、ベストナインもGグラブ賞も一度もないまま終わっており、これだけの勝ち星を挙げていながらかなり意外ですが、当時の他球団の投手陣も素晴らしくレベルが高く、壁が厚かったのもありました。
●名球会を目指して
チームが優勝していた頃の松岡投手は、チームの投の顔というべき存在で、若手が出てきてもローテでは投げていて(リリーフの多い年もありましたが)、1983(昭和)年に36歳で11勝を挙げ、通算勝ち星も190勝まで漕ぎつけていました。
当然「あと10勝」となり、前年11勝なので…となりましたが、1984(昭和59)年は首痛などによる不調で1勝5敗に終わり、とにかく投げても投げても勝てない…そんな印象が強かったですね。もう少しなのに…と思いつつ見ていましたが…。そしてこのオフには高校時代からのライバルであった平松投手が通算201勝で引退しました。彼もまたこの年1勝10敗に終わり、その前年に通算200勝を達成はしていましたが、互いに苦しい年となりました。
平松投手に先に去られた松岡投手は、1985(昭和60)年「あと9勝」で復活を期して開幕を迎えたものの、もうまともに投げられる体力も気力もなかったようで、先発4度で1勝もできないまま38歳で引退を迎えました。
「惜しかった」「なんとか達成してほしかった」という向きも多かった訳ですが、限界だったのかなと、当時でも少し思いましたが、今から考えると尚更そう思えます。
●終生のライバル
先に触れましたが、大洋の平松政次投手が高校時代からのライバルで、岡山県から共に関東へ出てきて、近年でも対談していたのを見かけましたが、彼の存在があったからこそ頑張ってこれたのではないか、と勝手に思っています。
選手時代のキャリアも似通っていて、共に年は違えど8月入団で、1年目から一軍で投げて、チームの投の顔となり…、1984年37歳の年での1勝も同じで、近い年代に引退し…というところで、ちょっと比べてみました。
松岡投手 平松投手
試合 660 635
勝利 191 201
敗戦 190 196
セーブ 41 16
投球回 3,240 3,360 2/3
完投 134 145
完封 30 28
防御率 3.33 3.31
奪三振 2,008 2,045
タイトル 1回 3回
優勝回数 1回 なし
オールスター 8回 8回
実働年数 18年 18年
と、ビックリするくらいほぼ同等の成績を残しています。
やはり200勝してるかしてないかで大きな違いを感じてしまうのと、優勝回数は逆に松岡投手が1度あり、平松投手はゼロに終わり、差は1回ですがこれも大きいですね。
あとはセーブが松岡投手がかなり多いくらいで、他はホントに酷似していて、終生ライバルとしてしのぎを削っていたんだろうな(細かい数字まで気にしてないと思いますが…)と感じずにいられませんでした。