思い出のプロ野球選手、今回は「平松 政次」投手です。

 

「カミソリシュート」と呼ばれた切れ味抜群のシュートを武器に、優勝と無縁の当時の大洋球団で通算200勝を達成した大投手です。

 

【平松 政次(ひらまつ・まさじ)】

生年月日:1947(昭和22)年9月19日

経歴:岡山東商高-日本石油-大洋('67~'84)

通算成績:635試合 201勝196敗16S 3,360 2/3投球回 145完投 28完封 2,045奪三振 防御率3.31

タイトル:最多勝 2回('70、'71)、最優秀防御率 1回('79)

主な表彰:沢村賞('70)、ベストナイン 2回('70、'71)、最優秀投手 2回('70、'71) 

記録:、オールスター出場8回('69~'74、'76、'80)、100勝('74.6.1)、150勝('78.6.3)、200勝('83.10.21)、12年連続2ケタ勝利('69~'80)

 

●カミソリシュート

 

彼の現役時代は「ひらまつ・せいじ」だと思っていましたが、正しくは「まさじ」なのですね。

やはり「カミソリシュート」という代名詞の通り、とんでもなく曲がって打者のバットをへし折ったという話が有名でした。

優勝と無縁の球団で200勝をあげ、かつ勝ち越したというのはいかにチームで奮闘していたかが窺えるというものです。大洋から今のDeNAに至るまで、この球団で200勝を挙げたのも彼ただ一人です。(秋山登氏は193勝)

 

自分が野球を見始めた頃は先発ローテに入っていたベテラン投手、という感じで、当時の大洋には野村修投手や斎藤明夫投手、それからこの時から出てき始めた遠藤一彦投手(当初はリリーフが多かったですが)など、先発のコマは揃っていた感じでした。そんな中のローテ投手で、ものすごい全盛期は若手の頃で、リアルでは知りませんでした。

 

●アマチュアでは優勝続き

 

高校時代は岡山東商でセンバツ優勝を達成し、社会人の日本石油でも優勝し、社会人で優勝した時には前年に既にドラフト指名されており、社会人2年目で都市対抗に出ての優勝でした。

その優勝から2日後に大洋に入団したといいます。

ドラフトは1966(昭和41)年で、この年唯一行われたという「第二次」ドラフトで指名されています。ドラフト会議が二度開催されたのは、大分の国体に出場するしないで、どちらかに振り分けられていたようです。

 

●デビュー時

 

上述の通り、1967(昭和42)年の8月という途中入団で大洋に入り、それでも一軍に上がって、16試合で3勝4敗の成績を残しています。そしてすでにこの年に完投2を記録、いずれも同時に完封で飾っています。

2年目が期待されますが、1968(昭和43)年は5勝12敗に終わり、規定投球回にもわずかに届きませんでした。

本格的に主力として活躍するのは3年目1969(昭和44)年からで、この年初の2ケタ14勝(12敗)を挙げ、規定投球回も楽々クリア、防御率2.56と素晴らしい数字で、登板もリーグ最多の57試合に投げており、オールスターにも初めて選出され、リーグの顔として認められるようになったといえます。

 

●タイトル

 

輝かしい実績をもつ平松投手ですが、タイトルはキャリア前半に集中していて、特に1970(昭和45)、1971(昭和46)年には、彼のキヤリア全盛と言えるような記録を残し、表彰もされています。

生涯2度の最多勝はこの時に2年連続で挙げており、特に1970(昭和45)年に挙げた25勝は自身にとって唯一の20勝越えでした。意外にも20勝を越えたのはこの年だけでした。

 

その後は10勝台をコンスタントに挙げ続けながらも、負けも混んできてチーム順位も落ちてきて、というところで弱小球団を支えるような形となっていきました。

タイトルとして久々に獲得したのが1979(昭和54)年の防御率1位で、30歳を越えてから唯一のタイトルとなりました。防御率は良い時と悪い時がハッキリしている中で、この年だけ近年の他の年より突出して良かった格好でした。

 

●長嶋キラー 巨人キラー

平松投手で覚えているのは「巨人に強い」という事でした。

通算201勝のうち、巨人戦で51勝を挙げ、これは金田正一氏の65勝に次ぐ、堂々の2位です。

中日の星野仙一投手も巨人に対して並々ならぬ闘志で立ち向かっていましたが、平松投手はこれ以上に数字に残す形で結果を出したなと感じました。巨人ファンとしては厳しい存在だった、という印象も幼少期なりにありました。

 

あと長嶋茂雄氏の現役時代は知りませんが、長嶋氏には通算で2割に満たない打率で「投げ勝って」おり、長嶋氏が最も苦手とした投手ともいわれていたといいます。

これについては近年、高木豊氏のYou Tubeでも語っていましたが、「長嶋さんに対しては、自分の力の1.5~2倍の力で挑んでいた」そうです。これは長嶋氏に対する「憧れ」が過大で、入団当初の背番号も途中入団した1967年に限り「3」をつけていたといいます。投手で「3」ってまずないので、この年限りの暫定仮番号だったのでしょうか。

 

●後半キャリア

 

1970年代後半からは10勝台前半で推移し、ものすごい成績を残していた訳ではなかったですが、見ていて「風格」は感じたものでした。今こうして振り返って「こんな程度だったの?」という感じですが、当時はもっと勝っていた印象がありました。

晩年は故障がちであったというので、そういうところもあったのでしょうか。

1981(昭和56)年からは2ケタ勝つ事はなくなり、規定投球回もギリギリ届くのが精いっぱいの状況でした。

 

●200勝とラストイヤー

1983(昭和58)年、36歳になるシーズンに「あと8勝」で通算200勝という状況でした。

前年が9勝でしたが、年齢面や故障などで達成はどうか?という状況でもあり、10月も下旬になってようやく8勝目を挙げて通算200勝達成となりました。甲子園優勝投手でプロで200勝を挙げて名球会に入ったのは、平松投手ただ一人だそうです。また200勝を挙げながら優勝と無縁だった名球会投手も彼ただ一人です。

 

当時の事は知りませんでしたが、この年で引退の話もあったそうで、当人はそのつもりが球団からの慰留により現役続行となったそうです。

 

ラストイヤーとなった1984(昭和59)年はよく覚えていますが、最後は相当にボロボロという感じで、かつてのエースで200勝を挙げた投手とは思えない姿で、もう限界どころかこれ以上投げてほしくなかった、とすら思えました。巨人ファンから見ても。

その後の阪急・山田久志投手も途中まで2勝10敗でしたが、その後勝ち星を重ね、阪急球団最後の試合では見事に完投し4勝10敗の形で現役を終えましたが、平松投手の場合はこの黒星先行をカバーするべくもありませんでした。

 

結局1勝10敗に終わり、37歳で現役を引退しました。

通算201勝、大洋球団最多にして唯一の200勝達成、巨人への激しい対抗心と勝負に対して激しく感情を燃やした18年間の大洋一筋の現役生活でした。

 

彼と同期で同郷の、高校時代から親交の深かったヤクルト・松岡弘投手はこの時点で通算191勝でしたが、1984年の成績が1勝5敗で、同級生・平松投手の引退を見送って1985年に200勝をかけましたが、1勝もできずに現役を終え、彼らは実績的にはほぼ同等と思えましたが、200勝達成と未達で大きく結果が変わった、事を感じたものでした。

 

 

 

ブログランキング・にほんブログ村へにほんブログ村