思い出のプロ野球選手、今回は鈴木 康二朗投手です 

 

昭和50年代を中心に、ヤクルトと近鉄で、先発でもストッパーでも活躍し、王貞治投手に世界記録となる756号本塁打を打たれた投手としても歴史にその名を刻んでいます。

 

【鈴木 康二朗(すずき・やすじろう)】

生年月日:1949(昭和24)年4月18日

没年月日:2019(令和元)年11月19日(70歳没)
経歴:磯原高-日本鉱業日立-ヤクルト('73~'82)-近鉄('83~'86)

通算成績:414試合 81勝54敗52S 1,364⅔投球回 30完投 8完封 548奪三振 防御率3.68

入団:ヤクルト('72 ドラフト5位)

位置:投手 投打:右右 現役生活:14年

タイトル:最高勝率 1回 ('78)

規定投球回到達:5回 ('77~'81) ※5年連読

オールスター出場 3回 ('77、'78、'84) ※両リーグでオールスター出場

 

個人的印象

ヤクルトのメガネ投手、です。

その後近鉄へ移ったら抑えの切り札として活躍していたのを見ていましたが、ヤクルトの先発投手の頃よりも目立った手活躍していたように感じ取れました。

ヤクルトでは浅野啓司投手も似たような風貌でしたが、個人的に浅野投手は巨人時代しか知らなかったので、ヤクルトでメガネ投手といえば?で真っ先に浮かぶのがこの投手でした。

今回この記事を書くに当たり初めて、亡くなっていた事を知りました。

それも死の3年以上後、昨年公表されたようで。

 

 

プロ入りまで

高校は茨城県北茨城市の磯原高校で、中学から1浪してこの高校に入ったといいます。

この高校にはプロ野球OBは他にいないようで、また甲子園も縁がないまま終わり、社会人の日本鉱業日立へ進みます。

この会社は日立鉱山として主に銅などを算出していましたが、彼がドラフト指名される頃には野球部は廃部になり、鉱山もその後程なく閉山しています。

都市対抗で他チームへの補強選手として出場し活躍し、1972(昭和47)年のドラフト会議で、当時のヤクルトアトムズから5位指名を受けて入団しました。

 

 

初期キャリア

ルーキーイヤーは24歳の1973(昭和48)年と、大卒選手より遅い入団となりましたが、最初の2年間は一軍での登板は全くありませんでした。

 

3年目の1975(昭和50)年になって、ようやく一軍初登板を果たし、3試合のみ4㌄を投げ、0勝0敗で防御率15.75というのが一軍デビューイヤーに残した記録でした。

 

4年目1976(昭和51)年から戦力らしくなってきて、43試合に登板し、2勝5敗1Sをマーク、初勝利は4年目27歳の年でした。

 

 

王選手756号を献上

1977(昭和52)年に初めて規定投球回数に到達(184㌄)し、以後5年連続で規定投球回到達を果たしますが、この年は37試合に登板して初の2ケタとなる14勝9敗と勝ち星はキャリアハイを記録しました。

面白いのは、この年から4年連続で、キッチリ毎年37試合登板を記録しており、30試合以上登板する投手が4年も続けて同数というのはある意味すごい記録だと思います。

更には、規定投球回数に到達していた5年連続ですべて180回台の投球回数を記録しており、あるゆる数字が4、5年間ほぼ同じままで推移していたという、究極的に波の少ない投手でした。

完投・完封もこの年に初めて記録しますが、この5年目28歳のシーズンにしてようやく、ヤクルトの主力投手へのし上がったという感じでした。

 

という事で、彼にとって大飛躍となったこの年、オールスターにも初めて出場しました。

そして9月3日…

王貞治選手に世界新・通算756号本塁打を打たれました。日本中が待ちに待った瞬間、といっても過言ではなかったでしょう。個人的にこの瞬間自体は記憶にはありませんが、これを記念した筆箱が作られ、親から買い与えられてしばらく学校へ持って行ってました。

 

それまで、世界新の重圧と、対戦する投手が逃げ越しになりがちなのとがあり、なかなか記録は誕生しなかったといいますが、彼がこのホームランを献上したのは、それだけヤクルトの主力投手になった事と、勝負を逃げなかった事があったと思います。

 

 

ヤクルトの優勝

ついに開花した鈴木康二朗投手でしたが、更に翌1978(昭和53)年には、入団して初めてのチームのリーグ優勝、そして日本一まで経験します。

結果的にこれが最初で最後の優勝経験でしたが、この年の日本シリーズは阪急との対戦で、大杉勝男選手の疑惑のホームランで、阪急・上田監督が1時間以上にもわたる猛抗議の末に、ヤクルトが制したシリーズでもありました。

その輝かしい年に、唯一のタイトルを手にしました。

それが「最高勝率」で、この年13勝3敗1Sをマークし、防御率こそ4.11でしたが、10の勝ち越しで、ほとんどを先発投手として登板し、ヤクルト初優勝に大きく貢献しました。ただ日本シリーズ0勝2敗だったのは残念でした。

 

 

ヤクルト優勝後

その後も先発を主に活躍し、30歳を迎えた1979(昭和54)年こそ8勝11敗で防御率4.26に終わりますが、翌1980(昭和55)年は再び2ケタの11勝6敗5Sと、この年は抑えも務めました。また防御率2.98は規定投球回到達した5回のうちで最良で、唯一の2点台でした。

また、この年の11勝が3度目にして最後の2ケタ勝利でした。

 

その後は勝ち星を減らしていき、1981(昭和56)年は9勝8敗、防御率3.81でこの年が規定投球回数到達最後となりました。

翌1982(昭和57)年は7勝4敗1S、防御率4.02で、投球回は103⅓㌄で遂に規定投球回を割り込む事となりました。先発の機会もかなり減って、それまで半分以上先発していたのが、この年には1/3程度になっていました。時に33歳でした。

 

 

近鉄へトレード

1983(昭和58)年からは、井本隆投手とのトレードでパ・リーグ近鉄へ移籍しました。

リーグも変われば、場所も関西とガラリと変わりました。

このトレードは相手方、近鉄・井本投手の諸事情がかなりあったとの噂ですが、その交換相手として鈴木投手と、また柳原隆弘選手が近鉄へ移籍しています。

 

結果から見れば、近鉄がかなり得したトレードでした。

井本投手はヤクルトで移籍初年のみギリギリ規定投球回数に到達しましたが6勝14敗で、リーグ最多黒星の記録がつき翌年には引退してしまいます。

近鉄の場合、鈴木投手は抑えで活躍し、柳原選手は代打逆転サヨナラ満塁ホームランの離れ業で注目され、代打の切り札として存在感を増す事となりました。

 

という事で鈴木投手の移籍初年となる1983年は42試合登板で、5勝1敗14S、防御率2.28の素晴らしい数字を残しました。完全にここでストッパーとして生きる道が定まったと感じます。

 

 

近鉄の抑えとして君臨

鈴木投手は近鉄球団で初といっても良いレベルの「守護神」でした。

これまで、近鉄という球団はセーブを挙げる投手は大抵、先発投手が別の日にはリリーフに回ってセーブを挙げる事が殆どで、今では考えられないフル回転をいろんな投手がやっていました。

リリーフに特化した投手といえば、かつて佐藤文男という投手がいましたが、ひとケタセーブ止まりで活躍期間も短く、守護神という感じではありませんでした。

鈴木投手は近鉄球団で初めて2ケタセーブを挙げた投手であり、この先もその活躍を続けていく事となります。

 

1984(昭和59)年は35歳にして46試合登板、5勝4敗18S、防御率3.10と近鉄では最高の成績を残し、この18Sはリーグ最多でした。ただし最優秀救援のタイトルはこの年優勝した阪急のストッパー・山沖之彦投手が獲得しています。この辺りは強いチームと弱いチームの差がどうしても出てきます。弱いチームはそもそも守護神の出番すら少ない訳で。

 

翌1985(昭和60)年も36歳で5勝1敗12S、防御率3.00でイニングは減っていますが、キャリアハイの47試合に登板しています。

この年は抑えとして、ひと回り以上年下の石本貴昭投手が台頭してきて、救援で19勝を挙げセーブは7と鈴木投手の方が多く、2年連続で最多セーブ自体は記録していますが、最優秀救援となると今度はチームメイト石本投手に取られる事となり、守護神として君臨し続けながらこのタイトルにだけはどうしても手が届きませんでした。

 

1986(昭和61)年は、21試合と出番が減り35㌄で2勝1敗、セーブは0でした。前年台頭した石本投手が完全に守護神の座に定着し、それまでの位置を譲る形になってしまいましたが、引退の原因は「乱闘の際にパンチが空振りし肘が伸び切った」との話もあります。本当か分かりませんが…

とにかくこの年、鈴木投手は37歳で引退しました。

 

 

遅めのデビューでしたが、一軍定着から引退前年まで10年連続で30試合以上登板は見事なものでした。

 

その後は社会人軟式野球で長く現役を続け、引退後はサラリーマンとして過ごし、定年後は故郷でゆっくりしていたようですが、2019(令和元)年11月に70歳で亡くなっていた事が、その死の3年以上後に報じられました。

 

↓1985(昭和60)年の選手名鑑より

近鉄移籍3年目にして、引退前年のものです。

前年1984年に18Sと抑えとして乗りに乗っていた時代で

36歳を迎えても尚活躍していました。

 

      

 

 

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