思い出のプロ野球選手、今回は木下 富雄選手です。 

 

1970年代後半から80年代後半にかけて、カープ黄金時代の控え内野手として数々の優勝に貢献し、またヒゲがトレードマークで控えでも存在感があり、内野ならどこでも守れるユーティリティープレーヤーとして活躍した選手です。

 

【木下富雄(きのした・とみお)】 

生年月日:1951(昭和26)年5月7日

入団:広島('73・ドラフト1位) 
経歴:春日部高-駒大-広島('74~'87)

通算成績:1,364試合 打率.240 583安打 48本塁打 221打点 106盗塁

位置:内野手 投打:右右 現役生活:14年
規定打席到達:なし

節目の記録:出場-1,000試合出場('83.10.23)

 

 

個人的印象

カープ黄金時代の控え内野手、です。

ヒゲが印象的で「パンチョ」とあだ名され、自分がプロ野球を見始めた当初にひげを生やしていた、と認知していた数少ない日本人選手の一人で、他には倉持明(ロッテ)投手ぐらいだったと思います。

内野ならどこでも守れる選手で、ただ守るだけの控えではなく、レギュラー内野手の故障時は代役を務め、一定数の出番を長年にわたり得て、活躍してきた印象もハッキリあります。

 

 

プロ入りまで

高校は埼玉県の春日部高校で、ここはプロ野球OBはほとんどいませんが、後にヤクルトに入団し、後に国会議員になった青島健太選手もOBです。

駒沢大学へ進学し、4年の時に明治神宮野球大会で優勝を果たしますが、ベストナインを獲得する活躍を見せました。大学では栗橋茂選手などが同期で、中畑清選手が2学年後輩になります。

この優勝時に対決したのが、同志社大学で2学年下の田尾安志「投手」でした。

大学での活躍で、1973(昭和48)年のドラフト会議で広島から1位指名を受け入団しました。

 

 

初期キャリア

ドラフト1位入団で大いに期待されましたが、新人の1974(昭和49)年は89試合に出場し、165打数27安打(打率.164)で2本塁打6打点でした。

その後は出番が減り、打力面が課題となり、1975(昭和50)年は2年目でしたが、カープ初優勝に沸く中、あまり出場機会に恵まれませんでした。

 

 

築いたポジション

一定の地位を確立したと感じられたのが1977(昭和52)年からでした。

この年初めて100試合を越える106試合に出場し、182打数44安打(打率.242)で4本塁打21打点を記録、課題とされた打撃面で2割を越えたのが初めてでした。

翌1978(昭和53)年は惜しくも99試合でしたが、240打数68安打(打率.283)で、この時の打率が現役生活では最高の記録でした。

当時のカープは内野レギュラーが不動で、その中に食い込むのは至難の業でしたが、それでも出番が回ってきて一定数の活躍を続けることとなりました。

打順的に二番が多く、一番の高橋慶彦選手が塁に出ると、バントやエンドランなどで、クリーンアップへ繋ぐ役割が多く、その為犠打が毎年一定数あり、また派手な打撃成績も残していませんでした。

 

 

優勝経験

初めて本格的に優勝に貢献したのが1979(昭和54)年の時で、112試合に出場し214打数53安打(打率.248)で5本塁打25打点の成績でしたが、この年の25盗塁はリーグ2位でした。ちなみに盗塁王は55盗塁の同僚・高橋慶彦選手でした。

近鉄との日本シリーズでは4試合に出ていますが、フルで出ている試合はなく、守備固めを主として安打はなく、四球で1度出塁しています。日本一を決めた「江夏の21球」の時には二塁を守って、その大きな緊張下にありました。

 

翌1980(昭和55)年は123試合に出て、201打数44安打(打率.219)で4本塁打10打点と打撃面では低迷しました。盗塁は10個でかろうじて2ケタでしたが、前年から5年連続で2ケタ盗塁しており、守備以外に足でも活躍しました。

また、これも前年からですが1986(昭和61)年まで8年連続で100試合以上出場しており、通算9度も100試合以上出場していながら、規定打席到達が一度もなかったという意外なキャリアを残しています。

この年の日本シリーズでは、ほとんどの試合に出場しており、特に第6戦と第7戦の2試合連続で3安打の猛打賞を記録、第7戦では逆転となるタイムリーヒットを打って、その後のチームの猛攻により、そのまま2年連続日本一達成となりました。この活躍で日本シリーズ優秀選手賞を受賞し、選手生活で唯一ともいえる勲章を手にしています。

 

 

30代の活躍

30歳を迎えた1981(昭和56)年からはしばらく優勝から遠ざかりますが、この年からの2年間で出番的なピークで、2年連続で300打数越えを記録し、もう少しで規定打席というところまできていました。

1981年はキャリアハイの126試合に出て316打数75安打(打率.237)で6本塁打17打点の成績で、試合数と打数はキャリアハイでした。この年の打数は「364」で規定打席まであとわずか「39」でした。

1982(昭和57)年は、117試合に出て302打数81安打(打率.268)で10本塁打40打点と活躍し、安打、本塁打、打点はキャリアハイで、本塁打は現役生活唯一の2ケタ(10本)を記録しました。

こうしてほぼレギュラーといえる活躍を続けてきたのがこの2年間でした。

 

1983(昭和58)年からは、またそれ以前の水準に戻っての出番となり、100試合以上出場しながら200前後の打数で50本前後のヒットを記録する年が続きました。この年の終盤に通算1,000試合出場を達成しました。

 

 

1イニング2安打

1984(昭和59)年のヤクルト戦で、21-3で快勝した試合があり、この時に1イニング12点の猛攻をかけていますが、打順が2回まわってきて、最初の打席は代打で登場してシングルヒット、2巡目はホームランを打ちました。同僚の堀場英孝選手も同様の形で同じ記録を残しており、1イニングで1巡目代打安打、2巡目ホームランが2人出たという超レアな記録を残しています。

この年カープは4年ぶりにリーグ優勝を果たし、阪急との日本シリーズでは全試合出場し、第1戦から5線まで5試合連続でヒットを記録しています。

 

隠し球

1985(昭和60)年の阪神との開幕戦で、延長10回、二塁に進んだ北村照史選手がベースを離れた隙にタッチしてアウトにする「隠し球」をやってのけました。この年優勝した阪神も、この開幕戦は黒星スタートとなりました。

この年、通算100盗塁を記録しましたが、シーズンでは11個を記録、シーズン2ケタ盗塁はこの年が最後となりました。

 

晩年、引退

 分かり易く出番が減ってきたと感じたのが1986(昭和61)年でした。

 102試合に出ましたが、144打数30安打(打率.208)で1本塁打9打点で、打点がひとケタになったのが10年ぶりでした。また9年連続40安打以上を記録していましたが、この年は30本でした。

 西武と8戦までもつれ込んだ日本シリーズにも出場しましたが、この年はほとんど出番がなく、守備固めが多かったです。

 1987(昭和62)年、ついに100試合を割る46試合出場で、15打数2安打(打率.133)で打点0に終わり、36歳で引退しました。

 

 

引退後は現場と解説者を往復し、現場では一軍コーチや二軍監督も務めました。

 

 

↓1981(昭和56)年カープ手帳より

 30歳になるシーズンで、前年まで2連覇を達成していました。

 ここまでの通算成績はほぼ20代で挙げた全成績、に近い形となります。

      

 

 

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