思い出のプロ野球選手、今回は西井 哲夫投手です。 

 

1970年代初頭から80年代後半にかけて長く活躍した投手で、当初はヤクルトの先発ローテーション投手として、その後リリーフでヤクルトの初優勝に貢献し、ロッテでは抑えとしても活躍し、通算542試合に登板した投手です。

 

【西井哲夫(にしい・てつお)】

生年月日:1951(昭和26)年7月7日

入団:ヤクルト('69・ドラフト2位) 
経歴:宮崎商高-ヤクルト('70~'82)-ロッテ('83~'86)-中日('87)

通算成績:542試合 63勝66敗20S 1,370投球回 19完投 5完封 744奪三振 防御率3.73

位置:投手 投打:右右 現役生活:18年
規定投球回到達:3回 ('72、'74、'75) 

節目の記録:登板-500試合登板('85)

 

 

個人的印象

ヤクルトの主力投手の印象がありましたが、自分が野球を見始めた70年代後半の成績を見てみると、先発ローテ投手ではなく、たまに先発をするリリーフ投手だった感じですね。名前はよく聞いたので、リリーフだったようにも確かに思います。

同時期にチームメイトに酒井圭一投手がいて、西井と酒井を混同し、それも2人が同じ試合で投げたりすることもあり、訳が分からなくなった覚えがあります。

 

いつの間にかヤクルトで名前を聞かなくなったな、と思ったらロッテへ移籍していましたが、リアルで最も記憶にあるのはロッテで抑えとして活躍した1984年当時です。絶対的守護神という感じではありませんでしたが、これに近い存在で、その後も同様に活躍を続けるものと思っていたら、その後急失速していった覚えもあり、最後は中日でしたが「一軍で投げたの?」か確認できないまま引退してしまっていました。

 

プロ入りまで

高校は宮崎県の宮崎商業高校で、3年生の1969(昭和44)年、エースとして春夏連続で甲子園に出場し、いずれも初戦敗退には終わりましたが、同高が春夏連続出場したのはこの年が初で、その後2021(令和3)年に実に52年ぶりの記録を達成しましたが、この年の夏はコロナで試合ができませんでした。

1969年のドラフト会議で当時のヤクルトアトムズから2位指名を受け入団しました。

この時1位指名されたのは同じ高卒の同級生・八重樫幸雄選手でした。

 

 

初期キャリア

連続甲子園出場した期待の表れかドラフト2位入団で、背番号は「11」を与えられました。

高卒新人の1970(昭和45)年、早くも一軍戦で20試合に登板し64⅓㌄を投げて1勝3敗防御率2.77と一定の成績を残しています。

初勝利のみの1勝でしたが、この試合は大洋・間柴富裕投手との「ドラフト2位入団の高卒新人」同士の投げ合いを「完封」で制してのものでした。つまり高卒新人としてプロ入り初勝利を完封で挙げる記録を残しました。

 

台頭

1年目から規定投球回数の半分を投げる活躍を見せた西井投手ですが、2年目1971(昭和46)年は更に出番を増やし107⅓㌄を投げて26試合で5勝7敗防御率2.61をマークしました。5勝を挙げた事もですが、初めて100㌄を越え、また新人から2年連続防御率2点台なのも素晴らしい点ですね。

 

ローテーション投手期

3年目1972(昭和47)年には初めて規定投球回数到達(131⅓㌄)を果たし、32試合に登板し9勝5敗防御率3.64の成績を残し、早くもヤクルトの主力投手として名乗りを上げた格好となりました。ここから4年間ぐらいが彼の出番的なピークになるかと思います。

ちなみに入団してから2年連続最下位で、この年ようやく最下位脱却でチームは4位となりました。

 

4年目1973(昭和)年は成績が下降し、1972~75年の4年間で唯一規定投球回に届いていませんが93⅔㌄を投げ30試合で2勝3敗防御率3.16でした。

 

唯一の2ケタ勝利

5年目1974(昭和49)年は復活し153㌄を投げ、35試合で11勝6敗1S防御率3.18の記録を残し、最初で最後の2ケタ勝利をあげました。

この年のヤクルトはエースの松岡弘投手が17勝、浅野啓司投手が12勝をあげ、これに次ぐ11勝となり、5年目で初のチームAクラス入りにも貢献しました。

 

その後は1975(昭和50)年43試合で9勝15敗1S防御率3.39と、逆に唯一の2ケタ敗戦を記録していますが、この年はキャリアハイの178⅓㌄を投げ、これが結果的に最後の規定投球回到達となりました。

 

 

リリーフ転向

1976(昭和51)年は不調に陥り、先発投手の座を明け渡す格好となり、79⅔㌄を投げて32試合で0勝7敗防御率4.84と、高卒でプロ入りして以降初の未勝利に終わる屈辱のシーズンとなりました。

 

以後は先発登板する機会は限定的となり、年によっては先発0ですべてリリーフでの登板となる時もしばしばという状況になっていきます。

 

1977(昭和52)年は30試合で3勝2敗2S防御率3.72で58㌄を投げました。この年チームは入団以来初の2位になりました。

 

 

唯一の優勝経験

1978(昭和53)年、ヤクルトは球団創設史上初のリーグ優勝および、日本シリーズでもパ・リーグの常勝球団・阪急を破っての日本一を達成しました。

このシーズンでは66⅓㌄を投げ、30試合に登板し1勝0敗1S防御率6.14と数値上はパッとしないものですが、中継ぎとして優勝に貢献しました。

日本シリーズでは中継ぎで3試合登板しており、うち2試合は打たれていますが、1試合(第4戦)では4-5のビハインドで登板し、2回1安打で無失点に抑えた後、味方が逆転して6-5となり、最終回松岡投手が抑えてセーブがつき、西井投手にとっては日本シリーズでの唯一の白星がつきました。

この年のオフには新聞紙上でトレードが報じられ、ロッテ・山崎裕之選手との交換が成立寸前までいったとの話もありましたが結局破談となり、山崎選手は新生・西武ライオンズとのトレードで話がまとまり、この時点での移籍は無くなりました。

 

 

80年前後

1979(昭和54)年から3年間はほぼ毎年80㌄前後の投球回で、中継ぎを中心に時折先発して、という状態でしたが、1979年は背番号が入団以来着けていた「11」から、この年だけ「42」と大きな番号に変わりました。これは近鉄からトレードで神部年男投手が移籍してきて「11」をつける事となり、その他空き番号がなかったようで42をつけたのではないかと思います。

また入団以来初めての先発機会なしに終わり、43試合で3勝2敗防御率3.60の成績でした。

1980(昭和55)年は背番号が「16」と2年ぶりに10番台に戻り、29試合で5勝1敗防御率2.73の成績で、79㌄ながら2年目1971年以来9年ぶりの防御率2点台を記録し、完投は5年ぶりに、また完封は実に8年ぶりに記録しました。そしてこの年が29歳にして完投、完封を記録した最後の年にもなり、30代に入ってからは完投記録がありませんでした。

現役通算130試合に先発登板しましたが、完投は19回だけとこの時代の先発投手の割には少ない記録でした。

 

1981(昭和56)年は30歳になる年でしたが、登板数はキャリアハイの47試合を記録し、5勝5敗4S防御率3.93を記録しました。

規定投球回数に到達しなくなった1976年から引退する1987年までの12年間のうち最も投球回の多い94㌄を投げました。

4Sをあげてはいますが、抑えという感じではなく、4S以上あげた投手はチームに4人もいて、勝ち試合で最後まで投げた投手としてあげたセーブという感じあり、最も抑えに近い位置づけにあったのは1勝3敗10Sを残した37歳ベテラン神部投手だったと思います。

 

1982(昭和57)年は、かなり出番が限定的となり27㌄と入団以来群を抜いて少ない投球回で、22試合で0勝3敗1S防御率5.67と良いところなく終わりました。

 

 

ロッテで心機一転

1982年オフに、ロッテの抑え投手だった倉持明投手とのトレードが決まり、ロッテへ移籍となりました。

1983(昭和58)年からロッテでプレーし、背番号は「21」に決定しました。

この年は34試合で3勝4敗防御率6.08、先発は1試合のみで、これが現役最後の先発機会にもなりました。ロッテでは倉持投手が抑えでしたが代わって務めたのは西井投手ではなく外国人のシャーリー投手でした。

 

ロッテでのハイライトは1984(昭和59)年で、この年稲尾和久監督の下で抑え役に指名され、37試合で6勝3敗8S防御率3.50の成績を残し、チーム内の他の投手は最高でも3Sであり、この年限りでしたが守護神として活躍したシーズンでした。

2ケタセーブをあげるような絶対的守護神ではなく、他の投手も多少のセーブは挙げてはいましたが、他の投手よりダントツに多かったという意味での守護神ぶりで、チームの2位躍進に貢献しました。

 

1985(昭和60)年も、前年の活躍から抑えを期待されましたが結果が出ず、10試合目の登板で通算500試合登板を達成しますが、25試合で0勝0敗3S防御率5.90に終わりました。

1986(昭和61)年は16試合で0勝0敗防御率2.66で20⅔㌄を投げたのみでした。ロッテへ移籍した初年から投球回は徐々に減っていっており、4年間で9勝7敗11Sをあげた事でトレードとしては成功したのかなと感じられ、交換相手の倉持投手はヤクルトへ移籍した年限りで引退しています。

 

最後は中日で

1986年シーズン終了後にロッテから戦力外通告を受け、35歳という年齢もあり、引退か?と思われた時に、そのロッテから落合博満選手がFAで中日へ移籍する話があり、この時の1対4の大型トレードが大変話題になりました。1対4のトレードとして中日が放出する4選手のうち3人が投手であり、その中には守護神・牛島和彦投手もいました。

あまりの投手不足に陥った中日は、他球団を自由契約になったベテラン投手をあちこちから獲得し、西井投手もテスト入団でこの枠に入る形で1987(昭和62)年に中日へ移籍となりました。

中日でどれだけ出番があるか?と思って見ていましたが、自分が見た限りでは確認できず、しかし11試合には登板していたという記録が残っており、0勝0敗防御率3.29の成績を最後に36歳で引退しました。

 

 

通算63勝の投手で、特にタイトル獲得やオールスター出場歴もない、そんなにすごい知名度の投手ではありませんでしたが、高卒1年目から18年連続で一軍戦に出場し、高卒1年目から16年連続20試合以上登板、同じく18年連続10試合以上登板などの実績は、長きにわたって一軍で活躍を続けてきた証でもありました。

唯一の表彰が通算500試合登板であり、通算542試合登板は2023年シーズン終了時点では歴代70位の素晴らしい記録でもあります。

 

 

引退後は会社員として球界から離れ、定年後は野球教室を開いたり、母校のOB会長を務めたりしていたといいます。

 

 

1985(昭和60)年の選手名鑑より

ロッテで抑えとして活躍した1984年の成績と通算成績が載っていますが、通算490試合登板でした。この年に500試合登板を達成しますが、勝敗的にはこの成績に3Sを追加したのみで2年後に引退します。

異色の趣味をもっていたようで、骨董品絵画の収集を趣味とし、特技は座禅としています。コメント欄には「スリランカで精神修行」とも記されており、精神面への追求として当時の野球選手離れした感がありました。

スリランカは瞑想が特に根付いた国だそうです。

      

 

 

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