思い出のプロ野球選手、今回は神部 年男投手です。

 

 

1970年代を中心に近鉄、そしてヤクルトで活躍し、先発に抑えに奮闘し、引退後は国内外を問わずコーチとして活躍しました。

 

【神部 年男(かんべ・としお)】

生年月日:1943(昭和18)年3月24日
経歴:高砂高-三菱製紙-富士鐵広畑-近鉄('70~'78)-ヤクルト('79~'82)

通算成績:370試合 90勝89敗16S 1,577 1/3投球回 57完投 15完封 762奪三振 防御率3.15

記録:ノーヒットノーラン 1回('75.4.20)

   オールスター出場 3回('72、'74、'75)

 

 

●個人的印象

ヤクルトのベテラン投手です。

ここでは近鉄のユニフォームですが、近鉄にいた事は後から知り、リアルではヤクルト時代しか知りませんでした。ちょっといかつい感じの投手かな、というかすかな覚えはありました。逆にヤクルト時代のユニフォームの写真があまり載っていませんでした。

 

●9年間のノンプロ

1943年3月生まれという事で、高校卒業が1961年3月で、社会人の実業団チームに2つ所属し、入団が1970年なので、つごう9年間社会人チームに所属していた事となります。

 

●27歳で入団

1969(昭和44)年ドラフト2位で近鉄に入団しました。以前に1度ドラフト(巨人・3位)にかかっていますが、これを拒否し一度は社会人チームに残り、二度目のドラフトでの入団でしたが、新人の年は1970(昭和45)年で27歳になっており、早生まれにつき学年的には28歳になる年の高齢入団でした。

 

●新人から即戦力

年齢的な事もあってか即戦力として活躍し、133 1/3回を投げて新人から規定投球回に到達し、8勝7敗の成績を挙げています。

 

●2年目で10勝

1971(昭和46)年は2年目で10勝を挙げ、いよいよ主力として定着したかなというところでした。3年目1972(昭和47)年は13勝と2年連続2ケタ勝利を挙げ、投球回も唯一200回を越えました。またこの13勝がキャリアハイとなりましたが、この年は初めてオールスターにも出場し、大変実りある年になったと思います。

 

●近鉄その後

4年目1973(昭和48)年は入団以来初めて規定投球回を割り込み、106 2/3回に終わり成績も7勝7敗と新人の年以来の1ケタ勝利に終わり、この年既に30歳を迎えていました。

1974(昭和49)年復活して12勝を挙げ、この年適用された「セーブ」もひとつ挙げています。この年挙げた4完封はリーグ最多でした。

1975(昭和50)年も10勝と再び2年連続2ケタ勝利をマークしました。2年目からの5年間で4度2ケタ勝利を挙げており、またこの75年が最後の2ケタ勝利でもあり、この辺り70年代前半が彼のキャリア的に全盛期といえる時期かと思います。

 

●ノーヒットノーラン

タイトルらしいタイトルを獲った事がない神部投手ですが、ノーヒットノーランを1度記録しています。1975年4月20日、対南海戦。1-0で勝利し四死球4を記録しながら無安打で達成しました。ちなみに矢沢永吉さんが率いたロックバンド「キャロル」が解散したのはこの1週間前の事でした。

 

●福本封じ

当時全盛期だった、無敵の盗塁王・阪急/福本豊選手の盗塁を阻止すべく、社会人で対戦した頃に徹底的に牽制技術を磨き、福本選手も「走りにくかった」と当時を述懐していました。その後プロ入り後は福本選手がクセを見抜いてかなり走ったという話もあり、かなりしのぎを削った間柄であったようです。

 

●70年代後半

1976(昭和51)年から2ケタ勝利がなくなり、この年こそ規定投球回はクリアしますが、以後は少し届かない状態で成績は推移していきます。この年は8勝12敗と逆にただ一度の2ケタ敗戦を喫しました。

1977(昭和52)年は抑えの役割が少し増し、5勝9敗3Sという成績でした。1978(昭和53)年7勝5敗を最後に近鉄でのキャリアを終える事となりました。

 

●ヤクルトへ

1979(昭和54)年よりヤクルトへ移籍します。トレードでヤクルトのマニエル選手や、永尾泰憲選手らとの交換でやってきました。

近鉄では背番号27でしたが、ヤクルトでは11になりました。そしてこの番号は後に荒木大輔投手に引き継がれる事となります。

この年は先発で6勝8敗、投球回は125とわずかに規定に届きませんでしたが、36歳にしてまだローテを守って活躍していました。

1980(昭和55)年は3勝5敗、既に37歳になっており、成績も下降し出番も減っていってましたが、現役は続行されました。ちなみにこの年は王貞治選手に通算868号となるホームランを打たれ、これが王選手の現役最後のホームランとなりました。つまりは「王に最後のホームランを打たれた投手」な訳です。

 

●抑えで最後の華

1981(昭和56)年、38歳で現役を続行、成績は下降線をたどっていましたが、この年は抑えとして活躍し、32試合登板で1勝3敗10Sを挙げています。短いイニングならまだまだやれる、と見せつけた格好でした。

この活躍が最後の華となり、翌1982(昭和57)年は一軍出場がないまま終わり、この年限り39歳で引退しました。

 

 

●紙一重で優勝と無縁に終わる…

下の成績表で見て分かるように、所属チームのうしろに(1)がなく、つまりチームが優勝した事はなく、優勝経験のないまま選手生活を終えています。

それも1978年まで近鉄にいましたが、全く優勝のないままヤクルトへ移籍し、移籍後の1979年と80年に古巣・近鉄が優勝し、また移籍先のヤクルトは移籍前年の1978年に優勝しますが、これ以降優勝がありませんでした。

出た球団は途端に優勝し、入った球団は途端に優勝しなくなってしまう、というチグハグぶりで、トレード相手だったマニエル選手はこれと反対に78年ヤクルトで、79、80年に近鉄で3年連続の優勝を経験しています。

 

 

その後のコーチ経験では、あちこちから声がかかり、引退後も大活躍でした。