思い出のプロ野球選手、今回は浅野 啓司投手です。 

 

1960年代後半から80年代前半までヤクルト、巨人で長年活躍し、前半は先発を中心に、後半は中継ぎにとそれぞれ役目を果たし、通算500試合以上に登板し、86勝を挙げた投手です。

 

今回より1949(昭和24)年生まれの選手をお送りしていきます。

 

【浅野 啓司(あさの・けいし)】

生年月日:1949(昭和24)年2月22日
経歴:福山電波工(現・近大広島)高-サンケイ・アトムズ・ヤクルト('67~'76)-巨人('77~'84)

通算成績:542試合 86勝116敗10S 1,715⅔投球回 42完投 8完封 1,043奪三振 防御率3.39

入団:サンケイ('66一次 ドラフト9位)

表彰:カムバック賞('77)

オールスター出場 1回('74)

節目の記録:登板-500試合登板('82.9.1)

      奪三振-1,000奪三振('82.6.22)

 

 

個人的印象

巨人のメガネ投手のひとり、です。

この写真のようなヤクルト時代はリアルでは全然知らなくて、元々巨人の投手だと思っていました。

背番号17で、当時続き番号だった「18」の堀内恒夫投手と並ぶメガネ投手として認識しています。そしてこの二人は当時まだ30歳にもなっていなかったと思いますが、子供心に随分おじさんに見えたものでした。

あとは、、先発でバリバリ投げる感じじゃなくて、中継ぎの印象が強かったです。リアルで知ったのが割と晩年だった事もありますが、背番号の割にいつも主力で活躍していた印象は薄かったですね。

ちなみに名前は「あさのけい」だと長年思っていましたが、「けい」と濁らないのが正しいようです。

 

プロ入りまで

高校は広島県の福山電波工業高校(のちの近大福山、現:近大広島高)で、後にロッテの大エースとなった村田兆治投手の1年先輩にあたります。

甲子園出場はなりませんでしたが、偶々他の選手を見に来ていたスカウトの目に留まり、1966(昭和41)年の第一次ドラフト9位にて当時のサンケイアトムズに入団する事となりました。

 

 

高卒新人で大活躍

ドラフト9位での入団で、高卒新人ということもあり、当初はそれほど期待はされていなかったのではないかと思いますが、4月初めに早くも一軍デビューを果たすとこの年50試合に登板し、先発でも9試合登板し2完投を挙げて8勝10敗の記録を残し、高卒新人でいきなり規定投球回に到達、防御率2.76の素晴らしい成績をあげました。この防御率で13位というのが驚きで、当時の投手レベルの高さを感じさせられます。

 

 

奮投のとき

2年目1968(昭和43)年は、新人時代の活躍が認められてか入団時の背番号「36」から主力格の「19」を与えられました。しかし2年目のジンクスにはまったか36試合4勝6敗、投球回は79⅔㌄と、前年のほぼ半減の恰好となりました。

3年目1969(昭和44)年は復活して、ギリギリながら再び規定投球回数に到達し実に54試合に登板して9勝6敗、防御率2.64の好成績を残しました。

 

球団名が「ヤクルト」になった4年目1970(昭和45)年は、逆にギリギリ規定投球回数に足りず123㌄で28試合、6勝12敗と大きく負け越しましたが、この年初完封を挙げています。

この年から大負けが続くようになり、3年連続で「1ケタ勝利2ケタ敗戦」を記録してしまいます。

1971(昭和46)年は7勝14敗、ここまでは新人時代から規定投球回に「届く」「届かない」を隔年で繰り返していましたが、1972(昭和47)年は6勝14敗で、初めて2年連続で規定投球回数に到達すると、1974(昭和49)年まで4年連続で規定投球回数到達を維持しました。

1970~72年までの3年間で19勝40敗と厳しい数字で、この負越し分が影響して現役通算で30もの負越しになってしまいますが、いずれも防御率3点台を記録していて、チームが弱かったのもあって勝ち星に恵まれていない状況でした。

 

 

2ケタ勝利と最盛期

7年目1973(昭和48)年には初の2ケタ勝利を記録し14勝12敗の成績を残しました。防御率2.38を記録し、勝ち星と防御率はキャリアハイとなる素晴らしい1年となりました。

しかしこれ以上に素晴らしい1年となったのが翌1974(昭和49)年で、この年は現役生活唯一のオールスター出場を果たし、12勝15敗5Sと負越してはいますが、投球回はキャリアハイの256㌄でフル回転していました。防御率2.39は前年2.38に次いでの好成績で、この数字で12勝15敗という数字が信じられないですね。

 

 

転換期

最高の年だった1974年でしたが、翌1975(昭和50)年から暗転します。

この年は腰痛などあり、一転して22試合で1勝4敗防御率6.63と悪化し、5年ぶりの規定投球回未達かつプロ入り最低の57㌄に終わり、それまでのヤクルトの主力から一気に戦力として厳しい立場となりました。

翌1976(昭和51)年も、23試合で3勝6敗1S、59㌄で防御率3.61と数字こそ改善したものの、出番的には前年並みとなりました。

 

 

巨人で復活

ヤクルトでくすぶっていた中1977(昭和52)年、倉田誠投手との交換トレードで巨人へ移籍しました。

倉田投手といえば、巨人V9時代に活躍した投手でV9を達成した1973年には18勝を挙げており、バリバリの先発ローテ投手ではなかったものの、巨人で通算47勝を挙げてたい実績ある投手で、彼の付けていた背番号「17」を浅野投手が巨人でつける事となりました。

このトレードは近年ニュースになった事があり、巨人の田口麗斗投手がヤクルトへトレードとなった際に、「44年ぶりの巨人-ヤクルト間のトレード」として、44年前のこのトレードが挙げられていました。

 

移籍初年の1977年は、31試合9勝4敗1S、防御率2.52の好成績を挙げ「カムバック賞」を受賞しています。規定投球回数に足りない93⅓㌄の投球でしたが、時々先発をしながら中継ぎを主とする役どころでした。

 

この年9月3日に前年までの古巣ヤクルト戦で移籍後初完投勝利を挙げましたが、この日は王貞治選手が世界新の756号本塁打を放った試合で、そんなメモリアルデーに先発完投する活躍を見せていました。

 

結局規定投球回の到達は腰を痛める前の1974(昭和49)年、完封はヤクルト最後の1976(昭和51)年、完投はこの1977(昭和52)が最後となりました。

 

 

巨人で9年間

過ごしましたが、その後の8年間はやはり時々先発しながら中継ぎを主戦場として、シーズンの勝ち星は2勝が最高で、毎年ほぼ50㌄前後を投げる形で過ごしていました。

スピードガン登場期に149km/hを記録したともいわれ、30歳を過ぎても速球で鳴らしていました。

 

1981(昭和56)年には通算500試合登板と1,000奪三振の節目の記録を達成し、1982(昭和57)年は移籍2年目以降では最良の成績で、35試合2勝4敗3Sを挙げ、防御率2.51の好成績を残しています。

 

ヤクルトでは優勝経験のないままトレードとなりましたが、巨人ではカムバック賞受賞する活躍をした1977年と1981年、1983(昭和58)年の3度の優勝経験を得て、1981年は日本一となっています。1977年の日本シリーズではすべてリーフで3試合に登板し、1勝1敗の記録を残していますが、以後の日本シリーズでは登板がありませんでした。

 

1983年には14試合0勝1敗、わずか18㌄とめっきり出番が減り防御率9.50で34歳という事もありましたが現役続行となり、1984(昭和59)年18試合で24㌄、0勝0敗防御率4.13の成績を最後に35歳で引退しました。

 

 

 

巨人ではリリーフ中心で派手な印象はありませんでしたが、通算86勝116敗を記録し、100敗以上するぐらいには特にヤクルト時代は主力として投げていました。

また通算500試合以上を投げている、なかなかの実績をもった投手でもありました。

引退後は解説者を皮切りに、ヤクルト、日本ハム等でコーチを務め、海外球団や大学・クラブチームなど幅広くコーチとして活躍しました。

 

 

 

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