思い出のプロ野球選手、今回は仁科 時成投手です。 

 

 

1970年代後半から80年代後半にかけて、ロッテの先発ローテーション投手として長年活躍し、独特のアンダースローの投球で2ケタ勝利が実に5回、通算110勝をあげた名投手です。

 

【仁科時成(にしな・ときなり)】

生年月日:1951(昭和26)年6月2日
没年月日:2020(令和2)年1月 (68歳没)

入団:ロッテ('76・ドラフト3位) 
経歴:山陽高-大倉工業-ロッテ('77~'88)

通算成績:334試合 110勝108敗1S 1,816⅓投球回 91完投 15完封 890奪三振 防御率4.10

位置:投手 投打:右右 現役生活:12年
規定投球回到達:8回 ('79~'86) ※8年連続 

節目の記録:勝利-100勝('86.9.18)

オールスター出場:1回('80)

 

 

個人的印象

ロッテの先発投手、です。

アンダースローが印象的で、常にロッテの先発ローテにいた印象がありますが、今から思えば、実績の割にその存在があまりにも注目されていなかった感が強いです。

 

その理由として大きく2つが考えられますが、まずひとつは「ロッテに在籍していたこと」で、昭和のパ・リーグは殆どの球団が今のような人気はなく、球場はガラガラでこれをテレビ番組でネタにされるほどでした。

もうひとつは「村田兆治投手の存在」だと思います。ロッテが当時球場がガラガラだったとしても、そのロッテのエースとして「村田兆治」という存在は絶対的エースであり、プロ野球界でも名前が通っていましたが、どれだけ活躍しても村田投手の存在感に隠れてしまいがちだった、と感じます。

もうひとつあげるとすれば、「記録に縁がないところ」でしょうか。ノーヒットノーランを9回2死までやりながら、2度逃しています。

 

 

プロ入りまで

高校は岡山県の私立である山陽高校というところで、甲子園出場はありませんでした。この高校はプロ野球選手を輩出した人数も少なく、それも仁科投手よりはかなり年下の世代であり、甲子園に出たのは2017年夏が初だったので、当時は全くの無名でした。

 

その後社会人の大倉工業へと進みますが、長年下積みが続いた格好で、主力級となるまで時間がかかったようです。

24歳になる年に都市対抗に補強選手としてようやく出場し、25歳では自チームで出場し、1976(昭和51)年のドラフト会議でロッテオリオンズから3位指名を受けて入団しました。

この年のドラフト1位は森繁和投手でしたが拒否して2年後西武へ入団し、2位の選手も拒否しており、入団した選手の中では最上位でした。他の同期には特に一軍で活躍した選手はいませんでした。

 

 

初期キャリア

入団時の背番号は「20」と、一軍級の番号を与えられました。これを引退までつける事となります。

高卒後社会人に7年間も在籍していた為、26歳になる年の高齢入団となり、即戦力の期待も込めらていたと思います。

 

1年目1977(昭和52)年から26試合に登板し、5勝2敗1S防御率4.25の成績をあげて91㌄を投げ、即戦力ぶりを見せました。

26試合中8試合に先発し、完投は0でしたが、4月の初登板は同時に初先発でもあり、8回⅓(9回1死)まで投げて初勝利をおさめました。

ちなみにセーブをあげたのは生涯1度きりで、この新人時代にあげて以降は全く記録する事はありませんでした。

 

 

主力へ台頭

川崎球場へ移転して迎えた2年目1978(昭和53)年には規定投球回に僅かに足りませんでしたが126⅔㌄を投げ、32試合で9勝6敗防御率4.25の成績をあげ、半分の16試合に先発し初完投を含め5完投を記録しました。

この年のロッテ投手陣は、2ケタ勝利を挙げたのは村田兆治投手の14勝のみで、これに次ぐ9勝であり、他はすべて6勝以下という状況であったので、仁科投手の躍進ぶりが窺えると思います。ベテラン八木沢荘六投手の力の衰えもあり、当時の金田監督に一旦引退をさせられた一幕もありました。

 

3年目1979(昭和54)年に初めて規定投球回数に到達し、179⅔㌄を投げ30試合で9勝11敗防御率4.00の成績を残しました。3年目でようやく初完封を挙げ、シーズン唯一の完封となりましたが無四球で記録しています。

 

投手陣はこの年も2ケタ勝利は村田投手の17勝のみで、これに次ぐ9勝で、次に水谷則博投手が7勝と続きますが、投手陣があまり強くない状況でした。

 

この年から実に8年連続で規定投球回をクリアし続けたのは大変立派なものですが、この実績に知名度が伴わなかったのがとても残念、と感じました。この記事を書くにあたり「Pick」で楽天やAmazonで探してみるもののほとんどヒットしなかったのも残念な思いがありました。

 

 

80年代に花開く

1980(昭和55)年は200投球回を越え、208⅔㌄を投げて29試合で17勝8敗防御率3.19と最高の成績をあげました。17勝はキャリアハイで唯一の15勝越えとなり、防御率も規定投球回に到達した8回のうちでは最も良い数字(唯一の3点台前半)でした。

 

この年は村田投手が9勝に沈み、奥江英幸投手が13勝、水谷則博投手が11勝と奮闘しましたが、17勝の仁科投手がぶっちぎりのチーム勝ち頭となり、完封は実に5回記録し先発ローテの座を完全に確立した感がありました。またこの年は現役生活で唯一のオールスターに出場し、シーズンは総合2位でしたが、前期は初の優勝を経験するなど最良のシーズンとなりました。

惜しかったのは近鉄とのプレーオフでエース村田投手不在の中で、0勝3敗で敗れた事で、うち第1戦と第3戦に先発しましたが、いずれも敗戦投手となった事でした。これはそれだけ奮闘した証ともいえます。

 

1981(昭和56)年には30歳を迎えましたが、この年もロッテは前期優勝を果たしました。

シーズンでは29試合で13勝10敗防御率4.06で、2年連続2ケタ勝利を挙げました。

この年は村田投手が復活し、19勝で最多勝を記録する大活躍で、水谷投手も12勝をあげています。

プレーオフは後期優勝の日本ハムとの対戦でしたが、この時も2度先発しながら0勝1敗で、前年に続き優勝を決められる試合での先発、敗戦となり、リーグ優勝に無縁だったロッテで、この2度のプレーオフが彼にとっての大舞台となりましたが、大舞台ではあまり活躍できませんでした。

 

 

エースの離脱

1982(昭和57)年は、エースの村田投手が肘の故障により離脱する事態が発生しました。この年村田投手は6試合に投げただけで、2年後1984(昭和59)年の終盤に復帰するまで長期離脱する事となります。

しかし仁科投手もまたこの時期には調子を落とし、1982(昭和57)年は9勝14敗防御率4.40となんとか9勝したものの、1983(昭和58)年は5勝13敗防御率5.06に沈み、規定投球回数もやっとクリアできた感じでした。

ただしこの年にはハイライトがあり、9回2死までノーヒットノーランをしていながら、最後の打者になるはずだった相手に2ストライクからファウルチップさせながら捕手が取れずに、その後ヒットを打たれて大記録を阻止されました。

 

1984(昭和59)年は復活し3年ぶりの2ケタ勝利を挙げ、13勝11敗防御率3.71でキャリアハイの213⅔㌄を投げました。規定投球回に8度到達していますが、防御率3点台は1980年とこの年の2回だけで、あとは4点以上となっています。

この年も前年に続き、9回2死までノーヒットノーランを続けていながら、またも最後になるはずの打者にヒットを打たれて記録を阻止されました。

前年も今回もいずれも近鉄戦でしたが、9回2死でノーヒットノーランを2度阻止されたのは後に西武のエースとして活躍した西口文也投手とこの仁科投手の2人だけです。

 

 

昭和60年代

1985(昭和60)年は30試合で12勝13敗防御率4.32と数字は落としたものの活躍は続けました。この年にはエース村田投手が完全復活し、日曜日ごとに登板し「サンデー兆治」と呼ばれ17勝の劇的復活を遂げ、また荘勝雄という新星も現れ11勝をあげています。一方で1つ年上の水谷則博投手が2ケタ勝てなくなっていました。

 

仁科投手が最後に2ケタ勝利をあげたのは1986(昭和61)年の事で、142⅔㌄とギリギリの到達となり、25試合で10勝12敗防御率4.98というものでした。2ケタ勝利を5回あげていますが、うち4度は敗戦も2ケタであり、ひとケタ勝利の時も含めると7回2ケタ敗戦を記録しています。チームが強くなかったのもあり好投しても勝てない事もあり、それだけ先発として長く起用され続けていたのはあると思います。

また、35歳で10勝をあげたのは素晴らしいと思います。シーズン終盤の9月18日にあげた8勝目が通算100勝達成となりました。

この時期のロッテには村田投手、水谷投手、そして仁科投手と3人も100勝以上の投手が3人もいて、それぞれ37歳、36歳、35歳という高齢で構成されていた布陣でもありました。

 

晩年、引退

1987(昭和62)年は全試合先発しましたが、登板は18試合で7勝7敗防御率3.20で109⅔㌄の投球に終わり、1978年以来9年ぶりに規定投球回を割り込みました。

それでも4完投1完封を記録し、共にこの年が最後となりました。同じく翌年に引退する阪急・山田久志投手もこの年7勝7敗で、長年続けていた2ケタ勝利が途切れたり、同じような過渡期を迎えていたように思います。

 

1988(昭和63)年は先発は3試合のみで31試合登板という、一転してほとんどリリーフでの登板となりました。

優勝をかけた近鉄との激闘のダブルヘッダーとして歴史に残る「10.19」の第2試合にもリリーフで登板し同点を守り近鉄の優勝阻止に繋げました。また、その4日後が最終登板となり、この試合では自チームの高沢秀昭選手と激しく首位打者争いを繰り広げていた阪急・松永浩美選手へ敬遠球を投げています。

最終的には、わずか37⅔㌄というプロ入り最少の回数で、1勝1敗防御率4.06の成績を残し、37歳で引退しました。

 

タイトルには無縁でしたが、多くの年でリーグ最多を記録した与死球の多さが際立ち、通算142与死球は歴代5位の多さで、通算2,000投球回未満で10位以内に入っているのは仁科投手ただ一人です。アンダースローの投手に多くなりがちといわれますが、果敢に内角を攻めた証であるとも思いました。

 

 

その後ロッテのコーチなどを務めていましたが、2020年1月に亡くなったとの報が入り、ただ具体的な日付が不明のまま報じられていました。

 

↓1985(昭和60)年の選手名鑑より

前年復活して13勝をあげた時の成績と、通算成績が載っていますが、この時は80勝でした。

既に34歳になる年で、そこから30勝を上積みして通算110勝まで伸ばしたのは立派な現役晩年でした。

持病水虫とか書くの結構かわいそうですね(笑)

      

 

 

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