思い出のプロ野球選手、今回は水谷 則博投手です。 

 

1970年代から80年代後半にかけて、主にロッテで活躍し、貴重な左腕投手として長く先発ローテーションの一角を担い、通算108勝を挙げた投手です。

 

【水谷 則博(みずたに・のりひろ)】

生年月日:1950(昭和25)年4月27日
没年月日:2001(平成13)年11月29日(51歳没)

入団:中日('68・ドラフト2位) 
経歴:中京高-中日('69~'73)-ロッテ('73途~'88)

通算成績:476試合 108勝111敗2S 1,946⅔投球回 62完投 6完封 952奪三振 防御率4.01

位置:投手 投打:左左 現役生活:20年
規定投球回到達:8回 ('75、'78~'83、'86) 

オールスター出場 2回 ('75、'83) 

 

 

個人的印象

ロッテの先発投手、です。

そして貴重な左腕投手でした。

長く先発ローテで活躍しますが、同僚の村田兆治投手のような派手さや絶対的な存在という感じではなく、すごく淡々とした雰囲気を感じていました。

 

 

プロ入りまで

高校は愛知県の中京高校(現・中京大中京)でした。

1年生の夏には自身は出ていませんが、学校が春夏甲子園連覇を達成しています。

強豪校だったので、学校の甲子園出場自体は縁深かったのですが、自身が出場したのは、3年春だけで広島の広陵高校と当たった事もあり初戦で敗退しました。

 

1968(昭和43)年のドラフト会議で、中日から2位指名を受けて入団しました。

 

 

中日時代は0勝

入団時の背番号は「45」で中日時代は一貫してこの番号でした。

高卒でドラフト2位指名(この時の1位は星野仙一投手!)を受けての入団で期待度が高かったと思われますが、1年目1969(昭和44)年は一軍にこそ上がったものの、4試合で0勝1敗防御率10.80で5㌄を投げただけでした。

 

その後は2年間一軍登板がなく、2年目1970(昭和45)年はロッテがパ・リーグ優勝を達成しましたが自身は無縁で、4年目の1972(昭和47)年に3年ぶりに一軍に上がりましたが、2試合で⅓㌄に投げただけで防御率は54.00に終わりました。

 

5年目1973(昭和48)年は3試合で0勝0敗、防御率こそ0.00でしたが、4㌄を投げただけで、シーズン途中に佐藤政夫投手らとの2対2の交換トレードでロッテへ移籍となりました。

 

ロッテで開花

1973(昭和48)年、プロ5年目途中で中日からロッテへ移籍した水谷投手。移籍時の背番号は「50」と大きいものでした。

そして移籍していきなりプロ初勝利を含む3勝を挙げ、中日では19試合で初先発を含む2試合に先発し3勝1敗の成績を残し、ロッテでの実績と合計したこの年の通算は22試合で3勝1敗防御率3.30とし、初めて10を越える㌄で59⅔㌄を投げました。5年目にして実質戦力として活躍を始めたといえるでしょう。

中日では4年と少しで9試合0勝0敗で9⅓㌄しか投げておらず、トレードが大成功したといっても良いかと思います。

 

 

唯一の優勝

そして1974(昭和49)年は現役生活20年間で結果的に最初で最後の優勝経験となりました。1970年もロッテは優勝していますが、一軍なしだったので蚊帳の外でした。

前年途中のトレードだった事もあってか移籍時の背番号は50でしたが、この年から「10」を与えられました。

今年はリリーフとしてチームの優勝に貢献し、37試合に登板し2勝1敗1S防御率2.17の好成績を残し、前年同等の57⅔㌄を投げました。

中日との日本シリーズでも3試合にリリーフ登板し、ロッテの日本一の貢献しました。

 

 

先発ローテで活躍

1975(昭和50)年から本格的に先発ローテーションの一角で活躍するようになり、この年は32試合に登板し、9勝7敗防御率2.80で132㌄でプロ入り7年目にして初めて規定投球回数に到達し、初めてオールスターにも出場しました。

完投は1のみでしたが、この時が初完投で、完封は0でした。

この年、太平洋の兼任監督で翌年同僚になる江藤慎一選手が「全球団から本塁打」の記録を達成しますが、その時に投げていたのが水谷投手でした。

 

1976(昭和51)年は先発比重が減り、半分以上がリリーフとなり35試合で3勝4敗防御率3.50で72⅓㌄で昨年比半減となりました。完投も1975年以降ではこの年が唯一の0でした。

この年自宅に、当日試合のある球場を爆破するとの電話がかかり騒然としたといいます。いたずらだったようですが…。

 

 

ひとケタ勝利の続く時期

1977(昭和52)年は持ち直して37試合で8勝6敗1S防御率3.17でしたが、投球回は124⅔㌄と、規定投球回に僅かに足りませんでした。

1978(昭和53)年から2年間は5勝8敗、7勝11敗と推移し、投球回は131、137とギリギリ規定投球回をクリアし続けましたが、防御率は4.33⇒5.12と上がり続けていき、先発ローテーション投手として続けていきますが、まだ2ケタ勝利を達成できずにいました。1979年は2完封を記録し、この年プロ11年目にして初完封を記録しました。

 

 

2ケタ勝利を積み重ねる

1970年代後半に先発投手として定着するものの、なかなか「煮え切らない」状況が続いた水谷投手でしたが、1980年代に入ってからは数字的な成果が上がってきて、この30歳のシーズンからが彼の現役時代のハイライトといってよいかと思います。

そしてこの1980年から背番号が10から「11」に変わりました。

これは、巨人から40歳の大ベテラン張本勲選手の移籍に伴い、張本選手のイメージの強い10を譲る事になったといわれています。

 

という事で、1980年にプロ入り実に12年目にして初の2ケタ勝利を挙げ、35試合に登板し11勝9敗防御率3.49の成績を残します。

2ケタ勝利も初でしたが、投球回もこれまで規定投球回に到達した3度がすべて130㌄台のギリギリだったのに対してこの年は196㌄を投げて、初めて余裕のクリアとなりました。

勝ち星も投球回数もここからの4年間がピークで、1981年は12勝、82年は14勝とどんどん勝ち星をふやしていき、ここがピークになりますが、この1982(昭和57)年は彼の成績において特にハイライトとなる年でした。

この年は勝ち星がキャリアハイの14勝、そして投球回は唯一の200㌄越えとなる219⅓㌄を記録しました。また完投は毎年あまり多くなく、1980年の7完投がこれまで最高でしたが、この年はリーグ最多となる20完投を記録し、10を越えたのもこの年だけだったのでダントツの完投数でした。

また唯一の表彰といってよい月間MVPも9月に受賞しています。

エースの村田兆治投手が肘の故障により戦列離脱したので、その穴を埋めるのも奮闘の要因になったのかもしれません。

 

1983(昭和58)年はかなり荒れた数字になってしまいましたが、10勝14敗で防御率は5.35でした。14敗はリーグ最多で、被本塁打31本もリーグ最多でした。

この年は1975年以来8年ぶり2度目(最後)となるオールスター出場を果たしましたが、ここで優秀選手賞を獲得しています。

尚、2ケタ勝利はこの年の10勝が最後となりました。

 

 

現役晩年

1984(昭和59)年は34歳のシーズンでしたが、4年連続の2ケタ勝利と規定投球回到達が途切れ、27試合で5勝11敗防御率5.09で投球回は122㌄に終わり、わずかに規定回数に足りませんでした。

1985(昭和60)年はリリーフの方が多くなり33試合中16試合先発17試合リリーフとなりました。120㌄とやはり規定投球回数に僅かに足りず、9勝5敗防御率4.28でした。

 

1986(昭和61)年が最後の規定投球回数到達となり147⅓㌄を投げ、33試合で7勝10敗防御率4.83、完封もこの年が最後となりました。通算100勝をこの年に達成しています。

 

1987(昭和62)年が一軍出場最後の年となり、14試合で3勝1敗防御率4.38で投球回は、それまで10年以上120㌄以上投げていたのが、この年は49⅓㌄に終わりました。

既に37歳になっていましたが、それでも現役続行し、しかし1988(昭和63)年は一軍出場がないまま、38歳で引退しました。

通算100勝はクリアしましたが、2,000投球回と1,000奪三振はあとわずか、というところでした。

 

 

引退後はスカウトとして活躍しますが、2001(平成13)年に51歳の若さで亡くなりました。

 

↓1985(昭和60)年の選手名鑑より。

 右端が見えなくなっていますが、年数は⑰(17年目)です。前年(1984年)成績が5勝11敗で、通算成績は89勝95敗2Sとなっています。

最終的に100勝も100敗も越えますが、この後85~87年の3年間の実績を積み上げていきます。

ギターはプロ級、とありました。

中継ぎ転向、とありましたが実際この年はリリーフの方が多くなり、その後先発へ再転向しています。

      

 

 

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