思い出のプロ野球選手、今回は八木沢 荘六投手です。

 

1970年代を中心にロッテで活躍し、2度の優勝に貢献し、数少ない「完全試合」を達成したことがある投手で、後にロッテの監督になります。

 

【八木沢 荘六(やぎさわ・そうろく)】

生年月日:1944(昭和19)年12月1日
経歴:作新学院高-早大-東京・ロッテ('67~'79)

通算成績:394試合 71勝66敗8S 1,200投球回 23完投 6完封 567奪三振 防御率3.32

タイトル:最高勝率 1回('73)

記録:完全試合 1回('73.10.10)

 

 

●個人的印象

ロッテのベテラン主力投手、という感じでした。

名前が大変印象的ですぐその存在を覚えた記憶があります。

そして一番リアルで覚えてるのは、近鉄・マニエル選手へのデッドボールです。アコゴに当たって複雑骨折し、復帰後にマニエル選手がフェイスガードして打席に立っていたのも覚えていますが、その時の当事者だった投手、の印象が強いですね。

その時の記憶はすごくありますが、まさかその年に引退していたとは…と後で知り、これもまた驚きでした。

 

●甲子園優勝投手~華やかなアマ時代

作新学院高校の出身で、江川卓投手の大先輩にあたりますが、八木沢投手の頃の作新はまだ甲子園出場歴の浅い高校で、入学前の時点で甲子園へは夏に1回しただけでした。

2年になる春の選抜大会で甲子園に出場し、1年後3年になる選抜大会では、見事に優勝を果たしました。これが作新学院としても甲子園初優勝となり、その名を歴史に刻んだ投手でもあります。同年夏も連続出場し、当時史上初の甲子園春夏連覇を成し遂げてますが、この夏の大会では八木沢投手は検査に引っ掛かりまったく出場できませんでした。

 

大学は早稲田大学へ進学し、ここでも東京六大学での優勝に貢献し、更には六大学選抜メンバーで構成された全日本チームとしても優勝と、プロ入団前のアマチュア時代に華々しい球歴を誇っていました。

 

●ドラフト1位入団

甲子園、六大学、全日本とすべて優勝した輝かしい実績の中、1966(昭和41)年の、この年のみ実施された「第二次ドラフト」の1位指名を受けて、当時の東京オリオンズに入団しました。

 

●初期はリリーフ

華々しいアマチュア時代の実績を引っ提げてドラフト1位で入団し、即戦力で先発ローテで活躍したのかと思いきや、初期は殆どがリリーフでの登板で、毎年何十試合も登板しながら、先発は数試合ずつといった形で、当時はセーブ制度もなかったので、それがあれば何セーブ挙げたかは分かりませんが、数字上の実績はあまり派手なものはありませんでした。

1年目1967(昭和42)年は1試合のみで、2年目の翌1968(昭和43)年も6試合のみの登板で、2年目に初めて先発登板を経験したものの0勝1敗に終わり、初勝利を挙げたのは3年目1969(昭和44)年の事でした。この年は44試合に登板し、殆どリリーフで3勝2敗、初勝利も9回にリリーフしてのものでした。

 

●完全試合とタイトル

3年目1969年から戦力として頭角を現してきた八木沢投手ですが、その後も同様にリリーフを中心として、規定投球回に届く事なく30試合前後を投げ続け、1970(昭和45)年には初めての優勝も経験し、この戦力として貢献する事もできました。

 

そんな八木沢投手が初めて規定投球回に到達したのが7年目の1973(昭和48)年の事でした。それも130 1/3回とギリギリでの到達でした。

そしてそれまでリリーフを中心に派手な実績をあげてきた訳ではなかった八木沢投手がこの年2つの勲章を手にして、「最良の年」となりました。

ひとつは「最高勝率」です。

7勝1敗という成績での最高勝率獲得となり、「7勝」でのタイトル獲得は史上最少で、現在の規定では、最高勝率は「13勝以上」となっており、このままである限りまず塗り替える事の出来ないプロ野球記録です。

そしてもうひとつは「完全試合」です。

先の「最高勝率」獲得となる勝ち星を挙げた試合で、ナント完全試合を達成したのでした。しかもこの時がプロ入り初完封の試合でもあり「プロ初完封が完全試合」というのは当時史上初の記録でした。

去年、ロッテで佐々木朗希投手が完全試合を達成し、2試合連続完全試合なるか!とまで注目されましたが、そのロッテで前回完全試合を成し遂げたのが、誰あろうこの八木沢荘六投手だったのでした。

しかもこの完全試合は、2023年までのすべての完全試合の中で唯一、カウントが3ボールまでいかなかった、という素晴らしい完全試合でした。

 

●2度目の優勝、初の日本一

そんな最良の1973年につづき、1974(昭和49)年は自身が入団して4年ぶり2度目の優勝、そして初めての日本一を経験します。

この年は自己最多の8勝を挙げましたが、規定投球回には達せず115㌄でした。この年からセーブがカウントされ2セーブが記録されています。この年は37試合登板で先発が12試合と、それまでよりも幾分多めで、この時期から先発をするウエートが高くなってきて、30歳を過ぎてから本格的に先発投手になっていった格好です。

日本シリーズではリリーフでの登板で登場し、日本一に貢献しました。

 

●遅咲きの先発投手

1975(昭和50)年は2勝5敗に終わりましたが、20試合登板のうち約半数の9試合に先発しています。

本格的にブレイクしたのは32歳になる10年目の1976(昭和51)年で、この年からコーチ兼任となっていますが、ここで15勝9敗1Sと自身のキャリアハイの成績を残しました。コーチ兼任になると大抵は自身の出場機会は減り、程なく引退となりますが、そんな年にそれまでにない素晴らしい成績を残すのは珍しいパターンですね。

この年から引退前年まで先発登板の方が多くなります。

翌1977(昭和52)年も11勝14敗1Sと2年連続で2ケタ勝利を挙げました。

彼のキヤリアで2ケタ勝利を挙げたのはこの2年間だけというのがかなり意外でした。

 

●引退、また引退

1978(昭和53)年は5勝6敗3Sで、規定投球回もわずかに足りず、2ケタ勝利も逸してしまいました。

まだやれる成績だとは思いますが、当時の金田監督から引退を勧告されたといいます。結局は投手陣のリーダー的存在であるとする現役選手陣からの猛反発に遭い撤回されたともいいます。

1979(昭和54)年は、因縁のマニエル選手へのデッドボールがありながらの4勝8敗1Sで、28試合に登板しましたが、この年は久々にリリーフ比率が高くなっていた年でした。まだやれる成績ではありましたが、この年限り35歳で引退しました。

 

 

引退後は、ロッテだけでなく色んな球団でコーチを歴任し、ロッテ監督にもなりましたが、その後でもコーチとして各球団を渡り歩きました。

 

 

 

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